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告白

ステファン・グラビンスキ 芝田文乃 訳

ポーランドの作家、ステファン・グラビンスキの自伝的エッセイ。〈Polonia ポロニア〉紙1926年第141号(5月24日付け)12-13頁に掲載されました。

 自分の作品に支配的なものは何だと思いますかと訊かれたら、それは大いなる驚嘆と崇拝に満ちた感覚、人生とその神秘への敬愛と驚嘆だと答えるでしょう。「はじめに驚きがあった」――自伝の第一章をこう書き始めるでしょう。人生とその徴候のすばらしさ、出来事の不可解さ、あの不思議さ、われわれはほとんど一歩ごとにそうしたものにぶつかりますが、それらは最初の日々に、驚きに見開いた子供の目で世界を見るよう私に命じ、青年期の作品を不安と賛嘆の感覚で満たし、四十代に近づきつつある今日、男らしい物思いを引き起こすのです……。

 これが私の主要なモチーフ、人生とその問題に対する私の基本的〈態度〉、主要なリズムであり、そこに私の自我の最も大切な鼓動が脈打っています。二次的な現象として、世にもすばらしい、人を麻痺させる深淵を知りたいという情熱的で頑固な不屈の欲望、四大元素を制御し、生命現象のカオスに秩序と整頓を導入したいという欲望があります。これが私の創造的な思考と芸術家としての世界観です。私がそうする権利を拒絶する人たちがいて、私の〈哲学〉なんかだれも気にしていない、いわば純粋に私個人の問題にしておくべきなのだ、と私にわからせようとする――その上、私の思考世界をオカルトや精神医学研究のフォーマットに閉じ込めて、人心へのアクセスを遮断しようとするのです。私の顔に冷たい教条主義者の仮面を投げつけながら。そうした〈非難〉に対する唯一の信頼できる防衛は私にとって〈素人たち〉、私の読者たちの意見や声を外に出すことです。彼らは知識をひけらかしたり分析したりはせず、敏感な心の直感で我が創作上の格闘の憧れを感じ取るのです……。

 計り知れない人生の混沌を制御する最初の手段となったのは私にとって宗教でした。そこに私はつかのまの避難所を、一時的な船着き場を見出し、子供の頭上で割れる海の巨人たちの荒波で耳が聞こえなくなった私はそこに入港したのです。最高の母に優しく見守られ、深く誠実な信仰心の中で育った私は熱烈に敬虔な子供でした。私の信仰には当時すでにきわめて神秘的な特徴がありました。私は地上とあの世の秘密の関係を感じとり、人生の出来事や歴史に、私の親戚や知人の運命に、一見平凡な表面の下、深く隠された神秘の意味に、当時すでに気づいていました。私はあらゆるものを隠された謎のように見つめ、至るところで象徴に気づきました。世界と人々に対する私の視線は当時すでに〈比喩的な〉性格を帯びていました。とりわけ強く感じたのは自然の美しさです。最も単純な、最も原始的な風景でさえ、私にとっては、それ自体で閉じ、新たに個性を与えられた全体となって何らかの思想を活気づける――それはみずからの奇妙で神秘的な魂を持っています。自然と、いわゆる静物に対する私の自我のこの態度を、いまだったら〈汎神論〉と名づけるでしょう……。

 時が経つにつれ、教条主義的な信仰は私には十分ではなくなりました。目覚めた知的生活と官能的な生活が、私の足元からこれまで安全だった地面を突き崩したのです。自分が揺らいでいると感じました。反抗と疑念の時期がやってきました。それらを悪化させ、苦しい経験をより強めたのが――長引く五年余りの病気、入院、二回の手の手術、死の幻でした。それは悲しい時期でした。十五歳から二十一歳の間の出来事は、私のその後の人生にその哀悼の経帷子を拡げ、その後の日々の道筋に強くはっきりした影を投げかけました。私は当時すでに人生の神秘的な恐怖を知り、悪は善と同じくらい強力であることを確信しました。この時期の失望の表現が、私の最初の短編小説「Puszczyk(モリフクロウ)」です。1906年に書かれ、1909年に『Z wyjątków. W pomrokach wiary(例外から。信仰の闇の中)』という短篇集に収録されました(ステファン・ジャルニィ名義。ルヴフ、モニシェフスキ刊)。

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