2度の流産を経験して娘が産まれてきてくれた話 (30歳新米パパの視点から)
はじめに
2023年の夏に待望の娘ちゃんが産まれました。
娘が産まれてからの毎日は本当に幸せで、
私たち夫婦の心に空いた穴を、日々娘が埋めていってくれているのを実感しています。
私たち夫婦は2回の流産を経験しました。
これまで人生で経験した中で、最も辛く苦しい経験であったことは間違いありません。
一方で、多くの人に支えられ、愛情を感じた経験でもあり、
夫婦の絆がより一層深まった日々であり、
何より失った我が子たちとこれから産まれてきてくれる我が子への愛情が強まった日々でもありました。
この2年の間で経験したこと、考えたこと、感じたこと、調べたことを記録に残したいと思います。
この記事は非常に長いですが、軽い短編小説を読むくらいの気持ちで気長に読んでいただければ幸いです。
この記事を書く理由
この記事を書こうと思った理由は大きく3つあります。
同じ経験をした/する人たちの助けに少しでもなって欲しいから
私たち夫婦は3回の妊娠・2回の流産を経験した中で多くのことを調べました。
その中で多くの同じ経験をされた方々の体験記も拝見し、
様々なことを学び、時に慰められ、時に勇気をいただきました。
私が書くこの記事が、同じ経験をされた/これからされる誰かにとって、
少しでも助けになれば嬉しいです。流産だけでなく妊娠・出産に対する知識をより多くの人に知って欲しいから
正直私は1回目の妊娠そして流産を経験するまで、
妊娠・出産に対する知識もほとんどなく、関心も薄かったです。
この期間があったからこそ妊娠から出産に至るまでのことであったり、
妊娠・出産に関する国や会社等の制度の現状とこれからについて、
学ぼうと強く思うことができました。
私が得たものを皆さんに知ってもらうとともに、
より多くの人に関心を持ってもらいたい想いがあります。この2年間で経験したことを自分の中で風化させたくないから
この2年間の経験を通して、最後に残ったものは
「夫婦の絆」、「周囲の方々への感謝の想い」、
そして何より「最愛の娘と娘への愛情」でした。
これから夫婦で育児をして、家族として過ごしていく中で、
また色んな経験をしたり、時に辛い経験をして時間が経過していく中で、
どうしても風化したり、忘れていく感情があると思います。
そういった時に、立ち戻る場所として今の気持ちを記しておきたいです。
どこまでいってもこの記事は私の自己満足です。
そして何より私たち夫婦は幸いにも娘を授かることができましたが、
この記事を読もうと思ってくれた方の中にはまだ他人の出産を受け止めれきれない方もいると思います。私もそうでした。
そういった方は、ここで読むのを辞めていただくか、2人目の流産までの体験記を読んでいただければと思います。
この記事の構成
記事を書くに当たって、どういった構成にするのか悩みましたが、3回それぞれの妊娠ごとに体験記形式で時系列順に書かせてください。
その中で、知ったこと、感じたことについて書いております。
また、2年間の体験記をこの1つの記事の中で一気に長文でつらつらと書いています。
ピンポイントで特定の体験や知識を得たい方、
短時間でパッと読みたい方にとっては非常に不向きなものとなっておりますが、ご容赦いただきたいです。
コメント欄などでご要望いただけるのであれば、その特定のことに関してのみの別の記事を端的に書かせていただければと思います。
本来の使い方とは異なりますが、調べたり聞いたりして得た知識については出典なしの引用を用いて少しだけわかりやすく記載しております。本当の引用の場合は、出典を記載しております。
自己紹介
遅れましたが、出産や制度の話の中で年齢や会社、住んでいる場所が少なからず関係するため、少しだけ自己紹介をさせてください。
私は2023年現在30歳の新米パパです。東京都在住で、IT系の会社に勤務しています。妻は同じ会社の先輩です。
年齢は私の3つ上の33歳で妻が30歳になった日に結婚しました。
1人目を妊娠した時点で世界では新型コロナウイルスが猛威を振るっており、
勤務体系としては夫婦そろってほぼテレワークという状況でした。
1人目(さんちゃん)
妊娠
1人目の子を妻が妊娠したのはちょうど2年前の2021年の夏でした。
妻が31歳の時です。
3月末に新型コロナウイルスで1年延期した結婚式を無事上げることができ、
新婚旅行は世界情勢的に難しそうであったことと、
新居のマンションの売買契約が無事締結したのでいいタイミングだと思い、
タイミング法で妊活を開始して、幸いにも1月目で妻が妊娠してくれました。
正直1月目で妊娠するとは妻も私も思っていなかったのですが、
妻が最近お酒が美味しいと感じない、生理もきてないということで、
少し浮足立ちながら近所の薬局で人生で初めて妊娠検査薬を買ってきました。
妻に検査してもらうと、赤い線が2本 : 陽性 = 妊娠 の反応でした。
この時、正直まだ自分に子供ができるんだ、パパになるんだという実感はあまりなかったのですが、やはり"嬉しい"という率直な気持ちが確かにありました。
まだすぐにはどこの病院で出産するのかは決めず、
数日後に妻が普段利用していた近所のレディースクリニックで診察してもらった結果、無事胎嚢を確認することができ、妊娠が確定しました。
まだ胎嚢ですが初めてエコー写真を見ることができ少し実感が湧いてきました。
お互いの親にもこの時に報告していました。
分娩する病院の決定
その後、出産する病院について2人で調べました。
その時住んでいた家と、来年竣工後に引っ越し予定の新居は同じ区でさほど離れていなかったので、新居の近くで探しました。
妻は無痛分娩を希望しており、私も自分が出産するなら絶対無痛がいいというのは十分すぎるほど理解できたので、無痛分娩可能な病院で探しました。
3つほど候補の病院があり、口コミ等も少し参考にしながら決定しました。
電話で分娩希望であることを伝えつつ、妊婦健診の予約をしようとすると、(ちょうど出産予定日がGW中だったこともあったのかもしれないですが)無痛分娩はもう枠がいっぱいなのでキャンセル待ちになるとのことでした。
少し悩みましたが、この病院にしようというのは2人で決めていたので自然分娩(無痛分娩キャンセル待ち)で分娩予約をしました。
余談ですが「出産時の痛みを知らないと子供を愛せないから無痛分娩はだめ」という考え方があることをこの時に知ったのですが、
百歩譲って実際に痛い思いをして出産する母親が言うのであればわかります。
でも父親側がそれを言っちゃだめだろうと思いますし、ということは「あなたは子供を愛せないってことですか?」ってなります。
心拍確認
コロナ禍のため分娩する病院の妊婦健診は夫でも付き添い不可だったのと、平日なので仕事と重なってしまい申し訳ないですが妻1人で行ってもらいました。
初診で妊娠7週目でした。
この時に心拍が確認できました。「ちゃんと生きてるんだ」とまた少し実感が湧きました。
またエコー写真が増えました。次回の健診は2週間後とのことでした。
この時私は、この子が流産するなんて夢にも思っていませんでした。
自分についに子供ができた!心拍も確認できてちゃんと生きているんだ!と舞い上がっていました。
そして仲の良い友人の何人かにはこの時点で妊娠について話していました。
妻も同意のもとで、妻との共通の友人にも話していました。
あまりにも無知でした。
妊娠9週目
妊娠9週目の妊婦健診は、付き添いは不可ですが病院までは一緒にいく時間が取れたので妻と一緒に行きました。すごく晴れた日でした。
バスに揺られながら病院までの20分くらいの間に、色んなお店を見つけたりして「今度病院の帰りにここ行ってみようよ」なんて会話をしていました。
健診の間、私は病院の近くで時間を潰し、診察終了後に妻と合流しました。
この瞬間のことは多分一生忘れないと思います。
妻がすごく言いにくそうな顔をしながら私に伝えてくれました。
「あのね、心拍が確認できなくなったの。」
