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35歳躁鬱女(ADHD持ち♡)の人生を振り返る〜幼少期編〜

こんにちは!
僕の名前はアヤずん!
大阪なんばでマッチングアプリカメラマンをしたり、YouTube運営をしたりTwitter運営をしたり、恋愛や就活のコンサルいろいろやったりしている、とっても暇な独身女です。本業は某法人(事務職)勤務で、ただいま諸事情により休職中ですzzz…
元、市役所職員・県庁職員、警察職員というお役所大好き狂だったりもします🤩(うーん、大学職員とかもやってみたかったけど、こちらは試験に落ちましたのだ😂)
趣味は就活(公務員以外の経歴もありますのだ!)とフットサル(最近全くしてない)とYouTube制作です。

僕は双極性障害という精神疾患とADHDという発達障害を両方もっているのだけれど(双極性障害と発達障害の合わせ技は非常に多い)、愛すべき愉快な仲間たちの協力をへて、愉快に生きておりますのだ。

僕が僕呼びだったり、のだのだ言ってるのは、ずんだもんっていうキャラクターが好きだからなのだ!

パソコンにもずんだもんシール貼ってるのだ!

Twitterもやってるので(以下参照)よかったら覗いてみてね!!

アヤずんっていう自分が日々生きていて感じたことを垂れ流すツイッターや➡︎https://x.com/ayazun_

大阪マッチングアプリカメラマン📸アヤっていう集客用なのに、こちらもお気持ち表明しがちなツイッターをやっております。
➡︎https://x.com/ayasannohakaba

んあ〜〜、今日はアヤずんの人生について綴ろうと思うのだ。
たぶんそれなりにバラエティに富んだ人生を送ってるような、別に普通の女の子➡︎オバサンになっただけのような、そんな気もするけど、
まぁいいや。
とりあえず暇だし語っていきたいと思いますのだ!!

ではでは、いってみよーー!!


1.誕生

あやずんは1989年2月18日生まれです。
ちょうど平成になった歳に生まれました。

お母さんは29歳、お父さんは34歳、ちょうど1年前にお見合い結婚して、そうしてわりとすぐに妊娠したんでしょうね、翌年には僕が生まれましたのだ!

出生の時の話は知らないけれど、両ジッジバッバにとっても初孫であり、おじおばにとっても初の姪っ子でした。(おじおばまだ20代で結婚とかしてない)

知らないけれど、それはそれは大層あやずんの誕生をみんな心から喜んでくれたことと推測します。
知らないけれどね(笑)

マッマとパッパと僕の3人暮らしで京都の小さなアパートに住んでいたのだけれど、わりと近所にパッパの親の家(一軒家)があって、まじで毎日日中にジッジ(母にとっては義理の父)がアヤずんの顔を見にこようとするので、「嫌すぎてしまいには居留守使ったわ」と母は言ってました。

距離感おかしめなジッジで草。

さて、アヤずんの最初の記憶は2歳のときです。アパートで家の前をお気に入りの赤い三輪車でギコギコ漕いでたら、目の前の草やぶの中に突っ込んでいってこけて、うぇええええんびぇえええええええんって泣いたのが私の初記憶です。

そうです。アヤずんは昔から異常に不器用な子だったのです。
このときも「なんかこのまま行ったら草やぶに突っ込みそうだな」って内心思ってたのですが、そこを回避する技術を持ち合わせてないあやずんは、見事草やぶに頭からぶっこみ、ママずんの助けを得たのでした。

2.気短かすぎンゴwwwwな母と、おおらかのんびり者の父

正直いって、私の家族は私も含めて、みんなどこか変です。
アヤずんのマッマは、マッマが小学生のときに家族みんなで入信した新興宗教の熱心な信者で、大学時代は布教活動ガチりすぎて全国を飛び回り、その交通費に圧迫されビンボー暮らしを経験し、単位落としまくりンゴwwwで大学5回生になってしまい、ジッジ(マッマの父)に「学業が疎かになるんやったら、宗教なんてやめちまえー!!!」と怒鳴られたそうです。マッマのイモウットから聞きました。この時、ジッジはこの宗教(娘と妻がのめりこんでる状態)に懐疑的だったのですが、そんなジッジも僕が生まれたころには、この宗教の熱心な信者になっていました。草。

