昼の月
「これ、行ってこい」
祖父が突如眼前に差し出した一枚の紙切れ。要項を見るまでもない、碌な集まりじゃないのはタイトルからして明白だ。
俺の怪訝な表情から思惑を察してか、眉間に皺を寄せドスを効かせた声でにじり寄る。
「行かねぇのなら工房は使わせねぇぞ」
「勘弁してくれよ、じいちゃん」
「ここでは師匠と呼べ」
「師匠、頼みますって」
「そうだ、俺はお前の師匠だ。そして師匠の言うことは絶対だ。分かるか?」
「そんなぁ」
学校にも行かず面倒を見てもらっている手前、そこまで言わせればぐうの音も出ない。
金継ぎの修行も半ば無理を言ってやらせて貰っている。職人の祖父は厳格だが人情に厚い昭和気質の人間であるがゆえ、俺の並々ならぬ熱量に押され弟子として匿ってくれてはいるものの、実の孫が不登校になった原因を払拭したいには違いなかった。
いじめ被害者の会。
なんとも安直なネーミングじゃあないか。
地図を見ると思いのほか近所の公民館で開催されていることに驚く。一体どれだけの人間がここに行き着くのだろう。いじめられていた当事者が浮き足立っていく場所でないことは確かだ。
高二の夏。
小中とそれまで仲の良かった隆文が突如豹変した。原因はなんとなく思い当たる。あいつが最初に俺の母親のことを乏しめる発言をしたもんだから、つい言い返したんだ。お前の母ちゃんだって水商売じゃねぇかって。
夏休み中はうんともすんとも言ってこなかったのに、明けた途端何かが決壊したかのように俺への加害が始まった。
思い返すと胃の奥が捻り切られるようにギチギチと悲鳴をあげる。
ろくすっぽ食べていないのに臓物がまるで裏返しにさせられるような圧迫感に吐き気がする。胸をさすりながら重い足を懸命に奮い立たせ目的地に辿り着いた。
古びた造りの建物はまるでホラーゲームの舞台のように陰鬱な空気を醸し出している。
いじめ被害者の会。
ご自由にお入りください。
乱雑に書かれた薄い半紙がいまにも吹き飛ばされそうにばたばたと風に煽られている。
ひと呼吸置き扉を開けた。
中は体育館のような造りになっていて、真ん中にはパイプ椅子が輪になるよう乱雑に並べられている。
同年代くらいの若い女性と高齢男性が向かい合わせに座っていた。
「おう、今日はふたりか。じゃあさっそ初めてくれ。小一時間もしたらここを閉めにくるからな」
「えっ?」
俺の姿を見るやいなや爺さんが立ち上がった。なんの説明もなくその場を立ち去る。
豪快な音と共に扉が閉められると静まり返った館内に取り残された俺と、小さく固まったままの少女。
どうしろって言うんだよ。
「ええと、こんにちは」
「…こんにちは」
消え入りそうなか細い声。
本当に一時間もあるとしたら何を話して間を持たせたらいいのか皆目見当もつかない。
視線を落とすと膝の上に置かれた彼女の手はかたかたと小刻みに震えている。
「…あの、何から話せば?」
おずおずと声をかけるとふるふると小さく首を横に振る。
どうやらなんの説明もないまま俺たちはここに取り残されたらしい。
カチカチと古い時計の秒針だけがやけに耳障りだ。一分一秒がこれ程までに長く感じることもそうそう無い。意を決して声をかける。
「俺はじいちゃんにどうしても行けって言われたもんだから、ここに来て。君はどうしてここに?」
そんなに大きい声を出したつもりはないが、彼女はまたもびくりと肩を跳ね上がらせる。
人のことは言えた立場じゃあないが、どうにも一筋縄では行かない様子だ。
「私も…お母さんに言われて」
耳をそばだてないと聞こえない蚊の鳴くような声。
それでも返答があったことに俺は胸を撫でおろす。
さて、どうしたものか。
話すべきか、そうでないか。深く息を吸い、吐き出す。俺が体験したいじめを、いま会ったばかりの見ず知らずの彼女に話す?小動物のように怯え震えるこの子に?そもそも話すだけの心づもりが俺にあるのか?