一瞬で心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われました。頭で理解するのに時間がかかりました。
もしかしたら、角度などの問題でたまたま今日確認できなかっただけかもしれないので、1週間後に再度確認するとのことでした。
実際に先生と会話していない、かつ無知な私には、この「心拍が確認できない」ということがどれほどの事態なのかもわかりませんでしたが、妻の顔や声から察せるものがありました。
帰りのバスを待っている間、そしてバスに乗ってからも私はずっと体にズシっと大きな鉛が入っているような感覚で、冷静ではいられませんでした。
「1週間後に再度確認」という希望を信じて、
ひたすらに「心拍 確認できない 復活」といったキーワードを検索窓に打ち込んで、片っ端から記事や質問サイトを見ていました。
そこで「流産」という単語を何度も見つけ、「流産するかもしれないんだ」という現実が一気に押し寄せてきました。
何件かは「心拍が復活した」といった体験記や回答も見つけることはできましたが、それ以上に「流産した」、「9週目であれば流産で確定だと思います」といったものが目立っていました。
私はバスの中で立っていられなくなってしまい、途中で降りてそこからはゆっくり歩いて帰りました。
帰ってからは仕事でしたが、正直手につきませんでした。必要最低限の会議にだけ出席したような気がします。
ずっと、ずっと「流産」について調べていました。
その中で本当に少しずつ「この子は流産する」という現実を受け入れる覚悟が固まっていったのを感じました。
でも、もしかしたらこの子は大丈夫かもしれない、来週の検査では心拍が復活しているかもしれないと願わずにはいられませんでした。
来週を待つことしかできないもどかしさも感じていました。
調べていく中で「妊娠9週の壁」、「魔の9週」といった言葉も知りました。
引用元の記事を読んでいただくとよくわかるのですが、
流産の確率は全体の15〜20%ほどもあり、9週目までに発覚するものが大半だそうです。
そして原因は母体ではなく、染色体異常などの自然淘汰であり、受精卵の時点で産まれてくることができないことが決まっていたものがほとんどです。
なので、夫婦、特に母親は「あの時ああしておけば」などと考えて自分を責めたり、後悔したりはせず、ただ時間をかけて夫婦で「受け止めていく」しかないと知りました。
とりあえず親に連絡をしました。母は医療関係者なのでめちゃくちゃ驚くといったこともなく受け止めている様子で、私に優しい言葉をかけてくれました。
心の整理もつかぬまま時間は経っていきました。
寝る前もずっと色んな人の体験記や質問サイトを読み続けていました。
流産
妊娠9週目の妊婦健診を受けた2日後の夜に妻に陣痛がきました。
まず 17時頃から生理のような痛みがはじまりました。
妻は痛み止めが飲めませんでした。妊娠中は薬全般を飲まないようにしていたから、ここで痛み止めを飲むということは妊娠の継続を自ら否定してしまうことのように思えてしまったようです。
ただ、明らかに陣痛のような強い痛みがきて、妻も覚悟を決めて痛み止めを飲みました。だいぶ楽になった様子でした。
私は陣痛がきた驚きと同時に、「この子は流産するんだ」と確信し、強い悲しみと喪失感を感じました。
けれど、目の前で辛そうにしている妻を見ているとただ悲しんでいるわけにもいかず、家での自然流産の体験記を調べたり、背中を擦ったりしていました。
妻は陣痛が痛すぎて座るともう立てないくらいでした。歩くと少し痛みが和らいだので、家中を歩き回っていました。
だんだんと痛みの感覚が狭くなっていき、深夜の2時ごろからレバーの塊のようなものが少しずつ出るようになり、明け方の4,5時ごろに完全にすべてできったようです。最後の塊は手のひらの大きさくらいもあって、それを見た時に妻は「全てが終わってしまったんだ」と悟ったようです。胎盤が出たのでした。
まだ9週目以前に死亡していたこともあり、小さすぎて出てきた塊の中で明確にこれが胎児だといのはわからなかったようです。
次の日に病院に電話をし、自然に完全流産したことを伝えました。
後日検査を実施し、膣や子宮内に遺存物がないかをチェックしてもらいましたが、見つかりませんでした。胎盤等も綺麗に全部出てくれたようなので手術は不要となりました。
念のため1週間後に妊娠検査薬による検査を実施して妊娠の陽性反応が出ないことを確認して欲しいとのことだったので実施したところ陰性でした。
私たちは妊娠9週目で1回目の流産を経験しました。
数日前までは確かに妻のお腹の中にいた生命が、一晩のうちになくなってしまいました。
流産の報告
親と妊娠を伝えてしまっていた友人に流産したことを伝えました。
親は「妊娠できるということがわかったことはよかったこと」と前向きな言葉をかけてくれました。夫婦でも話していたことだったので、唯一そこだけはポジティブに考えようと思いました。
友人には本当に申し訳ないことをしたなと思っています。
独身の人や子供がいない人たちだったので、想像も付きづらく、なんて声をかけたらいいのか正直わからなかったと思います。
でもみんな優しい言葉をかけてくれ、男友達は焼肉を奢ってくれました。
受け止めていっているつもりでも、誰かに話す時は毎回急に泣きそうになりました。
自分はメンタルが弱い方なので、
正直、今後自分がまともに働いていけるのか自分でもわからず不安な部分があったので、何名かの上司には報告しました。
「無理は決してしないでください」、「休んだり業務調整が必要なら相談してください」という言葉をかけてくださり、ある方は「私も1人目の子供が流産だった」という話をしてくださりました。
改めて流産の身近さを感じるとともに、職場の方の暖かさにも触れることができました。
上司に報告する時も、急に感情が溢れてきて泣きそうになりました。
妻との会話とそれから
流産後の診療時に、妻は3日間は安静にするようにと言われていました。自宅でのテレワークであれば、と思い働いていましたが、今から思うと横になって安静にしておくべきだったと思うそうです。
出血も5日間くらい続いていました。
9週目の妊婦健診から流産して数日後まで、妻は精神的には比較的に安定していました。私の方がよっぽど精神的にまいってしまっていて、9週目の検診後のバスで立っていられなくなってしまった私は「しっかりしてよ」と言われてしまうくらいでした。
でも流産した数日後に妻に泣きながら謝られました。
「私はあの時にまだ子供を授かったっていう実感がまだまだ薄くて、
"子供が亡くなった"ではなくて”私が流産した"という感覚で、
自分だけのことのように思えていたからあまり精神的なダメージがなかった。
でもあなたは、子供ができたという実感の有無に関わらず、
少なくとも形ある私を通していて、私の体調を気遣ったり、家事をいつもより頑張ったりして、すでに目に見える思い出になっていたんだとわかった。
そして、そんな愛している人の喪失だったからこそ
あれほどまでに辛く苦しんでいたんだということに気づいた。
そしてそんなあなたを通して、私も今回のこと、失ったものについての実感が湧いてきて今はすごく辛い。ごめんなさい。」
今から思っても確かにと思う部分が大きかったです。
自分にとっても"私たちの子供が亡くなった"と考えている割合よりも"愛する妻が流産した"、"私たち夫婦は流産を経験した"と考えいる割合の方が多かったんじゃないかと思います。
私たちの子供ができたという実感、その子に対する愛情がまだまだ薄かったのは私もだったんだと気付かされました。
そしてそれからの日々の中で、お互いに少しずつ失った子供に対する愛情を自覚していった気がします。
妻は妊娠によって体調を崩し、仕事もまともにできなかったのに、我が子まで失ってしまったら、「自分のこの数ヶ月は一体なんだったんだろう」という気持ちも強かったそうです。
