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【毎日習慣】わたしのひととせ

 月めくりカレンダーは最後の1枚となり、ポスターみたいに薄っぺらい。厚みがある頃はぶつかることもあり、マグネットを起点に振り子のように揺れていた。いまは、壁に張り付くようで、ああ12月になったのだなと気付かされる。
 今年のわたしは劇的に変わった。

 きっかけはお年玉だった。兵庫に帰省していた母が祖父から預かったお年玉を渡してくれた。そして、わたしはそのお金で1冊の本を買った。
『AI 愛なんて大っ嫌い』という冨永愛の自伝だ。高校生の頃からモデルとして働き、コレクションデビューした彼女の半生はきらびやかではなく、生まれ育った環境や本人のメンタルは、表舞台に立つ人間とは思えないくらいドロドロと薄汚いくらいだった。そこからランウェイまで這い上がる誰にも負けない「反骨心」が、わたしの心を鬱病から解き放った。
 服を着替えて外に出る。そんな簡単なことすら、できない4年間だった。片道13分の駅まで歩くだけで筋肉痛になるくらい筋力は衰えて、バスに乗るだけで吐きそうになっていた。自律神経は乱れに乱れて、太陽とは疎遠な生活だった。
 かろうじて、呼吸している。なにも生み出さず消費するだけの毎日だった。それが、1冊の本を読了したことで少しずつ変わっていった。

 春は桜の写真をたくさん撮った。夏は青春18切符で海まで行った。秋は紅葉を見に公園まで行き、袋田の滝を見に行くプチ旅行もした。そして、冬を迎えようとしている11月末に友だちを自宅に呼んで蟹鍋を食べた。
 人を招くならばと奮起し、着ない服を処分し、家中を片付けた。それ以来、気になっていた汚れを余りある時間で落としている。

 文章を書き写す書写で、この間書き写した文章がある。
伊丹万作の『わが妻の記』の一節だ。

掃除と整理。これはもう極端に偏執的である。たとえば自分の好きなところはピカピカ光るほど磨き上げるが、興味のない所は何年もほこりが積み放しになつている。

伊丹万作『わが妻の記』

 引き籠もっていた4年間は、まさしくほこりが積み放しになっているようだった。締め切られた窓は道路に面しているから煤で汚れ、陽を差すのを阻んでいる。布団のうえで無為に過ごす毎日はあまりに不丁寧な毎日だった。睡眠も入浴もへたくそだった。
 大掃除をしようと思ったときに、いちばん最初に掃除したいと思ったのが窓だった。激落ちくんのスプレーをして、水切りで汚れを落としていく。
 頭より高い位置に手を挙げるという行為すら、あまりしてこなかったから翌日には筋肉痛になった。しゃがみ込むという運動もしていなかったから、歩くと膝がなくなるみたいに力が抜ける。ただ、その痛みはわたしの身体が元に戻ろうとするためには必要な痛みだ。筋肉痛だから休むのではなく、いっそのこと限界まで痛めつける。
 それは学生時代読んだ漫画『アイシールド21』の超回復を思い起こさせる。限界まで無茶をして、ゆっくり休む。そうすると身体はより強い筋肉を再構築しようとする。

 1年は同じ速度で過ぎゆくけれど、人間の成長は同じ速度では進まない。劣化もあるし、退化もある。肉体が衰弱しようとも、精神は成熟していく。しかも肉体改造は何歳からだってできるし、今日が一番若いのだから恐れず育成すればいい。
 わたしにとって、転換期となった1年だった。


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