自己紹介|陶芸との出会い、継続への困難
陶芸との出会いはオギャっと誕生したその日から。
母は茶道とスキーを嗜むアクティブな人で、父はそんな母の趣味を一緒に楽しむ旅行好きな人だったので、我が家の旅行はもっぱら温泉と窯元めぐり。
小さい子どもがいようと関係なく茶会があれば準備のために家中に茶道具が並べられ、桐の箱から地味な色の器がごろごろ出てきた。
母は家族分の干支の茶道具を集めるのが好きで、私の干支の香合だの茶碗などがたくさんあった。
休日は、茶席の菓子を餌に着物を着せられ母の茶会の手伝いへ。渋い茶を飲み高価な器を理解せずも眺め、器展があれば車でどこへでも美術館を巡る。そんな文化的な過ごし方だった。
特別芸術に理解がある家族かと言われたらそうでもないが、幼少から絵を描くことが好きだった私のなりたい職業は画家で芸術家だった。
陶芸をきちんと意識し始めたのは高校生のころ。選択式の科目で工芸の授業があり、漆やろくろ、木工などさまざまな工芸に触れた。
その中で、前夜から制作のイメージトレーニングをするほどのめりこんだのは陶芸だった。
高校までクラスでよくいる絵がうまい子で、そこそこセンスが尖っていたのもあり、担任から三者面談で美大に進むよう言われるが、現実的な両親は絵は趣味程度にとどめて堅実な職業に進むことを提言され挑戦することなく美大進学は阻まれた。
しかし陶芸は大学まで趣味程度に細々と続けた。
こうして30歳まで地道に社会人をやってきたが、陶芸という茨の道へと来てしまったのはもはや仕方のないこと。(三つ子の魂百までとやつだ)
陶芸家として転機が訪れたのは2017年地域おこし協力隊で新潟県の旧村の山間部に移住したとき。
なれない田舎暮らしが始まるとほぼ同時に、小さな工房を構える陶芸家と出会った。
”用の美”とはこういうことを言うのだと、初めて器を使ったときの感動は忘れられないほど、その魅力は計り知れず、将棋戦が行われるような有名な旅館に器を卸しているほど実力のある陶芸家だった。
後に、この陶芸家が私の恩師であり師匠になる。
地域おこし協力隊のつながりもあり、師匠の下で勉強しながら地域の小学校に向けた陶芸教室を開催したり、協力隊の拠点で陶芸教室を運営し地域の商業施設とコラボして観光促進を図ったりした。
高校・大学と陶芸を続けていたが、”陶芸家”というのにはあまりにも恥ずかしいくらいの実力だったが、師匠の丁寧な指導もあり2年後には市展に挑戦できるくらいになっていった。
市展で佳作を獲ったり、音楽祭で作品ブースなどを出展したり順調に陶芸家としての道を歩んでいたが、任期のある協力隊では私の挑戦はそこまでとなってしまった。
退任後は就職の選択肢が多い地元東京に戻り、中小・大企業の営業職を渡り歩いた。
当時シングルマザーだったのもあり、師匠からも、子どもがきちんと巣立ってから、安室奈美恵さんのように自分の人生を歩めばいいと言ってもらっていたので、陶芸からは一切身を引いていた。
(安室奈美恵さんと私を重ねてくれるなんて光栄だし、その思いが優しくてうれしかった)
2021年にパートナーと結婚し、再び陶芸の転機が訪れた。
子どもが巣立つまでの数十年は陶芸をしないと決めていたので、新潟を発ってすぐ道具も釉薬も土もほとんど捨て、一切の身を引いていたのだが、何かを察知したのか、パートナーが陶芸をできる環境を見つけて再び始めるように勧めてきてくれたのだ。
これにはとても驚いたし、始めるにあたっていくつか不安もあった。
当時の不安要素
1.陶芸をする経済力
2.陶芸をする時間の確保
3.親が趣味に没頭することで子どもへ与えてしまう心理的ストレス
4.師匠との約束である子どもが巣立つまでを破ってしまうこと
東京に戻ってから数年間営業職に就いてたが、あるプロジェクトをきっかけにアプリ開発に大きく関心を持ち、将来性を見据えて2023年退職しジョブチェンジに挑んでいた。
雇用保険を使い職業訓練校でコーディングを学び、HTML・CSS・javascriptを微習得。
さあ就職と正社員で内定はでるが、一年間ほとんど主婦(と勉強)がメインの生活からの通勤・フルタイム・残業・20時帰宅は両立が難しく、主婦に毛が生えたような稼ぎのアルバイトで生活は落ち着いていた。
子どもの習い事にはお金を惜しまないけど、自分たちの飲み食い代は切り詰める。そんな所得構成の中、私が陶芸を始めるのはかなり贅沢な話だった。
また、元々時間を忘れて制作に没頭するのが好きな私は協力隊時代から子育てと制作の時間の両立には悩んでいた。
協力隊時代は、一応陶芸は仕事であり生活の一部だったので、必要に応じて両親にわざわざ新潟まで来てもらい子守をしてもらうなどして何とか両立していたが、これから始める陶芸は仕事でも何でもない、自分のための陶芸なので、生活と陶芸の時間の使い方をうまく分けられるか不安だった。