少しでも何も残らなかった期間にしたくないという思いからまだ出血が続く中、高度情報処理技術者試験を受けにいっていました。本当に強く、尊敬できる妻です。
帰り道に渋谷を歩いていて、ベビー用品が目につくだけで辛かったそうです。
数カ月後、この試験には見事合格していました。
失ったものとは比べ物にならないけど、わずかでも何かが残ったんだと、合格通知の画面を見ながら、2人でバンザイをしました。
妊娠9週目の流産の場合は、産後休暇を取得することはできません。精神的ダメージは変わらないので、せめて少しの期間だけでも休暇が取れるような制度があればと思いました。
妻とは何度も話し、お互いを支え合っていきました。
流産した1週間後が妻の誕生日そして2人の結婚記念日だったので、
銀座にお寿司を食べに行きました。
お酒が大好きな妻は我慢していた日本酒をたくさん飲むことができ、
お互いに笑顔でいれる時が多い時間でした。
妻は私に手紙を書いてきてくれました。それを見て泣いてしまいました。
私はある程度普通に生活できていました。仕事もいつも通りできていました。
ただ、どうしても誰かの出産報告を素直に喜べない自分がいました。
保育園の横を通った時や、街で小さい子供を見た時に、
負の感情が押し寄せて胸が締め付けられるような感覚になることもありました。
ただこの時は、次の妊娠に向けた意欲も非常に大きかったです。
流産の直後は妊娠率が高くなるという記事も見ましたが、病院の先生には「3ヶ月は間を空けた方がいい」と言われたので、3ヶ月後に妊活をはじめようと考えていました。
妻も「今回も1回で妊娠できたから、次もすぐに妊娠できる気がする」と前向きな発言をしてくれていました。
さんちゃん
この時に亡くなった子はまだ9週目だったいうこともあり、
妊娠中にも特定の名前をまだつけていなかったのですが、
後に「さんちゃん」と名付けました。
さんちゃんは男の子だったのか女の子だったのかもわかりませんし、
まだ人の形をしていたわけでもなかったかもしれないですが、
私たちにとって1人目の子供はさんちゃんで、
一番上のお兄ちゃん、またはお姉ちゃんです。
2人目(まるちゃん)
妊娠
2人目の子を妻が妊娠したのは2022年2月の冬でした。妻が32歳の時です。
2022年の10月の流産から3ヶ月後に妊活を開始し、
この時も運良く1月目で妊娠が発覚しました。
1人目も2人目もすぐに妊娠できたことは私たちにとって幸いだったと思います。
1回目の流産について妻はどうしても自分にも原因があったんじゃないかという考えを完全に捨てることはできず、
環境を変えるためにも希望を出して女性が非常に多い部署に異動させてもらっていました。異動してすぐの妊娠でした。
異動後の部署では直属の上司も女性で、流産についても非常に理解のある方だったので、妻も心強そうでした。
一方で、異動前と比較してチームの人数は非常に少なく、慣れない新しい部署・新しい顧客かつ自分が動かないと仕事が完全に止まるという状況へのプレッシャーも強そうで私は少し不安でした。
前回の反省をいかすべく、妊娠検査薬での陽性確認後すぐに前回と同じ病院に連絡をし、無事無痛分娩の枠を抑えることができました。
出産予定日は2022年の10月で、もしかしたら妻と誕生日が同じになるかもしれないね。なんてことを話していました。
妊娠5週目の初診で無事胎嚢が確認でき、妊娠が確定しました。
今度こそこの子を絶対に失いたくないという強い気持ちと同じくらい強い不安がありました。
この時妻が皮膚の治療で、抗生物質の薬を服用していたことがわかりました。
ちょうど妊娠3週目くらいまで飲んでおり、先生に確認したところ3週目までであれば大丈夫だろうとのことでした。
心拍確認そして引っ越し
2週間の妊娠7週目の妊婦健診で無事心拍も確認でき、少し安心するとともに、
次の健診は前回の「魔の9週」ということで恐ろしくもありました。
昨年購入したマンションが竣工し、この時に引っ越しをしました。
京都から東京に上京してきて5年、自分で買った家の鍵を手にした時は感慨深いものがありました。
引っ越し当日は雪が降っていて妻の体調が不安でした。
カイロを身体中に貼って過ごしてもらいました。
友人が連日手伝いにきてくれたおかげで、妻はほとんど引っ越し作業をせずにすみました。
新居は子供、特に子供が小さい時期を強く意識しての購入でした。
妻の希望で東京23区の中でも自然が多く、高層ビルやパチンコ・水商売などの店がない、閑静で治安のいい街を選びました。
学区の小学校も中学受験率9割ほどの優良校だったのもよかったです。
部屋もマンションだけど階段があったり、中庭や大きなテラスがあるプランを選びました。中庭やテラスには人工芝を敷き、大きなプールも設置しました。
そこで自分の子供と一緒に遊ぶ日を夢みていました。
インテリアやオプションについても、かっこいい反面冷たい印象を与えるガラスや石などのテクスチュアや黒いものは使用せず、白とウォールナット材を基調としたナチュラルで温かみがあって子供が不安にならないような雰囲気に仕上げました。
照明も工事で調光調色可能なダウンライトにすべて付け替えて、基本的には温かみがあってリラックスできる空間にできるようにしました。
子供が中学入学するまではここに住んで、子供の中学やその時の私たちの勤務地に合わせて引っ越そうと考えていました。
マンションにしては大きめで広い廊下が地味にお気に入りでした。自分の子供とそこで追いかけっこするの想像をして、妻とよく笑っていました。
この頃、私も同じプロジェクトの中でチームが変更になりました。
新しいチームはなかなかに厳しい状況かつわからないばかりでしたが、
腕の見せどころでもあり、自分がなんとかしようという気概で燃えていました。
待ち望んだ新しい家に、新しい生命、大きな責任感を感じていました。
まるちゃん
この頃、お腹の中の子に「まるちゃん」と名付けました。
2人してことあるごとに「まるちゃん、まるちゃん」と連呼しながらお腹をさすったりしていました。
妊娠9週目の妊婦健診の日は朝から不安でした。
病院に向かうまでの運転中も覚悟を決めていく時間でした。
この頃は、夫の私は健診に付き添うことが許可されており一緒に診察室にいることができました。
超音波エコー検査の画面を見て、すぐにピコピコと動く点滅を視認でき、
その後に先生から「心臓もちゃんと動いてますね。順調です。」と言われて、心底安心しました。
「まだまだ不安だけどとりあえず前回は越えたね。」、「まるちゃん、頑張ったね。ありがとう。」と妻と喜びを噛み締めました。
母子手帳
先生から母子手帳をもらいに行ってくださいといってもらえたので、
9週目健診の帰りに区役所に行って母子手帳を受け取り、1時間ほどの面談や行政のサービス等の説明を受けました。
前回は手にすることができなかった母子手帳。父親の欄に自分の名前を書いた時はやはりとても嬉しかったです。
明確に次のステージに進んだような気がしました。妻も同じ気持ちだったと思います。
その後の妊娠11週目の妊婦健診も無事心拍も確認でき、順調とのことでした。
妊娠初期検査も実施しました。
この2週おきの健診が楽しみである一方で、それ以上に苦しいものだったのをよく覚えています。
妊娠14週目
その日は妊娠13週目の妊婦健診の日でした。
この日も朝から不安でした。いつものように今日が「宣告」の日かもしれないと覚悟していました。
この頃の妻は9週目、11週目の頃よりは不安じゃなさそうで、不安だ、緊張すると連呼する私のことを見て少し困ったように笑っていました。
13週目の健診では、はじめて膣からではなくお腹の上からの健診でした。
また1つステージが進んだ気がして嬉しかったのを覚えています。
ただ画面にエコーが映し出されてすぐに、またしても心臓を鷲掴みにされたような気がしました。
素人の私の目からみても、心拍が確認できませんでした。
いつもであればすぐに「大丈夫ですね。」という先生が無言で、角度を色々変えて画面を確認していました。
その様子を眺めながら少しずつ体が鉛のように重くなっていくのを感じました。