マッマとパッパはお見合い結婚なのですが、付き合ってる最中にある日突然パッパは謎の集会所に連れていかれたそうです。パッパは「な、なんじゃここは〜?!」と思いましたが、パパずんのおうちも色々抱えたおうちで、パパずんの親と同居してくれる嫁を探していたのでした。しかもパパずんの父の妹が独身で家に一緒に住んでいます♡
釣り書き(釣書とは、縁談があった際に相手と互いに渡し合う書面のことで、「つりがき」あるいは「つりしょ」と読みます。一般的には、釣書とは関西圏での言葉であり、関東圏では「身上書」と呼ばれているものです。就職に例えるならいわば履歴書、釣書に書かれてあるプロフィールやイメージ次第で、お見合い話の展開も変わってきます。)に叔母の存在を示すと、お見合い相手の女は決まって逃げていくことが判明したので、マッマとのお見合いでは登場させないようにしていました。

そしてお付き合いしてから「実は、、、叔母が家にいまーす⭐️」と後出しじゃんけんしてみました。マッマは「え?どうする?ここほんまに嫁にいく?なんか家族形態やばそうやねんけど、ひそひそ」と自分の親たちと家族会議を開きましたが、「もうワイ27で行き遅れてるねん。1年以内には結婚したいねん。相手また探すのだるいから、別にこいつでええわ。叔母と同居みたいやけど、まぁなんとかなるやろ!!」と、現実を受け入れる力が高めのハッハは了承したのでした。(昭和62年ごろの話)

父は父で一人息子だったので、結婚相手を見つけて、あやずん家の跡取りを残すことが責務でした。あやずん家はちょっと古臭い家なので、もともと父は彼女がいたそうですが、家柄がよくないとかで(おそらく部落の人)わいのおばあちゃん(つまり父の母)が別れさせたそうです。父は1週間おばあちゃんと口をきかなかったみたいだけど、「うーーん、まぁ長男で一人っ子やししゃあないか。おふくろとうまくやってくれる女性を探すしかないか」ということで、そのターゲットとなったのが、母ずんだったのでした。

父にもそういう事情がありましたので、謎の集会所に連れていかれてみんながお祈りしているのをみて「なっなんじゃここは〜?!??!えらいとこ連れてこられたぞ(汗)」と思いましたが、こちらも現実を受け入れる力が強めの父は「まぁ、しゃーないか」と思って入信しました。
ちなみに父の家は宗教大嫌いなので、父はひとりでこっそり勝手に入信しました。ママずんと結婚するためにやむなし!!だったようです。

ママずんは、パパずんのこと「こいつドモリやし頼り甲斐ねぇーなー」と思っていましたが、入信してくれたので「これ、結婚するしかしゃあないな^^;」ということで二人は無事に結婚にいたりました。

ちなみに父はデートの際、財布を出すそぶりすら見せない母のことを「ちょっとはお金だしてくれよ・・・(ちなみに父は手取り13万)」と思ったそうですが、母は「お母さんアルバイトしかしてへんかったから、正社員のお父さんが出すのが当然やん!」と悪びれずに言っていました。時代性が出ていて草。

ちなみに結婚式当日は「あーーわたし、本当にこの人と結婚するんかーーー(無の境地)」と母はなっていたそうですが、私の目からみたら幼少期の父と母は仲がよかったし、今でも仲良くみえます。
(父がいつも変なことを言って母がブチギレています。夫婦の会話がずっとある家庭なので、それなりに愉快です)

