
赤毛のアン『で』語り合おう④✧♡
⑧アンの娘リラ

この8巻目で、アンの一家の物語は、一応、終了。
いったいどんな物語?
前回、予告した通り、第一次大戦が起こって、カナダからも志願兵が募集される。冒険や戦いの大好きな長男ジェムが自ら志願して、戦争に行くことを決める。アンは母としてそれを止めることができない。それはジェムの決めた自分の人生のことだからだ。
マンデーはコリーでも、セッターでも、グレーハウンドのような猟犬でも、ニューファンドランド犬でもなかった。ジェムがいうように、なんでもないただの犬だったー。(中略)
けれどマンデーは、ふしぎな力を一つ持っていた。マンデーは、犬という犬がみんなみかけがよかったり、雄弁だったり、勝負に強いというわけにはいかないけれど、たとえどんな犬でも人を愛すことならできるということを知っていた。見かけのわるい毛皮の下に、どんな犬も持ったことのないような、愛情深く、誠実で、忠実な心が、脈打っていた。どんな神学者もみとめようとしないだろうけれど、褐色の目の奥から、人間の魂に近いものがのぞいていた。(後略)
すでにこの文章を打つだけで頬を涙が流れる犬派の私( ´艸`)
うちのレオ君もすでに人間のかわいい小学生ぐらいの男の子になって、どこかに暮らしているに違いないと思っている。
レオ、いつか黒帯と私とすれ違ってね💖
ジェムの犬、マンデーは、忠犬ハチ公のように、戦争に行くジェムの見送りと共に駅に居座るようになる。
そう、この物語は、アンの家を襲う戦争の物語。
アンの家の息子たちも、同じ町に住む各家庭の息子たち、色々な娘や親たちの愛しい人が戦争に行くことになる物語だ。
だから、物語のほとんどは、戦争に行かない女性たちが、何をして、何を考えていたかの物語になる。
救いは、カナダは、イギリスを応援するという志願兵だったことだろう。日本の赤紙が容赦なく送られてくる徴兵制度とは違うと言うことだ。
日本の連ドラの描写のきつさは、戦争そのものもあるが、戦争に愛する人を奪われても悲しんではいけないということ。(これはカナダも同じ)
また、コロナの時のマスク警察のように、普通の人が普通の人を取り締まる民間の締め付けがきついところにある。
マスクの大嫌いな私にとって、全く不思議に思うが、コロナと言う病魔が普通の病に成り下がっても、世の中にはまだまだマスクをしている人が沢山いる。反対に、マスクしたい人もいるのだ。
好きなように、一生マスクしていてください、と思う。
まだまだ、私はあなた、あなたは私、とは思えない私。
アンの物語の中で、一番読むのがきついこの物語の救いは、皆から赤ちゃんと思われている末っ子のリラが、とても成長すること。
アンを孤児院からひきとったマリラからとった名前を引き継いだ女の子。他の兄弟姉妹のように、大学に行かないの?と尋ねられたリラは次のように答える。
「うちからはもう5人も大学にいっているのよ。それでたくさん。どの家にも、おばかさんが一人はいるものよ。わたしはよろこんでそのおばかさんになるわ。きれいで、人気があって、楽しいおばかさんになれるならね。わたしにはなんの才能もないのよ。それがどんなに居心地のいいものか、先生にはわからないでしょうね。だれからも、なんにも期待されないから、やいのやいのといわれないですむわ。」
かといってリラが夢も希望も持っていないというキャラではない。
リラは兄弟姉妹の中で一番美人°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°
「まじめくさって、おちつきはらってなんかいられないわーわたしにはなにもかもはバラ色に、虹のように見えるんですもの、来月になれば十五だし、来年は十六ーその次の年は十七よ。これ以上すばらしいことってあるかしら?」
話を聴いていたオリバー先生は言う。「すきなだけいいたいことをいっていらっしゃい。」「すきなだけどうぞ、リラ・マイ・リラ」
リラを親しみを込めて呼ぶ、合言葉のような呼び名。
「リラ・マイ・リラ」
そこにアンの大好きだったマリラの名前が見え隠れする。
私がポストイットを貼った場面を引用していく。次は、ダンスパーティに行って、気になる男の子から声を掛けられる場面だ。
ケネスは背が高くて、とてもハンサムだ。物腰がなにげなくて上品だから、ほかの若者たちはそれにくらべると、いやにぎこちなく、ぎくしゃく見えてしまう。恐ろしく頭がいいという話だし、はるかに遠い大都会に住み、大きな大学に行っているという魅力が、ケネスのまわりにただよっていた。それに、ちょっと女泣かせだという評判もたっていた。けれどそれはたぶん、ケネスの笑っているようなやわらかな声をきくと、どんな女の子でも、胸がどきどきしてしまうせいだろう。それに、ケネスが女の子の話に耳を傾けているときは、まるでいままでききたくてたまらなかったことをきいているのだと相手に思わせてしまうようなところがあるからだろう。
「リラ・マイ・リラじゃないか。」ケネスが低い声で言った。
自称、少女漫画家的に、完璧な登場。ケネスが申し分なく素敵な若者であることがわかる。
そんな素敵なケネスがリラのことを、ウォルターが妹のリラをかわいがるためにつけた呼び名、「リラ・マイ・リラ」と呼ぶなんて💖
ハリウッド映画を見ては、このラブシーンいらね~と思う私が、なぜか、赤毛のアンシリーズのロマンチックシーンはとても好きだ。
ハリウッド映画はとってつけたようなラブシーンの挿入に、違和感があるが、モンゴメリーの小説は、ちゃんと物語になっている。
ケネスにリラがなんと答えたかも可愛すぎるので、載せようと思ったが、やはり読者の楽しみを奪わないようにしゅるわよ💛
そこでスーザンのいやらしいいとこのソフィアばあさんが、大きな声でいった。いとこのソフィアはその場にすわって、編み物をしながら、カラスみたいな声をはりあげたのだ。ウォールターはいとこのソフィアのことを『不幸を予告し、泣き言をならべるカラス』といっていたけれど、ほんとうにそうだ。
戦争で、愛する人が死んだというニュースに悲しむ人に、追い打ちをかける心ない人がいるものだ。それがこのソフィアなのだが、アンの次男、ウォールターのつけたあだ名に笑った。
いいぞ!ウォールター(⋈◍>◡<◍)。✧♡
この本の中で、最も、印象的な登場人物は、成長したリラと並んで、お手伝いのスーザンだ。
政治にとんと興味のなかったスーザンが、愛する炉辺荘の男の子達の出征をきっかけに、新聞を隅から隅まで読むようになり、私は学が無いからといいながら、人間としてもっともなことを述べて、皆を励ましたり、戦争のための寄付を集める会ではぴりっとしない演説に、腹を立てて、自分が演説に飛び込んだり、本当に、台所から世界を守ろうとする頼りになる女の人が誕生するのだ。成長するのは、若者だけじゃない。
前まで、ミス・コーネリアが私の大のお気に入りだったが、この巻で、スーザンもお気に入りに登録された。
「あんたを翻らせておくために、私らみんなが何かしら差し出しているんだよ。」スーザンはいった。「四十万のわが国の若者が外地におもむいてーーーそのなかの五万が命を失った。それでもーーーあんたにはひるがえっていてもらわなくちゃならない!」
灰色の髪が、風で顔のまわりで乱れとんでいたし、首から足まですっぽりつつんでいる、ギンガムのエプロンは、上品さよりも、節約を考えてつくったものだった。それなのに、なぜかそのときのスーザンの姿は、じつに堂々としていた。勇敢で、恐れを知らず、忍耐づよく、雄々しい女たちーーーこれまでの勝利を可能にした女たちーーースーザンもそういう女たちの一人だった。スーザンの姿は、最愛の者たちがそのために戦ってきたものの象徴だった。そんな思いが、そのとき入口に立ってスーザンをながめていたギルバートの心にうかんだ。
スーザンの姿に、感動で泣ける(´;ω;`)ウゥゥ
この記事を書きながら、私が家事のロワイヤルに取り組んでいたのは、いつも朝から晩まで休みなく働いているスーザンに感化されていたのかもしれないと思う(私は朝から晩まで働かないがw)
食事の支度、掃除、洗濯、おいしいケーキ作りをするスーザンは、ちょっと私の憧れの人だ。