あの時の光景をほんの少し頭に思い浮かべる。
途端に動悸が速くなった。全身の毛穴が音を立ててぶわと開いたように不快だ。手足が意思に反してガタガタと震える。
「あの、無理に話さなくてもいいですよ」
ひどく怯えたままの風情でそう慮る彼女のひと言に、俺は思わず吹き出した。
虚をつかれたかきょとんとする表情を見てついには声をあげ、笑った。
緊張でこわばった全身がほぐれていく。
「いや。ごめん、笑ったりなんかして。君の方がよっぽど平気じゃなさそうなのに、心配してくれたりするもんだから。なんだかおかしくなって」
目尻に涙を浮かべながらそう説明する姿を見て、あちらも幾分か緊張がとけたようだ。
やっと顔を上げ目線を合わせる。
「ほんとだ、変なの」
それから俺たちはなんてことない会話をした。
最近観た映画が面白かったとか、好きなアーティストの新曲が出て嬉しかったとか。
いじめについてはお互いなにも触れずに、あっという間に一時間が過ぎた。
「おうい、時間だぞ」
帰り道。
母が迎えに来るからと、彼女はすぐにその場から立ち去った。楽しく談笑したも束の間、見えない壁に阻まれたような他人行儀なその所作に、恐らく彼女の体験したいじめは思う以上に深刻なように感じた。
俺は自分のことなんてお構いなしに、彼女のことがずっと気になってしょうがなかった。
「どうだった」
工房に着くと開口一番、じいちゃんが聞いてきた。
「どうもこうも、俺以外に参加者一人しかいなかったよ」
「それで?」
「それでって…当たり障りのない話しただけだよ」
「そうか」
「そうだよ」
そうしてお互い黙り込む。
じいちゃんが煙管をすぅと深く吸う間、俺はどうにもむず痒い気持ちになる。
「それで、次の開催日はいつなの」
そのひと言にじいちゃんはニィと不敵な笑みを浮かべた。
金継ぎの仕事はとても繊細だ。
まさに職人技と言えよう。細かなひび割れ、朽ちた断面、それらをミリ単位で丁寧に継ぎ直していく。
じいちゃんに言われたことがある。
俺たちの仕事は修復じゃない。
割れたり欠けたりした陶器は二度と元の形には戻らない。
金継ぎとは、駄目になった陶器を生まれ変わらせ、再び持ち主の所に返してやる仕事なんだ。
俺はこの仕事を誇りに思う、と。
ひどいいじめに耐えられず心身ともにボロボロだった当時の俺は、泣きながらじいちゃんに縋りついた。
俺にその仕事をやらせてください、と。
キツい仕事だぞ。
頑張れるか。
じいちゃんはそう言っただけだった。
それ以上なにも言わないし、聞かなかった。
翌週。
またも俺は公民館の扉を開く。期待はしていなかったが、先週と同じく彼女はそこにいた。
「それじゃ、一時間後にまた来ます」
恐らく自治体のボランティアか何かなのだろう。前回とは別人の品の良さそうな高齢女性がゆっくりと腰を上げ退出していった。
「こんにちは」
「こんにちは」
彼女はこちらを見ると小さく会釈をする。
相変わらず怯えた小動物のように縮こまって、けれど幾分か警戒心は解けたようにも見える。
「今日も俺たちだけみたいだね」
「そうみたい」
「そういえば前回話してなかったけど、俺いま金継ぎの修行しててさ」
「ふぅん。金継ぎって?」
「欠けた器とかを繋ぎ合わせる仕事だよ」
それから俺は夢中になって金継ぎの説明をした。
ほとんどじいちゃんの受け売りで、まだ自分でも理解していないようなところも沢山あったけれど。うんうんと頷いて聞いてくれるのがただただ嬉しかった。
「割れたり欠けたりした器は、二度と元の形には戻らないんだ」
そう言ったところで彼女の表情が一気に曇った。
ぱっと見開いた目がこちらを凝視したまま、固まる。俺はただ事ではないと察して口をつぐんだ。
少しの沈黙。
おずおずと彼女が口を開く。
「そう。そうね、壊れちゃったものは、二度と元には、戻らない」
「ごめん、俺、何か気に触ることをー」
「私、レイプされたの。去年の夏に」
そう言う彼女の顔は驚くほど無表情だった。
まるで感情をどこかに置き忘れてきたような、完全なる、無。
俺は一瞬で頭が真っ白になった。彼女は堰を切ったように淡々と続ける。
「同じクラスの女子が好きな先輩が、私のことを好きだって噂がたって。そしたらその子がいる女子グループのリーダーが突然、私のことをヤリマンだって言いはじめた」
瞬きひとつせず彼女は話す。
「その女子グループの中に、お兄ちゃんが大学生の子がいて。ある日突然、その子の家に呼び出されて。そしたらそこに、お兄ちゃんとその友達が三人でいて」
俺はただ、じっと彼女の目を見つめることしか出来ないでいる。
「部屋に入った瞬間、後ろから羽交い締めにされて。そこにはその女子グループの子たちもいて。この子友だちの好きな男をたぶらかすヤリマンだから、好きにしちゃっていいよって」
