【映画の感想】トイ・ストーリー4

(前半はネタバレなし、後半はネタバレありです)
※フィルマークスに投稿した感想の転載

他の映画を見ようと映画館に足を運ぶと、かなりの確率であまりに情報量の少ない予告編を見せられ、「これはきっと"何かある"作品だな」と虎視眈々と公開を待っていた本作。30代男性ですが見てきました。一人で。

前作で持ち主が変わってしまったウッディ達のその後から始まるストーリー。おもちゃである以上、サザエさん空間でない限りは「持ち主がおもちゃから卒業してしまう」ということがどうしても付いて回るけれど、そこから逃げずに描き切ったトイ・ストーリー3も記憶に新しい。

「最近あまり遊んでもらえなくなったウッディ」「持ち主自身の手で作られながら、自分をゴミだと思っているフォーキー」そして「自分なりのあり方を見つけたボー・ピープ」「寂しさを抱えたとあるギャビー」がそれぞれの思いを抱えながら相互に影響を与え合う姿は妙なリアルさがあり、「おもちゃであるからこそ逆説的に人間の苦悩をメタファーとして描ける」という画期的な視点は彼らの悩みを「自分ごと」として考えさせられる。おもちゃとしての彼らは、おもちゃだからこそより純粋な形で人間の悩みを表現してくれる。

「想像を超える結末」なのは公式自身が煽っている通りで、トイ・ストーリーへの愛が深いほど衝撃度は高くなるはず。本作が積み上げてきた世界観を思えば、「あなたはまだ、本当のトイ・ストーリーを知らない」というキャッチコピーも頷ける。

しかしおそらく議論になるのは、まさにこのキャッチコピーの「本当の」の部分だろう。
僕らが見て、愛してきたトイ・ストーリーが本作で提示する答えは僕らが求めるものなのか、それとも僕らの期待を超えて別の着地点へ連れて行くものなのか。
しばらくはいろいろな人の考察、感想を注視したい。そんな楽しみ方ができるだけでも、見る価値はある。

(以下スペースの後にネタバレあり)

まず、これは評価が難しいものを作ったな…というのが正直な感想。

僕の中にあるトイ・ストーリーの物語の核には「おもちゃ達は子どもを最大限に尊重し、愛する存在である」という大前提があり、さまざまな葛藤は描かれつつも最終的には守られてきた原理原則だったように思う。

しかしそれは、見方を変えれば「自分以外の他者に存在意義を委ねている状態」であると言えなくもない。持ち主の子どもが自分で遊んでくれるかどうかで、自分の価値が決まってしまう。それを端的に表すシーンが、冒頭の「最近遊んでもらえなくなったウッディ」。

彼はそれでも子どもの役に立とうと奮闘する(フォーキーの面倒を見る、という形で)けれど、アンディと一緒の頃より大変だ、と愚痴をこぼしてしまう。それでもめげないのは「内なる声」がそう囁くから。この内なる声は、「本心」という形で終盤のウッディの決断と呼応する。

ウッディは、特定の持ち主を持たない生き方を選択したボーとの再会を通じて、自分なりの生き方、自分が本当にしたいことは何か、ということを考え始める。そしてクライマックスで行われる決断は、「おもちゃである」という根本的なアイデンティティへの挑戦であり、自分の生まれとは関係のない、自分で自分のあり方を決める重大な意思決定。

生まれながら子どもの遊び相手であることを宿命づけられたおもちゃですら、自分で自分の生き方を決めている…というのは、相当に強いメッセージだろう。

それと対応するように描かれているのがフォーキーとギャビー。ギャビーは与えられた環境の中で、ウッディを傷つける行いをしてまで子どもに愛されようとし、それが叶わないことで失望する。そしてウッディから促されて新たな持ち主の元へ向かおうとするものの、ウッディ同様に「自分で見つけた自分の居場所」の方を選択し、違う道をゆく。

生まれたばかりのフォーキーは生まれたところに帰ろうとするような未熟さを抱えているけれど、この姿もウッディの内心に大きな影響を与えたことだろう。「なぜ自分の生まれにそんなにこだわるんだ?」と。

ボーがヒーローのように描かれているのも、ディズニーが最近注力しているジェンダー的視点としてしっかり機能しており、苦悩する男性を格好いい女性が導くという姿を納得感のある描き方で実現している。これもまた、「生まれによって定められた役割からの脱却」の一つ。

つまるところ、本作は「他者から与えられた役割からの脱却と、自分のあり方を自分で決めること」というテーマについて、複数のキャラクターを通じて徹底的に描いたものであり、それはこの映画自体が「観客から期待されるトイ・ストーリーっぽさ」から脱却し、描きたいものを胸を張って描いたという点でも一貫している。

そんな前提に立つと、「本当のトイ・ストーリー」とは何かという問題が難しくなってくる。冒頭で述べた原理原則は、もはや制作陣のものというより観客のものになっているからだ。ウッディの選択を肯定するのであれば、観客の期待におもねるのではなく制作陣が作りたいものを作ることが肯定されるべきということにつながり、これが本当のトイ・ストーリーなのだと言われれば返す言葉はなくなる。

これは子ども向け映画としては相当な英才教育だろう。ウッディはフォーキーにゴミ箱から離れるように求めたが、観客席にいるフォーキー達にはより高いレベルの自立を求めることになるからだ。

思想的には正しい面もある。しかし「こんなテーマをトイ・ストーリーでやるべきなのか」という疑問は出てくる。さりとて「これまで世界観を積み上げてきたトイ・ストーリーだからこそできる」という視点もよくわかる。

個人的には、テーマに対する制作陣の真摯な物語づくりと、これまでのフォーマットを守っていれば難なく成功できたところをあえてチャレンジした勇気、そしてこれだけ考える余地を与えてくれたという点で高評価。

純粋にトイ・ストーリーのあり方を愛してきた人にとって受け入れられる作品なのかは疑問が残る。しかし、受け入れられなくても自分達がやりたいことをやるんだ、という姿勢自体が僕としては敬意の対象だし、みんながそういう姿勢になった世界の方が面白そうではある。制作陣が目指したのは、そういう世界なのかもしれない。

#トイストーリー4

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