まぁ、なんでもいいですが、二人は結婚して、すぐにあやずんが生まれました。

あやずん0歳のときの思い出としては
父いわく「俺とマッマ、朝から喧嘩したんや。で、俺仕事いかなあかんから、「もういくわ!」って言ったら「待ちなさい!!!」ってマッマが鬼の形相で抱えていたアッヤ(0歳)を床に落としたんや。あやずんギャン泣きで「うわあああ!何するんやぁあああ😭」って思ったんや。あの時はほんまびっくりしたわ〜〜」
と言っていました。

ママずんに聞いてみたら「えー、覚えてないわ!なんもあんた後遺症残らんと元気でよかったな!hahaha!!(*^◯^*)」と言っていました。

そうです。ご覧の通り、母はめちゃめちゃ気が短いのです。
小さいときはよくぶたれていました。一応あやずんが悪いことしててぶってきてたのでしょうが、一度パパずんが「やめてあげて〜〜😭」とあやずんに覆い被さってくれて、ママずんの攻撃から守ってくれたことを覚えています。

あやずんが小6くらいになって、ママずんと身長が近付いて(ママずんは150センチしかありません)ママずんの攻撃をやりかえすようになり、一度取っ組み合いの喧嘩をしたので、それ以来、ママずんが手をあげてくることはなくなりました。

ママずんは大体のことを忘れているタイプなので、アヤずんをぶちまくってた過去など、まるで忘れているかと思われます。

しかしながら、今の価値観で虐待やーー!!などというのは違うかなと思うのです。当時はクレヨンしんちゃんで、みさえがしんのすけのおしりめくって、直接ペシペシ叩いているような時代でしたから、親が子供をしばくなんていうのは当たり前だったのです。

それに、わたしのところは父上が死ぬほど優しいのでお父さんから一度も怒られたことがないし、お母さんがぶちぎれていようと、お母さんが向こう見ているときに、お父さんは「お母さん、コレ(鬼のポーズする)やな!」と言って私を笑かしにきていました。
だから、そんなにお母さんが怖いと思ったこともないように思います。

それに一番面倒をみてくれていたのはお母さんだったから、結局のところ、私はわりとお母さんにべったりだった気もします。

このあたりは、まぁ当時よくいた子供って感じでしょうか。

違っていたのはただひとつ。
お母さんの信仰する宗教の関係で、僕は35歳になる今まで予防接種を打ったことがありませんし、風邪薬も飲んだことがありません。
注射は毒!!!薬は毒!!!!!!という思想のもとで育ったのです。

この思想は現在、双極性障害と診断されている僕にとっては死活問題であります。
だって双極性障害って一生薬のまなあかん障害やもん。
寛解はしないから、ずっと死ぬまでお薬のまなあかんの。

”薬は毒!教”で育てられてきたのに。

だから実家に帰っちゃうとお薬飲めなくなるから、僕はなんとしてでも一人暮らしを継続しないといけないという事情がありますのです。

お母さんとお母さんの一族は熱心な新興宗教の信者だったけれど、2歳のときから同居し始めた父の家族(特に父の父つまりおじいちゃん、そしておじいちゃんの妹)が宗教大嫌いだったことが僕の人生において辛い板挟みとして刻まれていたりもします。

3.母と宗教

母の人生は母が信仰する宗教によってできています。64歳になった今でも熱心に活動してはります。
お父さんも結婚前にお母さんの父親から「あの子にとっては宗教が人生やから、それが理解できひんねんたら結婚はしんといてあげてほしい」と言われたそうです。それくらいお母さんにとって宗教は大切なのです。

だから私は母が信仰する宗教を否定したくはありません。
大人になっていろいろ突っ込みたい教えは多々あるのですが、否定するとお母さんの人生そのものを否定することになるので、それはできないのです。

でも、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会人になって働き始めてから、そしてパパずん一家と同居しているのにパパずん一族が宗教大嫌いだったこと、お母さんの信じるものと、社会の考え方の違いの板挟みで、あやずんはそれなりに「んーー!!しんど!!!」と思ったりもしてきました。

そのことについては次回書きたいと思います!!

読んでくれてありがとうなのだっ♡

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