赤毛のアンの家族の物語はこの八巻までで、残りの2巻は、アンの周囲の人々を描いた短編集とのこと。
子供の頃に読んだ「赤毛のアン」は初めの一巻だけで、こんなに続きがあるのか!と衝撃を受けて、読み始めたシリーズだ。
どの巻をとっても魅力的ですばらしい。いろいろな人間たちの人生模様が、悲しいことも、楽しいことも、生き生きと描かれている。
モンゴメリーは素敵なユーモア作家だと、よくわかった。
プリンスエドワード島に行きたいと言う人がなぜそんなにいるのか、今ならわかる。物語の背景に描かれている豊かな自然、魅力的な登場人物、想像力豊かで他人の心に寄り添うアン、少女時代から、たくさんの子供を持つ、母時代まで、いつの時代のアンの人生も、女の人にとっては自分に重なり、愛おしい。
こんなに面白い素敵な物語だとは、今まで生きてきて、本当に知らなかった。
世界は本当に広く興味深い💛
たくさんの物語が、私に読まれるのを待っている。
赤毛のアン、ありがとう💖
自分の中に、ミス・コーネリアや、スーザン、マリラを溶かして、いつか美味しいケーキを焼こうと、金毛のあんは思ってる♡

アーチストチャイルドクラブ(ACC)の課題図書の「赤毛のアン」。
読み終わった人から記事を書いてます。
note読書会、ってできそうですね( ´艸`)
何人か集まって月の課題図書決めて読んで、感想記事を書く。
面白そう( ´艸`)
アンが好きな方、共に、語り合いませんか?