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【掌編小説】深夜、君のいない春隣

「ねえ、朝だよ起きて」

耳慣れたその声で、僕は目を覚ました。確かに呼ばれた気がした。でも、目を開けるとそこには誰もいない。変わらず、自分の部屋でひとりきりだった。

時計を確認しようと枕元のiPhoneを手に取る。画面にはLINEの通知がずらりと並んでいて、その黄緑のアイコンが視界を埋め尽くしている。それを見ていると、なんだか全てに責められているような気がして、思わずiPhoneを床に投げつけてしまった。

時計を見ると、まだ夜中の2時過ぎ。寝すぎたせいでぼんやりとした頭の中で、「まだ2時か…」と呟いた。もう一度寝ようと試みたが、目が冴えてしまって眠れそうにない。こんな時間だけど、起きることにした。

重い体を引きずってベッドから起き上がり、洗面所に向かう。部屋には服や本が散乱していて荒れ放題だ。部屋の中を歩く度に足元で何かが崩れる音がする。一人暮らしを始めてから、こんなにも部屋を散らかしたのは初めてだった。

洗面台の前に立ち、鏡に映った自分の顔を見て思わず「うわ」と声が漏れた。顔色はどんよりとした灰色で、髪はぼさぼさでプリン状態。これまでは身なりを少しは気にしていたのに、今の僕は見た目を整える気力すらなかった。



2時50分。パーカーにジーンズを身にまとい、玄関の鍵を開けると、冷たい夜風が頬を刺した。夜の静けさが僕には心地良かった。街灯のちらちらと点滅する淡い光だけが、僕の孤独を優しく包み込んでくれているように感じた。

久しぶりに夜の外を歩くと、体力が落ちている気がした。このままずっと、この生活を続けていたら僕はどうなってしまうのだろう。そんな不安を押し込めながら暗い道を歩き続ける。

気が付くと川辺まで来ていた。水面には街灯のあかりが揺れていて、夜の静寂の中、僕の心は少しだけ落ち着きを取り戻していった。ふと彼女のことが頭をよぎる。あの笑顔、声、そして温もり。それが今はもう、ただの思い出の中にしかないということが、僕の胸をひどく締め付けた。

ああ、もうすぐ日が昇る。帰ろう。今日という日がまた始まるのが怖くてたまらなかった。

家に戻り、ベッドに横たわる。「眠るよ。おやすみ」と小さく呟いて目を閉じる。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。



「おはよう」

まどろみの中で、彼女の声が僕を呼ぶ。
「ねえ、起きてってば」

驚いて目を開けると、そこには彼女がいた。あの温かな笑顔で、僕を見つめている。
「どうして…」
そんなはずない。君はもう、どこにもいないはずだから。その言葉が漏れそうになるのを、僕は必死に飲み込んだ。

「へへ、どうしても会いたくて来ちゃった」

彼女が笑いながらそう言った瞬間、僕の胸に複雑な感情が湧き上がる。

「なに、その顔。会いたくなかった?」
拗ねたような口調で彼女が言う。僕は涙をこらえながら、言葉を探す。

「ちがうんだ、君に会えて嬉しいんだ。ただ…」
僕の胸は締めつけられる。彼女がそこにいるのが、ただの夢だと分かっているから。

「もう、泣かないでよ」

そう言って、彼女ははにかむように微笑む。いつものように無邪気な顔で、僕を見つめている。僕は懐かしさと悲しさに満ちた気持ちを押し殺しながら、そっと頷く。

「今日は桜を見に行こうって約束でしょ!」

桜か…。そうだった、彼女と一緒に桜を見に行く約束をしていたんだ。でも、それは叶わなかった。

彼女は僕の手を引っ張り駆け出していく。
向かった先には満開の桜があった。

「約束、果たせたでしょ」
笑顔で彼女は言う。

僕は彼女の笑顔を焼き付けるように見つめて、静かに呟く。

「ありがとう。ずっと忘れないよ。」

目が覚めると、隣には誰もいなかった。
ひとりの朝がやってきていた。
けど、不思議と心は温かった。

空いた窓から、春の風が部屋に入り込み
桜の花びらが僕の頬に触れた。

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