好きな食べ物はアイスクリームです。
「私の名前は佐野美里です。好きな食べ物はアイスクリームです。」
並べられる平坦な言葉に、歌穂は内心焦っていた。名前と好きな食べ物を言うだけの簡単な自己紹介は、もう終盤に差し掛かっている。次は緑のワンピースの子。その次は、チェックのズボンの子。その次が私。緑のワンピースの子が立ち上がった。次は、次こそは。祈りにも似た気持ちで、歌穂は彼女の丸いおでこを見つめる。
「私の名前は持田理花です。好きな食べ物はアイスクリームです。」
歌穂の祈りはまたも散った。これで9人目。間違えてアイスクリーム屋さんの体験に来てしまったのだろうか。いや、ホワイトボードの1番上にはくっきりと「やってみよう『えんげき』」と書いている。右隣で立ち上がる気配がする。お願い、あなたが…。
「私の名前は三谷雫です。好きな食べ物はアイスクリームです。」
ああ!10人目。そして、次は歌穂の番。どうしよう。もたもたしている場合ではない。結局こうなってしまうのか。時間を稼ぐようにゆっくりと立ち上がって、全体の顔を見る。流れを作り出した前の人たちが恨めしい。まっすぐな目でこちらを見やがって。
いちばん初め、名前は覚えていないが苺のTシャツの子が「好きな食べ物はアイスクリームです。」と言ったとき歌穂は嬉しかった。好きな食べ物が同じということは意味もなく嬉しいものだ。
2人目、グレーのパーカーの子が「好きな食べ物はアイスクリームです。」と言った時に少し嫌な予感がした。まあ被ることもあるか、現に私も同じなんだし。と納得しかけていたそのすぐ後、NIKEジャージの子による全く同じ言葉が聞こえてきて歌穂は泣きそうになった。
こうなったらもうおしまいだ。2人目はまだしも、3人目まで続いてしまったらもう無理だ。歌穂は絶望のような気持ちで自己紹介を聞いた。何度同じ言葉を聞いたか分からなかった。
このまま「好きな食べ物はアイスクリームです。」と言ったら他人に流されたように見えてしまうだろう。でも、違う。歌穂は本当に最初から「アイスクリーム」と言うつもりでいた。この間新学期の自己紹介でも同じことを言った。ここで別の食べ物を言うことこそ、他人に曲げられて嘘をつくことになるのではないか。
「私の名前は斉藤歌穂です。好きな食べ物はアイスクリームです。」
お辞儀をしてそそくさと席に座る。これでいい。なんで歌穂がこんな思いをしなければいけないのだ。
兎にも角にももう終わった。なにも間違ってはいないじゃないか。もしかしたらみんなも同じ気持ちだったのかもしれない。11人全員が心からアイスクリームが好きで、歌穂のように内心は焦っていたのかもしれない。
…そんなにみんなアイスクリームが好きなら、今からでもアイスクリーム工場見学に変更すればいい。というか、そうじゃないなら帰りたい。帰りたいのに、クマのフリフリを着た左隣の子が立ち上がった。
「私の名前は佐々木若葉です。好きな食べ物はひよこ饅頭です。」
ひよこ饅頭!?
保護者席の誰かがフッと吹き出す。
ひよこ饅頭!
みんなの声にならないため息が聞こえる。
すごい。たった一言で。しかも、ひよこ饅頭。なんだよそれ。なんだよ、ひよこ饅頭って。そんなんズルだよ。笑い出したい気持ちと泣き出したい気持ちが順番に来た。
私もひよこ饅頭が好きだったらなあ。
あれから10年ほど経った。
ひよこ饅頭を食べたことは、未だにない。