また先述、私が幼少のころ母は茶道を嗜んでいたと述べたが、そののめり込みようはすさまじく、きつい子育てと仕事の日々から逃れるように土日のほとんどを茶道に費やしていた。
両親はフルタイム共働きで、特に母は負けん気が強く、男性に引けを取らないことがステータスな人だったので平日はバリバリ働いて帰宅はいつも22時過ぎ。(父はマイペースな営業部長だったので18時に帰宅して夕飯を作ってくれていた)
眠い目をこすりながら帰ってきた母と話せる時間は毎日30~1時間程度だった。
なのに土日はやれ茶道でいませんとなると、子どもの私はかなり寂しい思いをしたものだ。
今なら母の気持ちも多少理解できるが、自分の子どもにはそんな思いはさせたくない。だけど、陶芸は片手間でできるものじゃないので子どもに負担をかけてしまうと悶々と考えていた。
そんな協力隊時代や私の置かれている立場、性格を見ていて師匠は陶芸は子どもが成人してからと言ってくれたのだろう。
本当は、陶芸家として期待している弟子には、なりふり構わず陶芸家の道に進んでほしいものだろう。
でも、人格者である師匠は諦めろともやめちまえともいわず、ただその時が来るのを待てと言ってくれた。
そんな思いを知っているからこそ、中途半端に陶芸を始めることにはとても抵抗があった。
それぞれ、いまだに完全な解決はしていないが、どうにかこうにかこうして陶芸をしている方法を備忘録を兼ねて記録する。
1.経済力について
これは、師匠の言葉を借りて今は時を待つことを実践している。
というのも、陶芸を継続するためにやはり将来性の固いエンジニア職を未だに目指しているから。
アルバイトとしてやっている仕事も、微習得したスキルに少しでも上乗せできるようにIT関連の業務に就いている。
またアルバイトだからと胡坐をかかず、業務効率化できることは率先して提案し、就職活動でアピールできるように実績を集めている。
2.時間の確保
夫が見つけてくれたシェア工房に登録し、片道1時間かけて通っている。
たまたま子どもの習い事が工房の近くだったこともあり、子どもを習い事に送るついでに寄るなどして小まめに時間を調整している。
しかし、片道1時間というとまあまあ時間も交通費もかかって億劫になる。
そのうえシェア工房なので制限も割とある。
でも、家に窯がない私にとってはシェア工房は唯一作陶ができる環境でありアマチュアからプロまで色んな人と情報交換ができる場所なので、工房で出来ないことは自宅で試すなど、陶芸をする環境を少しずつ整えることにした。
焼く以外のことは道具さえあれば大体はできるので、リビングに陶芸用の板を敷いて、省スペースで挑戦したかった工法やアイディアを試している。焼かない分、一度作っても潰してまた再生できるので、繰り返しできて経済的でもある。
また、子どもが一人で祖父母の家に行けるくらい育っているので、定期的に週末に祖父母の家でご飯を食べたりしている。そんな時に仕事帰りに工房に寄って作陶に時間を費やしている。
とにかく小まめに通う。通うのが嫌にならないように、なにかと理由をつけて工房の場所へ行くようにした。
こうして陶芸に触れる時間を確保している。
3.子どもへの心理的ストレス
これは、私の気の持ちようが大きかったようだ。
性格的に母と同じく0or100の考えをしがちだが、中間を意識するようにしている。(仕事でも0or100は良くない)
そして、案外子どもは小さいころから親が陶芸をしていると受け入れていた。
工房も家族・友人1人まで解放してくれているので、子どもを工房に連れて行ったこともある。
こうして、”親が元々やっていた陶芸を徐々に復活させている”という認識で受け入れてくれているのだ。(大きくなったなあ)
4.師匠との約束
これが一番心の中にひっかかっていた。
なんだか後ろめたい気持ちになってしまい、シェア工房を登録する前に思い切って師匠に許可を取った。
そうしたら、旦那さんが応援していることなら自信をもって始めなさい。と快諾してくれたのだ。
なんだかとても拍子抜けをしてしまったが、シングルマザーだった私がきちんと結婚して、一人だった働き頭が二人になって、生活の土台が安定して家族に応援してもらえている。そうした事が師匠にとっても始めていいと思えたのだろう。
2024年満を期して陶芸を始めることができ、再び陶芸家としてスタートに立つことができたが、陶芸家への山道は険しく登頂はまだまだ遠い。
継続すること・窯を持つこと・陶芸家として自立すること・経済的に安定することなど様々なハードルを超えていくうえで、就職・子育て・生活・妻として・母として・娘として今後の動きを綴っていきたいと思っています。
どうぞよろしくお願いします。