見出し画像

お釈迦様のカワ(・∀・)イイ!!話✧♡

 小林正観さんの「生きる大事・死ぬ大事」に載っていたお釈迦様の話をもう一個紹介したい。

 先日、楽しく嬉しくなるような話に出会いました。

正観さんの書き出し

 ここから私の要約。今から約2500年前、紀元前500年ころ、お釈迦さまを頂点とする仏教徒集団は、1250人もの大人数で生活をしていたらしい。
 この集団は「できる限り自分でできることは自分でやり、どうしても自分ではできないことを他人にやってもらう」という形をとっていた。
 その他人にやってもらうというのも「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えをベースにしていた。「無財の七施」とは「財力がない人にもできる七つの施し」のこと。

お給料というアイテムを失い、年金もまだの私にもできること!?°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°(あやのん)

一、優しい眼ざし(目)
二、思いやりに満ちた言葉(口)
三、温かな笑顔(顔)
四、他人の悲しさをわかる心(胸)
五、荷物などを持ってあげる(手足)
六、席を譲ってあげる(尻)
七、寝る場所を提供する(背)

無財の七施

 お釈迦さまを取り巻く集団では、何か人に頼むとき、こういう呼びかけをしていたらしいのです。
「誰か私に施しをし功徳を積んで、幸せになりたい人はいませんか」
「施し」をすることは「他人のため」ではなく、「自分のため」であったのというのは驚くべきことでした。
 例えば「人の為」と書いて「偽り」という文字ができています。(中略)
 紀元前1500年の中国で「偽」という文字を作った人がいて、その1000年ほど後に、インドで「自分の功徳のために、他人に施しをしよう」と唱えた人がいるわけです。宇宙からの情報(真実)は常に同じである、と言ってよいのかもしれません。

 お釈迦様の集団は、小さな布切れを拾ってきてはそれを縫い合わせ、それぞれの人の衣にしていた。目が見えなくなったある弟子も、ある時、自分の衣を作ろうとしていた。しかし、針に糸を通すことができない。 

彼は大きな声で、
「どなたか、私に施しをし功徳を積んで、幸せになりたい方はいませんか」
と、周りの人に呼びかけました。
目の前を通りかかったらしいある人が、
「私にやらせてほしい」
と言いました。
「えっ、その声はお師匠様ではありませんか」

 お釈迦様がちょうど弟子の前を通りかかったことに気づいて恐縮した弟子は、お師匠様にそんな大それたお願いをするわけには参りませんと、申し出を固辞する。すると、弟子からそう言われたお釈迦さまは、こう言った。

「なぜだ。なぜ私ではいけないのか。私だって幸せになりたいのだ。私だって、もっと幸せになりたい」

 お釈迦さまはありとあらゆる執着を離れることができ、全ての苦悩・煩悩から「解脱」した方です。何も悩みはなく、十分に幸せになっていた人でした。
 その人が、「私だって幸せになりたい」と言ったというのです。
 何と素敵な一言でしょう。
 よく考えてみれば、お釈迦様は仏教徒ではなかったし、キリストもクリスチャンではありませんでした。(略:仏教典は死後700年たってから、聖書も死後300年もたってからまとめられたもの)
 お釈迦様もキリストも「宗教者」ではありませんでした。宗教者ではなかったけれど「実践者」だった……。

わあ💛お釈迦様、なんてカワ(・∀・)イイ!!発言でしょう°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°(あやのん)

 正観さんがこの話を周りの人にしたところ、ただでさえ温和で明るく楽しい雰囲気だったものが、さらにパワーアップしたそうである。

 何かをしてもらったとき、普通の「ありがとう」は多用していましたが、この話のあとからは、このように言うようになりました。
「幸せになってくださってありがとうございます」
 そうすると、必ずや、こういう言葉が返ってくるようになったのです。
「いえいえ、幸せにしてくださって、ありがとうございます」

 この話を読み、自分の職場で、やってみたかったなと思った( ´艸`)
 誰かに手伝ってほしい時、
「どなたか、幸せになりたい方はいませんか?」
 と仕事を頼み、やってもらったら、
「幸せになってくださってありがとうございます」
 と言う。自分が誰かを手伝ったら、
「いえいえ、幸せにしてくださって、ありがとうございます」
 とお礼を言って笑う。

 なんだかとても素敵な社会だ。

 お釈迦様の経典をそのまま読んだら、理解もできず、挫折しそうだけど、正観さんの教えてくれるお釈迦様の話は、とても分かりやすい。

 喜んで、お釈迦様と真の友になりましょうと、弟子のひとり、アヤノンダは、心に感じ入ったのです。

 お釈迦様✧♡ カワ(・∀・)イイ!!



誰かこの記事にコメントして幸せになりたい方はいませんか✧♡