先生から「心拍が確認できません。」という一言が告げられました。
途端にキィーーーーーーーーーーーという耳鳴りがしたかと思うと、
私は耳がほとんど聞こえなくなり、視界が歪み始めました。
音が遠くで反響していて、視界はぼやけ、椅子になんとか座っているのがやっとで今にも転げ落ちそうでした。
先生から今後についての説明がありましたが、半分は聞こえない・理解できない状況でした。
胸が張り裂けるような思いで、とにかく今すぐ診察室を出たい気持ちが強くて、先生に聞き返すこともできず、診察が終わりました。
とりあえず週の後半(14週目)に再度確認のための診察を行うとのことでした。
待合室で待っている間に少しずつ気持ちが落ち着いてきました。
1回目の時はなんの覚悟も知識も無い状態からの不意打ちの宣告でしたが、
今回は診察の前に覚悟を決めていたこともあり、受け入れるのも早かったように感じます。
帰り道、ちゃんと運転できるかが不安でしたが、無事家につくことができました。
虚無に近い状態でしたが、12週以降の流産について調べ始めました。
「妊娠12週の壁」という言葉も知りました。一体いくつの壁があるのだろうと思いました。
今回どのタイミングで心拍が停止したのかが難しいですが、胎児の大きさから後期流産かもしれないと思いました。
週の後半になり再度健診を受け、そこでも心拍は確認できず、子宮内胎児死亡が確定しました。妊娠14週目のことでした。
妊娠14週目以降の場合は、前回のような子宮内容除去術や自然にでてくるのを待つのではなく、通常の分娩と同様の扱いとなるとのことでした。
まるっきり違うのは取り上げられるのは死亡した胎児であるということです。
あまり放置しておくと胎児が腐っていき母体に影響を及ぼすかもしれないということで次の週(妊娠15週目)には分娩入院することになりました。
帰宅し、ソファで座っているとすぐに妻が泣きながら「私、少し休みたい…」と言いました。
妻は何かあった時でもすぐに泣いたり弱音を吐くタイプではなかったので、私はすぐに妻の限界を察しました。
妊娠14週以降の場合は、通常の分娩と同様の扱いであるため、産後休暇の取得が義務付けられています。
産後休暇8週間フルで休んで欲しいと伝えました。
特に火葬というのは想像していなかったので、この年で自分の子供を火葬しないといけないのか… という悲壮感を覚えながら、斎場やプランについて調べはじめました。
私は今回のことに向き合うことに手一杯で仕事へ向き合う余裕を無くしていました。一方で数ヶ月後には超大型のシステムリリースを控えており、それに向けて非常に厳しい状況にあり、「自分がなんとかしないと」と軽いパニック状態でした。
部長と直属の上司、チームのリーダー陣に2回目の流産について報告しました。
あまり詳しくは書けませんが、強く優しい言葉を添えながら「自分そして奥さんのことを優先してほしい」と言ってくださり、すぅーっと気持ちが軽くなると共に、涙が止まらなくなりました。
できる限り頑張ろうとも思えました。
妻も泣きながら上司に報告していました。妻の担当プロジェクトは引き継がれ、来週の入院後から妻は産後休暇に入ることになりました。
週末は、妻と入院のために必要な入院着などを買いに行きました。
分娩入院そして出産・対面
妻が分娩のために入院しました。
入院時には付き添い、それから毎日夕方に面会に行き一緒に晩ごはんを食べました。
妻の病室は、正常な出産を実施する妊婦さんたちとは別のフロアでした。
新生児を見たり、新生児の泣き声などを聞いて辛い思いをしないようにとの配慮なのかもしれません。
入院着を着て病室のベッドで寝ている妻を見ていると、このまま妻まで死んでしまうじゃないかという最悪な想像に頭が支配されました。
「大丈夫だよ。」と妻が優しく答えてくれました。
入院初日の夜に妻のいない寝室のベッドに入ると妻からの手紙が置かれていました。
胎児死亡の診断から入院まではやることや調べることが多くて忙しい日々だったからこの入院中にちゃんと自分と向き合うこと、入院中は寂しいけどお互いに笑顔を思い出して、2人で乗り越えているんだということを忘れないという気持ちが書かれていて、また涙が出ました。
「私は今日、手帳の毎週木曜日の欄に書いていた妊娠週数のカウントを消しゴムで消しました。涙が出たけれど、代わりに水曜日の欄に産休週数のカウントを書いたの。そうやって少しずつ少しずつ消化できるといいな。」
分娩は無痛分娩を選択しました。
まだ全然大きくないのでもしかしたら自然分娩でも痛みは少ないのかもしれないですが、これ以上少しでも妻の負担を増やしたくなかったので無痛分娩以外の選択肢はありませんでした。
子宮口を無理やりこじ開ける必要があるので、水分で膨らむラミナリアというものを入院後から2日間かけて徐々に本数を増やしながら挿入していくのですが、この痛みは相当不快感が強いもののようでした。
痛みの程度としては陣痛の方が上なのですが、陣痛は生理痛の延長のような痛みで、痛みの想像できるし慣れもあるので、ラミナリアの痛みの方が耐え難いものだったそうです。
また、ラミナリアを入れている間は座ると痛むので、妻は横になって過ごすしかありませんでした。
あまりにもラミナリアの痛みが強いので、分娩時ではなくラミナリアを1番多く挿入している2日目に腰から針を通して麻酔を入れてもらっていました。
通常のお産と同様にバースプランについて助産師さんが確認してくださいましたが、何も思い浮かびませんでした。
入院から3日後に、子宮口が十分に開き分娩となりました。
妻は陣痛促進剤を投与され、分娩室で麻酔を入れて、その後病室に戻り、病室のベッドの上で分娩となりました。助産師さんに導かれて2時間ほどでまるちゃんは妻のお腹から出てきました。
その後に、胎盤などもちゃんと出てきました。
その後2人できれいにしてもらって簡易的な棺に入れられたまるちゃんと対面しました。
どの体のパーツもまだまだ未完成で、皮膚も赤くぶよぶよで、すごく小さいですが、たしかに人の形をした我が子でした。
まるちゃんを見た途端に涙が溢れました。妻も同じで2人でいっぱい泣きました。
「まるちゃん、ありがとう。ごめんね。」
とてつもない喪失感でした。
助産師の方がまるちゃんの手形と足形を取ってくださり、へその緒も桐箱に入れてくださりました。また、まるちゃんのために掛け布団を編んでくださり、生きている赤ちゃんのように気遣ってくださったのが心に残っています。
15週の出産であっても妻は少し母乳が出たので、助産師さんが少ししぼった母乳をティッシュに染み込ませて、まるちゃんの棺に入れてくださりました。
そして退院の日には、まるちゃんの棺に献花をしてくださりました。
退院までに悩んだけど、まるちゃんをしっかりと写真に残しました。
ふとした瞬間にカメラロールの中で見た時に、辛い思いをするんじゃないかとも思いましたが、私たちのもとに来てくれたまるちゃんのことを少しでも何かに残したいという気持ちの方が大きかったです。
まるちゃんを入れた棺を抱いて退院しました。
私たちは妊娠15週目で2回目の流産を経験しました。
分娩と入院で合わせて90万円近くかかりましたが、ただただ辛く苦しい感情だけが残りました。
費用については当時の出産育児一時金による42万円の支給、会社の健康保険組合からの助成、保険の特約で一部お金が降りました。
これまでの妊婦健診等にかかったお金を踏まえると自費は20万円ほどでした。
心の変化
入院中、助産師の方々は非常に献身的に私たちのことをケアしてくださりました。
妻とももし次も挑戦したいと思えたらこの病院で産みたいねと話していました。
入院中、助産師の方々は私のことを「パパ」、「パパさん」と呼んでくださりました。それを繰り返し、噛み締めていくうちに「そうだ、私は父親なんだ。」とより深く実感していきました。
そして分娩後にまるちゃんに対面した時に、
「私は父親で、自分の子供を失ったんだ。自分の子供が死んだんだ。」とより強く実感しました。