ついに見開いた瞳から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「あとはもう、覚えてない。嫌だった。痛かった。苦しかった。感覚だけが残ってる。私、あの日に、壊されちゃった。もう二度と元の体には、戻れない」
がりがりと手をむしるのを見て初めて、その細い手首に傷跡があるのを見た。
暫しの沈黙。
泣きじゃくる音だけが館内に響き渡る。
俺は椅子を蹴倒してその場に立ち上がった。
「俺は一番仲の良かった同級生にお袋のこと馬鹿にされて悔しくて、つい言い返したんだ。お前の母ちゃんも水商売じゃねえかって」
足ががくがくと笑う。
立っているのがやっとだ。
「そしたら夏休み明けに、俺の机の上に花瓶が置いてあった。漫画でしか見たことねーじゃんって、なんだかその時は笑えたよ」
隆文の笑顔が交錯する。
「初めは持ち物隠されたり、机にゴミ入れられたりとか、その程度だった。けど俺がダンマリなのをいい事に、だんだんエスカレートしてさ」
頭が異様に痒い。
ボリボリとその場で掻きむしる。そこでようやく頭に十円ハゲが出来ているのを思い出した。
「女子の前で全裸にさせられて、最後はみんなが見てる前でオナニーさせられた。そんな状況でチンポが勃つかってんだよ。そんな異常な光景でも、あいつ笑ってんの」
なぁ隆文。
一緒に漫画読んで、腹抱えて笑ってたお前がだよ。
「はは、もう戻んねーや。そうだよ」
話し終えるころには、顔中が涙と鼻水とよだれでびしょびしょだった。
彼女も泣いているのだろう。けれどぼやけて表情までは汲み取れない。
もう一度顔を合わせてから、俺たちは声をあげわんわんと泣いた。
「私、今日もお母さん迎えに来てるから」
「うん」
お互い泣き腫らして真っ赤になった目をこすりながら、別れた。
公民館の先の角を曲がり、姿が見えなくなるまで彼女を目で追い続ける。そして姿が見えなくなるやいなや、俺は全速力で走り出した。
工房に転がり込む。
「静かにしろ、手元が狂う」
「ごめん、じいちゃん。いや、師匠。俺」
切れた息を必死で取り繕う。
「俺に呼び継ぎ、教えてください。来週までに、どうしても」
じいちゃんがゆっくりと振り向いた。
俺自身、嫌というほど分かる。それがどれほど無謀な頼みかということが。
呼び継ぎ。
欠けた器の失われた部分を異なる器の欠片を用いて継ぐ技法。
熟練の職人でも手を焼く、実に高度な技だ。
俺の緊迫した顔を見てじいちゃんはおおよそ察したのだろう。
今までに見たこともないくらい真摯な表情でこちらをしかと見据え、いう。
「寝る暇もないと思えよ」
翌週。
疲労困憊でいまにも倒れそうな体を奮い立たせ、俺は公民館へと向かった。
昼夜問わず工房に缶詰めだったから陽の光が随分と眩しい。
重い扉を開けると、やはり彼女はいた。
もう二度と来ないんじゃないかと懸念していたけれど。
こちらに気づき振り向いたその表情は、あの時から変わらず無のままだ。
乱暴に靴を脱ぎ捨てどかどかと上がり込む。
しかし勢いも虚しくそのまま彼女の足元にへたり込んだ。
「どうしたの」
俺は懐から器を取り出した。
一週間じいちゃんに死ぬ気で叩き込まれて、ようやく及第点を貰えた渾身の一皿。
「これ、見てよ」
彼女は訝しげな顔をしつつも、差し出されたそれを細くて長い指先へ慎重に載せる。
「呼び継ぎっていう技で継ぎ合わせた器なんだ。欠けた部分を無くした器に、別の器の欠片をくっつけて修繕する技法だよ。ね、綺麗だろ」
呼び継ぎした器は、以前の物とはまた違う趣が鑑賞できるのだ。
「昔の人たちは、この技法で直した部分を"景色" と呼んでいたらしい。元の形のままでは見られなかった、全く別の新しい景色をそこに見たって」
彼女は俺の作品に目を落としたまま、微かにだが確かに力強く、頷いた。
「俺たちは一度壊れてしまって、二度と元には戻らない。万が一にでもいじめていた奴らが謝ってきたとしても、絶対に戻らない。許すつもりも、ない。変わっちまった景色を見ながら、それでも俺たちは生きていかなきゃならないんだ」
終わりの時間を待たずして俺たちはふたり並んで外に出た。
キンと冷えた外気に頬がこわばる。
見上げると雲ひとつない晴天に、まだ昼過ぎだというのにはっきりと月が浮かび上がってみえた。
「さよなら」
「さよなら」
どちらからともなく、互いに背を向け歩き出す。
恐らく二度と会うこともない。
名前も知らない君。
ふと手に抱き抱えたままの器に目を落とす。
ほんの少しだけ、世界が変わった気がした。
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