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遺言と思ってと言われた〜自分のために働く

その日、会議室の椅子に座る私には、意見を主張することが許されない空気で、ガラスに映った姿はまるでアンドロイドか置物のようだった。そうなると、準備していた共同開発のフローチャートを投げ捨てたくなり、やる気とか情熱の灯火が消えそうになった。しかし、そこで深呼吸をし、言うべきを主張出来るのは、思い出す言葉があるから。
「あなたは何がやりたいの?会社のためではなく、自分のために働きなさい。これは、俺の遺言だと思って忘れないで。」
そう伝えた強い言葉とは裏腹に、私を見つめる前職の役員の目が、馬のように優しかった。
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例え組織が担当者制となって役割分担を明確にしても、自分の領域を拡大し、政治力を手にしようとする者が越権行為に及べば、仕事なんて簡単に奪われ、私は消される。どんな会社にも「我こそが」と、センターで踊りたい人は、少なくないのだ。
権力者の発言は間違えていても正しくて、声の小さい者の発言は正しくとも相手にされないか、権力者の発言にすり替えられる。そんなことが度々あると、仕事がどうでもよくなってしまう。会議に外されても発言を無視されても、苦しい思いを飲み込めば良いじゃんと。新入社員の頃の私なら、「会社のためなら、自分を殺すのもやむを得ない」、会社にとっては誰が成したかは無関係だろうと諦めて、影武者になっていただろう。
しかし、影武者となったとき、私は悔しかった。自分の成果が、簡単に取られてしまったのだから。私の知識と教養は、私が社会で生きていくために使うのでなければ、意味がないのだ。
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勿論、会社にとっては政治力ある者の発言が正しければ運営が楽で、縦割り組織を成功させられる。それで良いかもしれない。
しかし、私はバーターや影武者となるために働くことに幸福を感じない。培ってきた知識と教養は、自分が活躍するためである。そして、活躍によって信頼を手にし、仲間が作れる。こうして、地球の片隅に自分が生きていく居場所を得てこそ、安定して活き活きと生きていくことになるだろう。そこで発生する賃金は、諦めの対価ではなく、活躍の証となる。

仲間外れや成果の略奪といった意地悪が続くと、声を上げることが辛くなる。
「自分も打ち合わせに呼んでください。」という当たり前の事を言うのも、
「コンプライアンス意識調査の企画を通したのは、あの人じゃなく私なので、あの人ではなく私を会議に入れてください。」
と伝えるのも、億劫になる。

しかし、私は、私のために働かなければならない。自分の居場所を作って、社会で生きていくという目的を思えば、伝えることは、自分の人生を諦めることよりは簡単ではないだろうか。
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「横からすいません。共同開発した成果の実施について、優先実施権の規定が必要です。画面、もらいます。」
周りが私の見解をどう思おうが構わない。ただ、主張を出来る自分は、諦める自分より好きだし、自分のために働いている気がする。

こうやって、1つずつ認めてもらい、1年半かけて、ゆっくりと私は居場所を作ってきた。何度も辞めたいと思ったが、続けていたのは、自分のために働くとの言葉のお陰で、自分のために働くことが出来ていたからだろう。
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1つ目諦めれば、1つ堕ちて、いつの間にか底につく。諦めることは悔しいことで、吐き出せなかった言葉のせいで募った思いは愚痴となる。そうすると、自分を取り囲む人々は、愚痴を話す集まりだろう。もしかすると、愚痴ばかり話す職場ニートでいることは、楽かもしれない。
しかし、そんなところを居場所とするために、私は努力してきたのではない。精一杯やってきた過去の自分があまりにも可哀想と、思い直すことが出来るのは、「自分のために働く」との言葉があったから。
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組織の中にいると、自分を消さなければならないと思ったり、声を出すことを諦めそうにもなる。しかし、自分のために働いている以上、その選択肢は取りようがない。
「遺言」とまで言って、私の心に残して下さった言葉は、諦めたくなる毎日を諦めないように支えてくれている。だから、「自分のために働く」という言葉は、忘れられない上司の言葉である。

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あやとりりい
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