これは1回目の流産の時とは捉え方が大きく違っていた部分でした。
「妻が流産したんだ」という捉え方の側面が大きかった1回目の時とは異なり、
今回は明確に「父親として我が子を失ったんだ」と受け止めました。
まるちゃんへの愛情も強く、そしてそれはより強い悲しみを伴うもので、
辛く苦しいものでした。
ただ父親としての自覚を強く得れたというのは、私にとっていい心の変化であり、
改めて1人目のさんちゃんへの愛情も強くなりましたし、
3人目が妊娠してから、出産してからもいい方向に私を導いてくれたと思っています。
火葬
火葬は大田区の臨海斎場で実施することにしました。
費用は私が住んでいる区の住民の場合は1万円程度でした。
胎児に向けた様々な葬儀屋のプランもあったのですが、宗教観がなさすぎる私たちにはどうにもピンとくるものがなく、
2人で火葬場までまるちゃんを連れていって、火葬だけしてもらうことにしました。
家の近所に咲いていた桜の花をまるちゃんの棺の中に入れました。
初詣のときに京都で買った安産の御守も一緒に棺に入れました。
病院で入れてもらったお花も合わせて、小さいまるちゃんはたくさんのお花に包まれていました。
火葬するためには火葬許可証が必要になります。
分娩後に医師に死産証明書を発行してもらい、
それを持って区役所に行き、火葬許可証を発行してもらいました。
分娩した次の日には自分の子供を焼くための許可をもらいに行くというのは精神的に厳しいものがありました。
斎場で渡される骨壷は大きすぎるので、胎児用の小さな骨壷を入院中に買っておきました。それを持って、まるちゃんを入れた棺を抱いて車で斎場に向かいました。
退院したその日のことです。
受付を済ませて、火葬場に行き、棺を開けてまるちゃんに最後のお別れをしました。
生きて産まれてくる赤ちゃんと比べるとあまりにも未熟で、姿かたちもかけ離れているまるちゃんの身体に触れることには夫婦2人ともずっと少し抵抗がありました。
でも、最後にはそんな気持ちもなくなり、2人でまるちゃんに触れながら
「愛してる。」と伝えました。
本当に伝えられてよかったと思っています。
火葬されている待ち時間の間、これまでのこと、これからのこと、色んなことを考えていましたが、やはりただただまるちゃんのことを思うと涙が出てきました。
ただひたすらに愛おしく、苦しかったです。
火葬が終了すると、ほとんど何も残っていませんでした。
おそらくまるちゃんの骨だろうと思われるかけら数片を持ってきた骨壷に入れて、
火葬は終了となりました。
骨壷と、手形・足形、そしてへその緒と一緒にリビングに置きました。
検査・不育症
2回の流産(反復流産)を経験しても、やはり私たちは子供を諦めきることができませんでした。
そして当然ですが、これ以上流産という辛い思いをしたくないと思っており、
流産の原因がもしわかるなら検査したい、何か打てる手立てがあるなら打ってから3回目に臨みたいと考えました。
まず胎児側の検査として以下2つの検査を実施しました。
病理組織検査
・分娩時に摘出された胎盤を検体として提出し検査を実施。
・保険適用のため費用は 5000円程度。
・検査の結果、chorioamnionitis(絨毛羊膜炎), Stage Ⅱ 〜 Stage Ⅲ(一部)が認められた。絨毛染色体検査
・胎児の一部を検体として提出し、アメリカで培養後検査を実施。
・2022年4月から条件付きで保険適用となったが、私たちは保険適用されなかったので費用は 10万円。
・東京都の不妊・不育の助成金が治療全体で5万円まで支給されるので利用。
・検査の結果、染色体異常は認められなかった。
まず、絨毛羊膜炎が認められたことから、先生からは「断定はできないが、これが原因の可能性はある。」とのことでした。
次に、染色体異常がなかったことから流産の原因の大半を占める胎児染色体異常が原因ではないことが分かりました。
ただ明確に"これ"が原因であると断定することは難しいとのことでした。
絨毛羊膜炎は細菌によるものなので、対処法としては健康的な生活、ストレスをためないといったことになります。妊娠中は特に免疫力が低下するので注意が必要です。
新しい職場、新しい顧客、新しい仕事内容、ほぼ1人というプレッシャーのかかる状況で、新しい家にも引っ越したことでもしかしたら妻には想像以上に負荷やストレスがかかっていたのかもしれません。
もちろん原因はわからないのですが、次に妊娠した際はすぐさまに上司に対して体制面などで希望を伝えようと会話しました。
2回流産(反復流産)、3回以上の流産(習慣流産)を経験された場合、そういった状態のことを「不育症」といいます。
昨今では、「不妊症」という言葉はだいぶメジャーとなってきましたが、「不育症」はまだまだ知らない方も多いのではないかと思います。
「不育症」の診療では、親側、特に母親について検査を実施することで、流産の原因となり得る「リスク因子」が判明することがあります。一方で、やはり偶発的な染色体異常による流産も多いためこれといってリスク因子が特定できない場合もあります。また、リスク因子があるからといって必ず流産するわけではありません。
リスク因子に応じて適切な治療や対応を実施することで流産の可能性を減らすことが目的になります。
流産は想像以上に多いことなので、医師としては3回目の流産時に不育症の診療を促す人も一定数いるようですが、私たちは打ち手なく3回目に望むことは考えられなかったので、不育症の診療をお願いし、
有名な国立成育医療研究センターの不育外来の紹介状を書いてもらいました。
流産後すぐには正常な検査ができないため、1ヶ月以上あけてから初診にいくこととなりました。
染色体検査を実施すると胎児の性別が判別します。
まるちゃんの染色体は 「46, XY」、つまり男の子でした。
まるちゃんは、私たちの大事な2人目の子供で、息子で、娘のお兄ちゃんです。
産後休暇
入院後から妻の産後休暇がはじまりました。
私は産後休暇は取得できないのですが、会社の制度であるパートナー出産休暇という5日間の休暇は14週以降の流産の場合も取得できるので取得することにしました。
母乳止めの薬を飲むかどうかは選択することができます。
母乳止めを飲むと急に止めることで、次回の出産時に母乳が出にくくなる可能性があると言われましたが、妻は飲むことにしました。
産後休暇中は、気持ちを切り替えて活動したかったからだそうです。(次回出産時に母乳はたくさんでました。)
母乳止めを飲んでも数日間は胸が張って痛みを伴ったので、ひたすらに冷やして落ち着くのを待っていました。
妊娠期間の半分にも満たない15週での出産だったので、妻はすぐにでも普通に過ごしたかったそうですが、午前活動すると、午後には後陣痛が酷くて動けなくなるほどでした。悪露も2週間ほど続きました。
通常の出産であれば、1ヶ月健診までは安静にしてくださいといった目安を教えてもらえますが、流産した週数ごとの産後の身体についての情報は少なく、妻はどう過ごしていいかわからなかったそうです。
産後の健診が分娩から3週間後にあり、そこで身体の回復には問題はないと言われておりましたが、その後すぐにスポーツジムに行くと出血をしてしまいしばらく出血が続いたようです。
流産であっても、通常の出産と同様に1ヶ月は安静にしたほうがよさそうです。
ただでさえ子供を失った喪失感が大きいのに、妻は私と違って出産に伴う様々な痛みが残り、しばらく苦しめられていて、やるせなさが大きい様子でした。
ずっとコロナで自粛していましたが、気分転換の方が大事だと思い、
鹿児島に転勤になった共通の友人に会いに鹿児島に旅行に行きました。
流産の経験もそうですが、コロナによる制限で陰鬱としていた私たちにとってとてもいい気分転換になりました。
美味しいものを食べ、お酒をたくさん飲んで、カラオケで歌い、ドライブをして、温泉に行き、精一杯ストレスを発散しました。
妻は他にも勉強したり、青森に帰省したり、新しい料理に挑戦したりとリフレッシュしてくれていました。
