体という器に満ちゆく祝福のこと
夏至一日前、ゆわいのヨーガの時間を受け取りました。
体から詩が生まれること、愛も祝いも体があってこそ届けられることを深く理解しながらも、大事にする方法がわからないでいるところがありました。どうすれば体に届くのか。どうすればこの体と仲よくできるのか。ゆうりさんにお誘いいただいたとき、これまでずっと蔑ろにしてきた体とようやっと向き合えるのではないかと思いうれしくお受けしました。わたしは空間である祝のことも大すきで、この抱擁の中でなら体と話ができるかもしれないと思えました。祝はいつもおおらかにそこに在り、暗やみがこんなにもこわくない、暗やみに親しみさえ覚える空間は滅多に出逢えません。
呼吸がこんなにも気持ちよかったことを思い出せてよかった。見えざる煌めきを吸い込み、体に贈る。もう必要のないものを手放すために吐き出す。このようなことをもうずっとずっと続けてきたから今この体があたたかいこと。そのことに静かに打ちのめされました。それから、体へ話しかける言語を持ち合わせていないことが問題なのではなく、体へ話しかけることがあまりに少ないことがわたし(の体)を心細くさせているのだとわかりました。向き合い、心の眼差しを注ぎ熱と労いを贈るだけでよろこんでくれたこの足裏の高揚をきっと忘れることはないと思います。
祝としてゆうりさんが贈りたいと願っていた祝福は、ここにわたしが在ることのかけがえのなさに触れることなのだと思いました。ここに体があるよって。ただそれだけの歓び。触れて色づいてゆく体を抱きしめ、その小さな声を聞き届けてゆきたい。懸命なこの体という存在が愛おしくなりました。頭でわかっていたよりもうんと強い体感として、愛おしさを感じたのです。
体に手を当てる。撫でて手のひらで熱を伸ばして配ってゆく。そのときにわたしはこんな声かけを内側でしていました。
「これはたっぷりあるからね、みんなみんなの分があるからね。大丈夫だよ」
ここに湧き上がってくるそれは愛だったのだろうと思います。愛はここにたっぷりあるからね。みんなみんなの分があるからね。大丈夫だよ。
触れているとき、触れていることと同じくらい触れられていることを感じてみるという時間があったのですが、まだまだ体ぜんぶでは触れられていることを知覚できない。愛を受けとめる器の話をゆうりさんとしたことを思い出す。自分の体を愛する方法がわからないことよりも手前、向けられた愛を受けとめる器がとても小さいときのこと。間接的な方法、食べ物に込められた愛を取り入れたり、他者に投影した像を抱きしめることからすこしずつすこしずつ器を育てていったことを教えてくれた。祝のヨーガの時間で分けてくださった祝福はゆうりさんが時間をかけてその身に満たした愛の賜物。最後のシャバーサナの時間、ゆうりさんの存在の輪郭が祝の空間に溶けてほんとうに声だけの光だった。ゆうりさんも星なのだなあとまどろみながら思った。
ここにたくさん溢れているものを見出すこと。それだけではなく溢れているものを受けとめることは、持ち合わせている肉体の在り処を尋ねこわばりをゆるめることからだと思う。体にはやさしくしてもし尽くせないよなあって途方に暮れるけれど、今日もわたしはわたしの体と共に在るということは誰にも奪えない真実だ。おおきなもの、巡りゆくもの、すべてのわたしたちをわたしは愛したいし愛を受けとめていたい。
愛はここにある。
ここにたっぷりある。
みんなみんなの分があるからね。
大丈夫だよ。