飲み込まれる人の気持ち、分かるから
「りりいは6000円、私達2人は1人3000円」飲み会の精算で許可していない傾斜をかけられる。私のお金の使い方は、私の自由であるはずがそうはならない。働く選択肢をせず専門職で不自由のない生活をさせてくれる夫の主婦を選んだのは彼女なのに。働いている方が払うという合理的理由のないルールに泣きをみても何も言えない。
友達に呼ばれて彼女主催のイベントを見に行った。チケット代2000円は良いとして、終わった後に要求されたお賽銭。これもお断り出来なかった。
学生時代は理不尽な傾斜はなかったし、彼女たちの性格は好きだから言えない。だから私は圧に負けて言えない人の気持がよく分かる。
休暇の後、職場で起こる「お土産くれ」レベルの圧にさえ私は負けるのだから。
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大切な人を失う等の何らかの悲しみや生きていく苦しみを誰かに分かってもらいたいが、悲しみや苦しみを引き受けてくれる人なんていない。そんな時、話を聞いてくれた。お礼を頼まれた。断れない。
そこから抜けられなくなる。
どこかで止めなければならないが、止める気力もいつの間にか喪失している。まるで抜け殻のように、彼らの「寄こせ」の圧に吸い取られた。
悲しみや苦しみを自己処理できず、縋ってしまう人もいる。だから、行為者に犯罪を成立させ、人から奪うノウハウを持つ者が利益を得る社会を創らないようにする。それが法の在り方なはずではある。
しかし、リアルはとある宗教団体に献金した人が悪い、断れなかった人がおかしい。
となっている。
騙し盗った人がおかしくて、騙し盗った人が悪いのではないか?
断れない被害者に落ち度があったとしても、被害者が悪とはならないはずだ。
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壺を不当価格で購入した損害は、利益を得た人が不当利得の返還として被害者にお返しすれば良い。これが民事。
さらに価値について騙した人には、詐欺なのだから法の裁きを受けていただくまで。これが刑事。
なぜ被害者を社会に戻れない程までバッシングすることが「正しいこと」になるのだろう。
確かに被害者自身が変わらなければ、また被害に遭う可能性もある。しかし、変わるかどうかは被害者の自由な意思決定によるべきで、他者による非難の的となるものではない。
非難には侮辱罪、名誉毀損罪が成立するのに、
非難する当人はそれを正義という。
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私は何かに縋りはしないが、圧に負けて支払いをしてしまいどっと疲れることがある。他人が求めるお金を欲しがる、得をしたがる欲を拒絶するパワーは並々ならない。欲しい欲を発揮するのも彼女達の才能なのだろう。それがプロの手にかかれば、どれほど強固なものか、想像を絶する。
私は自分が精一杯働いたお金を彼女達のお小遣いにしたくなかったし、使うなら自分の意志で大切な人のために使いたかった。きっと被害者も当初は同じ気持ちだったのではないか。
いつの間にか、理不尽さへの苛立ちすら消えるほどに洗脳されたのではないか。
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法は行為に対して犯罪を成立させ、犯罪を辞めさせようとしている。被害者の落ち度に犯罪を成立させ、被害者を賢くすることで犯罪をなくすようにしているものではない。
しかしいつの世も、被害者がバッシングに遭う。
誰でも誰かの欲に負けて理不尽な支払いをしたことがあるのではないか。その苦しみを、被害者を罵倒することで解消したいのか。それとも被害者を嘲笑いマウントが欲しいのか、ストレス発散か。
誹謗中傷をする加害者の意図は分からないが、被害者バッシングであなたの欲しいものは手に入らない。とったマウントは哀しい人間であることの象徴と、侮辱罪を冒した犯人とのレッテル。
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被害者が被害に遭ったと話しても社会から孤立しないように。
そして次の世代はより健全な社会になるように。
自分はバッシングしている貴方に伝える。「いい加減やめなよ、被害にあった子、子供の頃、仲良かったじゃん。事情を知ろうともしないで悪く言うの可哀想だよ。」
言葉が通じることを祈って。