そんな妻を見て、私も救われていました。
新婚旅行
産後休暇に入りたての頃に1つの広告が目に付きました。
それはコロナで制限されていた出入国制限が緩和されるので、旅行代理店が海外旅行のプランを復活させるというものでした。
ふと、「新婚旅行で海外いっちゃう?」と思いつき、妻に提案すると
本当に嬉しそうな笑顔で「行きたい!」と即答してくれました。
2年前にコロナで断念した時はヨーロッパの周遊旅行を計画していたのですが、
それはさすがに今も難しそうとわかったので、リゾートに行くことにし、
ハワイなど色々検討した結果、モルディブに行くことにしました。
休暇中の妻が積極的に色んな会社に見積もりを取ってくれて、
旅行代理店も決定し、打ち合わせを重ねて、プランも決定しました。
モルディブは最高でした。
朝起きると窓の向こうに広がる一面の青い海と空。
オールインクルーシブでお金のことを考えずに、いつでもご飯を食べてお酒を飲める快適さ。
毎日のように泳いだり、夕日や星空を見たりして、ゆっくりとした時間を過ごしました。
夜は色んな国の人たちと一緒に踊ったり、お酒を飲んだりしました。
私たちが泊まったリゾートには日本人は私たち2人しかおらず、それが逆によりリラックスできる要因でした。
休暇の間、
少しずつ、少しずつ心に空いた穴が埋まっていく感覚、
そして妻との絆、妻への愛情がより強くなっていっている感覚がありました。
小さい子供も何人か来ていて、家族で幸せそうに踊っているのを眺めていました。
でも辛くなることはもうありませんでした。
「私たちもいつか子供を連れて、また来たいね」と妻と微笑んでいました。
3人目(きたちゃん)
不育診療
2回目の流産から1ヶ月半ほど経ってから、私たちは不育診療に通いはじめました。
まず以下に記載されている低温期(生理3日目頃)に行う検査と高温期中頃に行う検査はすべて実施しました。
両親の染色体検査をするべきかについては、まるちゃんの染色体検査を実施する前から悩んでいたことでした。
妻と話し合って、まずまるちゃんの染色体検査は実施しよう。その結果、もし異常が認められた場合は両親の検査も実施する、もし異常がなければ両親の方は実施しないでおこうと決めました。
結果、前に記載の通り、まるちゃんに染色体の異常は認められなかったため、両親の染色体異常の検査はしなくていいかとなりました。
検査費用は合計で5万円ほどかかりました。両親の染色体検査も実施する場合は追加で10〜15万ほどかかるようです。
様々な検査を実施しましたが、結果的に妻には目立った異常は認められませんでした。明確なリスク因子は判定できなかったのです。
ただ、担当医からは「プロテインS活性」という値が正常に56-126%に対して、49%と若干低い点が少し気になるとの所見をいただきました。血栓が他の人より若干できやすいとのことです。
そのため、排卵日から妊娠28週までの間、血液が固まるのを抑え血栓ができにくくするバイアスピリン錠を念のため飲むことにしようとなりました。
明確とは言えないものの「プロテインS欠乏」というリスク因子が発見され、薬による対処が可能というのは少し前進した気がしました。
自然妊娠にトライしようとなりました。
結果的に、胎児への検査も含めて様々な検査を実施しましたが、明確な原因を発見することはできませんでした。これは流産においてはよくあることのようです。
流産の可能性は15-20%なので、多く見積もっても4%ほどの2回流産するという可能性を引いてしまっただけで、次はさすがに大丈夫かもしれない。でももし次もダメだったら…
そんなことを延々と考える日々が続きました。
3人目に向けて
私たちは、せめて子供がいたら簡単にはできないことをいっぱいやっておこうと考えました。
鹿児島、モルディブに続いて、北海道や日光にも旅行にいき、精一杯遊びました。
関東周辺へのドライブやBBQ、飲食店めぐりをしたり、色んな人と会いました。
色んな人から励ましの言葉をもらいましたし、同じく流産した話や、臨月で死産した話、中には7回流産してようやく娘が産まれたという話も聞きました。
勇気をもらいつつ、やっぱり本当に最後産まれてくるまで何があるかわからないんだ、安定期なんてないんだと考えるようになりました。
まるちゃんの分娩をした後すぐに、さんちゃんの出産予定日を迎えました。
どうしても「本当なら…」と考えてしまうのは仕方がないことでした。
さんちゃんとまるちゃんを失ったことで空いてしまった大きな心の穴を、
妻と新しく色んなことを積み重ねて埋めていく。
周囲の人たちの優しさで埋めていく。
でも決して埋まり切ることはない。そんな日々を過ごしました。
自分の場合、きっとこの穴は、生きている我が子を抱いて、その子と過ごしていくことでしか埋めることができないんじゃないかと思いましたし、妻も同じようなことを言ってしました。
その分、もし3人目も流産してしまったらという不安は大きくなっていきました。
妻から「私、もし次もダメだったら多分壊れてしまうと思う。」と言われました。
色んな楽しい予定を詰め込むことで、そんな不安と葛藤を笑顔で隠くす日々でもありました。
妊娠
まるちゃんの分娩から3ヶ月経ってから私たちは3回目の妊活を開始しました。
1月目は妊娠には至れませんでした。
もしかしたら今回は妊娠するまでも期間がかかるかもしれないという不安もありました。
ちょうど次のタイミングまでの間に妻の誕生日兼結婚記念日があったので、結婚式をあげたTRUNK (HOTEL) でディナーをしました。妊娠に至れなかったので2人でお酒も楽しみました。
妻には花束を贈りました。
2022年後半、冬に差し掛かった頃に妻が3回目の妊娠をしました。
妊活を開始してから2月目のことでした。
これまでの病院ではなく、成育の不育診療科で妊婦健診を受け、無事胎嚢が確認でき、妊娠が確定しました。
一方で、前回の分娩の時から決めていたので、分娩予約は1回目、2回目の時にお世話になった病院で実施しました。今回も無事無痛分娩で予約が取れました。
妊娠28週目くらいで転院しようということになりました。
早い段階で私も妻も会社の上司に報告しました。
妻は前回のこともあったので、仕事内容や体制面については不安そうでした。
結果的に前回よりはよくなっていましたが、決して楽ではなく、深夜まで働く日もありました。難しい問題でした。
私が報告すると部長や上司はすごく喜んでくれ、それが嬉しかったのを覚えています。「奥さんのケア優先で」と言ってもらえました。
家族には報告しましたが、友人には誰一人報告しませんでした。
妊娠初期
妊娠7週目に心拍が確認でき、9週の壁、12週の壁と無事に越えることができました。
病院は違いますが診察室やエコー中の画面はトラウマになっていました。
健診の前日の夜や当日の朝は不安と緊張で吐きそうで、動く心臓を確認してホッとする。そんなことの繰り返しでした。
血液検査で、妻は「トキソプラズマ」と「サイトメガロ」の抗体を持っていないことがわかりました。
ただでさえ、1回目、2回目と新型コロナに感染しないように怯えて神経質な日々を送っていましたが、小さい子供にも近づかないようにし、肉はより一層加熱し、土いじりなどはしない毎日が始まりました。
妻は1回目、2回目とともに悪阻は比較的軽い方で、それは幸いでした。
それでもやはり辛そうにしていることが多く、基本テレワークなのは助かりました。
産前/産後休暇というものがありますが、やはり悪阻の辛さや流産の危険性を鑑みても最も安静にすべきは安定期に入るまでの妊娠 5-14週くらいだと思います。
その期間に休暇を取れる制度や、原則テレワークを強制する制度などがもっと充実してもいいのではないかと思います。
その後、母子手帳を受け取り、今度こそはと父親の欄に自分の名前を記入しました。
きたちゃん
3人目の子の妊娠中の呼び名は「きたちゃん」にしました。
ことあるごとに「きたちゃーん」「きーたちゃん」と妻のお腹を擦っていました。
