私を悲しくさせるものについて考えてみた
昨日の「可愛いもの」の続編
⚠️前みたいに明るい記事ではないぞ!
一旦これも今考えられるものと、その理由を考えてみた。
こういうの、日頃からメモ取っとくもんだな
・judgeされること。
私がされて嫌なこと第1位。めちゃめちゃ悲しい。痛い。
肩書きで見られること。よく知りもしないのに決めつけられること。
そんな仲良くない人にjudgeされても、比較的傷は浅いけど、
仲良い人(仲良いと自分が勝手に思ってた人)にされると結構痛いなぁ
1対1の人間としてぶつかる、その姿勢と覚悟をもっていたいし、そういう関係が好きです。
・人を傷つけてしまったこと。
これは本当に痛いし、自分が傷つけられた時よりも断然自分に残る。
詳しくは、『私があの子に投げたナイフは、もう抜けて癒えただろうか』参照。
・人との関係を諦めてしまうこと。諦められること。
諦めることって、比較的ネガティブな文脈で捉えられることが多い気がするけど、私は諦めるってとても勇気のいることだと思ってる。
必ずしもネガティブなことではないし、前に進む/自分の道を進むために必要な過程だったりする。
だからこそ、それを十分に分かった上で、
人との関係を諦める/諦められること。その人の人生に自分がいなくなること、自分の人生にその人がいなくなることを、"選択される"/”選択する”ってやっぱり悲しいなと思う。
・自分への失望、怒り
私が唯一泣くのは、自分に失望した時。自分への悔しさと怒りで涙がでる。
その失望とか怒りは、1周まわって悲しさに変わる。
情けなさ、かな。いやーこれは悲しいし辛い。
・気持ちを忘れてしまうこと、思い出せなくなること。
こないだ、『軽薄さ、という武器』 っていうブログを書いたんやけど、それの根本かな。
気持ちって忘れちゃうんだよ、これが。
あんなに好きだったもの、大事だったもの、欲しかったもの、やりたかったこと、伝えたかったこと、時間が経ったら忘れちゃう。(勿論忘れられないこともあるけど)
その気持ちごと忘れちゃう、その気持ちを持ってたことごと忘れちゃう。
思い出せなくなっちゃう。それが悲しいなと思う。
だからこそ、伝えられることは今伝えておく。
やりたいことは今やる。
軽薄さ、という武器は持ち続けたい。
・この人がこの人でいられる時ってどんな時なんだろう、を想像するとき
これは私の癖?なのかな?なんか想像しちゃうんだよな
誰にでもではないけれど、目の前の人が、その人、でいられる場所は、受け止めてくれる人はいるんだろうか、とか。よく想像しちゃう。
もしかして、いないんじゃないかって想像してしまった時、悲しくなっちゃう。
もし私が力になれるのならなるし、出来る限りのことはしたいと思うけど、必ずしもそうではないから。
・自分を笑顔で否定している人
今自分の周りにはいないけど、過去に会ったことあるなぁ。
その笑顔が、暫く忘れられなかった気がする。
何が悲しいって、全っっっ然笑えないんだもの。
その人が、悲しいことを、悲しい、って悲しい顔で言えないこと。
その人にそうさせてしまっている過去と今。それがとてつもなく悲しい。
・この世に代わりなんてないこと(あったらあったで悲しい)
この世に”代わり”はあるのか否か、という問いあるけれど私はないと思う。
ないって分かってるからこそ、あった方が救われる(?)のかもしれんけど。代わりがあったらあったで悲しくない?
別の選択肢は存在すると思うんだけど、”代わり”ではない気がする。
あなたはどう思いますか。
・愛してほしい人に愛されないこと
問答無用で悲しい。
・自己犠牲のやさしさ
あぁ、これ結構悲しい。その人がすり減っていっちゃうように見えちゃう。
でもどうしたら良いのか分かんない。
「もっと自分を大事にしていいんじゃない?」って言えばいいの?
なんか、そういうことじゃない気がして。
・ちゃんと見せて欲しい人が、見せてくれないこと。
その不一致と自分の器量の足りなさ
基本的に、ある程度は自己開示を真っ直ぐするタイプではある。
1対1の人間として向き合える関係を築きたい、と思うから。
相手にも開いてもらいやすいように、自分も開く。
ちゃんと見たいから、ちゃんと自分も見せる。
でもたまに、ちゃんと見せて欲しい人が見せてくれないこともある。そりゃそんなこともあるわな。人間だもの。
しょうがないんかもだけど、その不一致と、自分の器量の足りなさが悲しい。いつか、また向き合えるタイミングが来るのだろうか。
一旦こんなもんかな〜と思ったけど、意外とあったな(笑)
まぁでも総じて思うのは、経験した悲しさを、自分や誰かへのやさしさに変えたいなということですかね。
これいろんなシリーズでやっていくの、結構面白い
次は何にしよう〜