きたちゃんは順調に育ってくれていました。
全国各地で買い集めた安産のお守りを並べて、きたちゃんと妻の健康な出産を祈っていました。
この子はもう絶対に失いたくないと強く思っていました。
エンジェルサウンズ
妊娠10週目くらいの私の誕生日に妻が「エンジェルサウンズ」を買ってくれました。これは家庭で簡単に胎児の心音を確認できる機械でした。
特に私は毎日のように「もしかしたらこの瞬間にもきたちゃんの心臓が止まってしまっているじゃないか」という不安に囚われていたので、それを思っての妻からの誕生日プレゼントでした。
妊娠12週頃から利用できるので、早速使ってみましたが、最初全然何も聞こえなくてすごく不安になりました。
使用方法や体験レビューのYoutubeの動画を見ていると想像以上に下の方に当てていたので、当ててみると
シュン..シュン..シュン..シュン..シュン..シュン..って音が確かに聞こえて、感動して涙が出ました。
きたちゃんはちゃんと頑張って生きてるんだ と実感しました。
この時は、この音が心音だと思っていたのですが、後にこれは臍帯音という胎盤と胎児を結ぶ臍帯を流れる血流の音だったと分かりました。
ただ、臍帯音が聞こえているということはちゃんと心臓が動いてるということになるので、心音が聞こえなくても臍帯音が聞こえればOKです。
後にトクン..トクン..トクン..トクン..という心音もしっかり聞こえた日があり、その時もまたすごく感動しました。
本当に毎日のようにエンジェルサウンズを使って不安を解消しつつ、きたちゃんが頑張って生きているのを感じて愛情が増していく日々でした。
まさに最高の誕生日プレゼントでした。
出生前診断
出生前診断とはダウン症や13トリソミー、18トリソミーなどの染色体異常がないかを検査する方法です。検査は必須ではなく受けるかどうか自分で選ぶことができます。
私たちは出生前診断を受けることにしました。どんな結果であれ早く可能性を知れることには意味があると考えたためです。
ただ正直、実際に染色体異常がもし認められた場合私たちはどうするのか?については十分に考えたり、覚悟することはできないまま検査に臨みました。
出生前診断は大きく確定診断と非確定診断が存在します。確定診断はその名の通り、染色体異常全般の有無が必ず分かります。
非確定診断の場合は特定の染色体異常についてその可能性が高さが分かります。
ただし確定診断は流産等のリスクがわずかにあり、かつ高額です。
非確定診断はその感度が高い検査方法の方が、費用が高額になります。
成育の遺伝診療科で1時間ほど動画と口頭でそういった出生前診断の説明を受けました。
私たちは、コンバインド検査を受けることにしました。
コンバインド検査は計4万円ほどで実施することができ、コンバインド検査のしきい値以上の可能性の場合は99%の精度とのことだったのでコンバインド検査にしました。
もしコンバインド検査で可能性が高いという結果が出た場合はNIPTや確定診断を受けることを検討していました。
結果はダウン症の可能性 1 / 4900, 18トリソミーの可能性 1 / 10000 とのことで安心しました。
もしかしたら他の染色体異常の可能性があるかもしれなかったですが、確定診断はリスクを考えるとやるつもりはなかったですし、13トリソミーのためにNIPTはやらなくていいかと考えて、出生前診断はここまでとしました。
注意しないといけないのは、あくまでわかるのは出生後の胎児の障害や疾患において染色体異常の割合は 15%ほどであるということです。
その他多くの障害や疾患を持って産まれてくる可能性はありますが、それは検査することができません。
ですが、ひとまず安心できる結果でした。
はじめての安定期
妊娠15週の妊婦健診も特に異常なく終了し、はじめて所謂「安定期」というものに入ることができました。
全然わかっていなかったのですが、安定期とは妊娠5〜7ヶ月(27週くらい)までを指す言葉で、それ以降は安定期ではないということをこの時に知りました。
安定期なんてない。いつだって油断はできない。とはわかっていましたが、それでもやっぱりとても嬉しくて、妻と一緒にバンザイをしました。
妊娠15週だとまだまだ不安で、妊娠20週になった頃に上司への経過報告や、友人への妊娠報告をしました。
上司は妊娠報告からずっと経過報告がなかったことと、この頃仕事が忙しかったりで私が12kgほど体重が落ちたこともあって非常に心配してくださっていたようで、すごく安心されていました。申し訳ないことをしました。
友人たちの中には、私も妊娠中という人がたくさんいて、驚きとともにみんな無事出産できますようにという思いが強かったです。
安定期中の妊婦健診も毎回不安でしたが、そんな父親の心配をふっとばすようにきたちゃんはエコーのたびにめちゃくちゃ動き回っていました。
動きすぎて逆に心配になって調べましたが、元気な証拠ということで安心しました。
「私は元気だから、パパは心配しないで」ときたちゃんが言ってくれているようでした。
きたちゃんは胎児ドック(4Dエコー)等もすべて異常なしでパスしてくれました。
安定期では新型コロナに注意しつつも、行動範囲を少し増やして美味しいものを食べにいったりしました。戌の日には水天宮にも行きました。
この頃から友人が安産のお守りなどをくれるようになって、その優しさに勇気づけられました。なんと部長もわざわざ私のために安産のお守りを買ってきてくださり、本当に嬉しかったのをよく覚えています。
安定期の最後28週目くらいにアスピリンの服用を止め、成育から分娩予約している病院に転院しました。
妊娠後期
妊娠8ヶ月目に入り、いよいよこのまま無事出産できるんじゃないかという気持ちと、「期待するとその分絶望する」という気持ちが入り乱れてきました。
もう妊娠後期になると妻はどう見ても妊婦ってくらいお腹が大きくなっていました。ただ電車だとほとんどの人がスマホを見ていてなかなか気づいて貰えないことも多かったです。中には気づいても絶対に優先席を譲ってくれないカップルなどもいました。
ただ、自分が妻が妊娠する前に絶対に席を譲るような行動ができていたのかは怪しく、やはり自分が当事者にならないとなかなか難しいということを実感しました。
妊娠後期に入った頃に、2人での最後の旅行ということで鴨川に旅行に行きました。妊婦だと大浴場の温泉は滑ったりすると危ないので、客室に常時かけ流しの露天風呂があるプランにしました。これは非常に正解でした。
帰りにアクアラインが大渋滞して、妻の体調も少し悪化したので、旅行は遠出は避けて、公共交通機関を利用した方がいいかもしれません。
妻は有給も使いつつかなり早い段階で産前休暇に入りました。
妊娠後期になると体調が安定しない日もそれなりにあったので、早めに産前休暇に入るのはよかったと思います。
妊娠30週の時に再度胎児ドックを受けました。
コロナが5類に分類され制限が緩和され、数年ぶりに胎児ドックの付き添いが許可され、私はその第1号でした。
きたちゃんはやはり元気に動きまわっていました。
そして元気に動き続けるせいでちゃんと確認ができず確定ではなかったのですが、
どうやら女の子ということがわかりました。
また区の両親学級に参加して、色んな方と交流したり、沐浴の仕方を学んだりしました。他の方の話を聞いていると皆さんすでにベビーカーなどのベビー用品を買い揃えている方が多かったので、その翌週くらいから私たちも買うものリストを作成したり、少しずつ買いに行ったりしました。
ベビー服は一度洗たく(水通し)をする必要があるのですが、テラスにベビー服を干している時間はとても幸せで、世界一幸せな洗濯と言われるのがわかる気がしました。
週数が経つに連れて、この週数で産まれた場合の生存率が少しずつ上っていきました。90%、95%と上がっていき少しずつ安心はしてきていましたが、
出産時に胎児や母親が死んでしまったという話も聞いていたので、本当に最後まで油断はできないなという心境でした。
37週目に妻とセルフでマタニティペイントをしました。
妻の大きいお腹に「無事産まれてきてね」という想いを込めて、きたちゃんの絵を描きました。2人で記念撮影をしている時間は幸せな時間でした。
この頃、会社としても週2回の出社が推奨されるようになっていき、飲み会なども増えてきていました。マスクをしない人も増えていたので、コロナに感染しないか最後まで気がかりでした。
出産に向けてそわそわする日々でした。
出産
分娩日は39週と3日目の日にすることになりました。
計画分娩の場合は40週より前の38, 39週に分娩するのが一般的なようです。
そして分娩のための入院の日がきました。入院中は毎日すごくよく晴れていて真夏日でした。
そしていよいよ分娩の日となりました。入院2日目です。
初日から子宮口を開くためにバルーンをいれており、当日は陣痛促進剤を投与しました。助産師さんが体を温めたりしつつ出産に向けて導いてくれていました。
常にきたちゃんの心拍数はモニタリングされていました。
朝から開始して、お昼ごろに分娩室に移動となりました。
そして無痛分娩のための麻酔を入れるための管が背中に通されました。
そこから陣痛に伴って子宮口が10cm開くまで待機でした。3時間くらいかかったと思います。麻酔が入っていることもあり妻は「これくらいだったら第2子も産もうと思える」と余裕そうでしたが、数時間後にすごく後悔していました。
子宮口が10cm開き、いよいよ陣痛に合わせていきむフェーズに入りました。
だんだんときたちゃんが下に下がってくるにつれて、痛みも増していき、
「痛い..! 麻酔を足して..!!」と妻が懇願するくらいになりました。
自動で入る麻酔に加えて、先生から追加で注射で麻酔が2度追加されました。
途中何度も体勢を変えたりしましたが、体勢によってはきたちゃんの心拍が異様に下がることがあり、また同じ体勢でも心拍が70くらいまで(通常は140くらい)下がることがあり非常に不安でした。
おそらく、首にへその緒が巻き付いているのだろうとのことでした。
妻は本当にずっと辛そうで、呻いていて、「無痛分娩とは…?」となりましたし、自分はうちわで扇ぎながら声をかけることしかできず、無力感がすごかったです。
何度いきんでもきたちゃんの頭の一番大きい部分がなかなか産道を抜けることができず、これ以上は胎児が危ないということで会陰切開となり、それでも無理だった場合は吸引出産となりました。
もともと助産師の方2名だったのですが、先生と助産師の方含めて計7名ほどが分娩室におり、若干の緊張感を私は感じていました。
そして会陰切開をして2回目のいきみでついに、きたちゃんが産まれてきてくれました。
きたちゃんの大きさを見て、こんなに大きな子供がお腹の中に入っていたんだとびっくりしました。
よく覚えているのですが、この時はまだ全然喜びの感情がなくて、きたちゃんは大丈夫なんだろうか、あんまり泣いてないけど異常はない?ものすごく出血してるけど妻は大丈夫か?と心配の方が強くて、まだ緊張の糸がきれていないのがわかりました。
その後、妻の切開した部位の縫合や、きたちゃんの確認や身長体重の測定などが終わり、分娩室には妻と私ときたちゃんと助産師の方1名となった時に、
プツっと、緊張の糸がきれたのを感じました。
妻に「やっとだね。2年間本当にありがとう。」と伝えました。2人とも泣いていました。本当に本当に待ちに待った瞬間でした。
妻も私もきたちゃんをカンガルーケアをして、きたちゃんを肌と肌でふれあいながら抱きました。
「産まれてきてくれて、本当にありがとう。」と娘に伝えました。
その後、親をはじめ色んな人に報告をしました。みんなすごく喜んでくれました。
多幸感に包まれながら私は病院を後にしました。
娘との日々
母子同室だったので、妻は一足先に娘との生活がはじまりました。
面会時間は1日1時間だったのですが、全然足りませんでした。ずっと娘と一緒にいたかったですし、何枚も何枚も写真を撮りました。
はじめてのおへそ掃除、おむつ替え、沐浴と少しずつ経験を積んでいきました。
退院の日は白い花束を持っていきました。
退院の日、妻に手紙を渡しました。
娘を産んでくれたことへの感謝、これまでの辛かった日々を一緒に乗り越えてくれたことへの感謝、自分が本当に幸せだということ、そしてこれからの父親としての抱負を伝えました。
出産した時に家族3人で撮った写真も添えました。
「宝物が増えました。本当にありがとう」
本当に妻とだから乗り越えることができました。妻には感謝しかないです。
妊娠中辛い身体でもずっと笑顔でいてくれて、
出産のためにヨガやピラティスに通い毎日1万歩歩いてくれていました。
あんなに辛い想いをしても、ひたすら前向きな妊娠生活を送ってくれていました。
自分にはもったいないくらい素敵な妻です。
私は4ヶ月の育休を取得させていただくことになりました。抜けた穴を埋めてくださる職場の方には本当に感謝しかないです。
私たちは実家が両方遠方かつ親がまだ現役なので誰かの手を借りることができません。そして何より3人分の期待と愛情を背負って産まれてきてくれた娘との時間を少しでも多く取りたい気持ちが大きったです。
なにより娘は本当に愛おしいです。
この2年間でより一層培われてきた感情なのかもしれません。妻も同じようで、大変ながらも楽しんで育児をしてくれています。
家事や授乳以外の育児は私もできるのですが、授乳だけは代わってあげることができないので特に夜の無力感は大きいです。
沐浴は私の担当です。日々娘の体が少しずつ大きくなっていくのを感じる時間です。
そこからお七夜やニューボーンフォトなどのイベントをはさみながら、娘との幸せな日々を過ごしています。
ただ、やはりこれまでの経験はある種のトラウマのようになっていて、
娘にまだわかっていない疾患があるんじゃないか、突然この幸せが消えてしまうんじゃないかと毎日1回は考えてしまってはいます。夜、あまりにも娘が静かに寝ていると乳幼児突然死症候群(SIDS)で死んでいるんじゃないかと不安になって、娘をつんつんしてしまう日々です。
でも、笑ったり泣いたりしている娘を見ていると、その瞬間はそんなこと全部忘れてしまうくらいに愛おしく、本当に毎日娘が心を豊かにしてくれているのを感じます。
娘が産まれてきてから、ようやくしっかりと先の人生のことを考えられるようになりました。
止まっていた時計の針が動き出すというのはまさにこういうことなんだろうなと思います。
毎日、妻と娘にありがとうの気持ちでいっぱいです。
1日1日を大切にしようと思います。
さいごに
1ヶ月前までは本当に出口に通じているのかわからない暗いトンネルをずっと2人で歩いているような感覚でした。
その先で、私たちは幸いにも娘を授かることができました。
でもだからといって「諦めなければ次は絶対に大丈夫!」なんて無責任なことは言えません。今もまだ苦しんでいる人に向けてなんて声をかけるのが正解なのかもわかりません。
不妊や不育、流産などは自分たちが想像しているよりも身近なことです。
そして妊娠・出産は本当に大変色々と覚悟と知識を持って臨んだ方がいいと思います。
もちろん、そんなこと経験もせず、いつの間にか産まれたって人が大半だとは思いますし、それが一番幸せだとは思うので、絶対にそうしろとは決して言えません。
妊娠や出産、不妊・不育に対する国や都の制度はようやく少しずつ改善されてきていますが、まだまだ十分とは言えません。
経済的な側面で子供を諦めてしまう家庭も多いんじゃないかと思います。妊娠初期の辛い時期に休みが取れない母親、父親が育休が取得できず、疲労困憊してしまう母親、こういった人が少しでも減っていくことを願っています。
不妊・不育についても、より経済的負担がなくなればと思います。
最後まででも、途中だけでも読んでくださった方が少しでも興味を持ってくだされば幸いです。
そしてほんの少しでも助けになっていれば幸いです。
読みにくい長文にお付き合いくださり、本当にありがとうございました。