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元気の前借り


都会の喧騒から離れた裏通り。
人目を避けるようひっそりと古い造りのバーがある。

そこでは何やら不思議な体験が出来るともっぱらの噂。知ってか知らずか、今夜も迷える子羊が訪れる。



バーの名は「Ra・most」



「とにかく、可愛くてね。寄り道せずに真っ直ぐ帰る毎日なの」

「そうなんですね」

「猫なんて興味なかったのになぁ」

「ニコラシカの影響ですかね?」

「そうなの、きっとそう!だからマスターにお礼言いたくてね。きっかけを作ってくれた人だから」

「そんな大袈裟な」

カウンターでマスターと女性客がお喋りに乗じていると扉が勢いよく開いた。ベルがけたたましく鳴り響き来客を告げる。


「いらっしゃいませ」

「なんだ、薄暗い店だな」


スーツ姿の中年男性が舌打ちと共にカウンター席に腰を下ろした。
彼女の表情があからさまに曇る。


「なんになさいましょう」

マスターの対応は手慣れたものだ。


「強いやつだ。強いやつをくれ。目がギンと冴えるような」

「お任せで宜しいですか?」

「おう、任せる。とにかく強いやつを頼むよ」

「かしこまりました」


シェイカーにウイスキーとリキュール。素早く構え、激しくシェイクする。
カクテルグラスに注がれる美しい琥珀色。芳醇なブランデーの香り。追うように爽やかなミントがほんのりと漂う。


「スティンガーです」

男性客は細いステムを不慣れな様子で持つとそのまま躊躇うことなく一気に喉へと流し込んだ。

「美味いな」

「ありがとうございます。お客様、どちらかでお食事を済まされた後でしょう?こちら食後酒にピッタリのショートカクテルになります」

「どうして食後だと分かるんだ?」

「スーツからほのかにですが燻製の良い香りがしましたもので。表通りのステーキハウスからいらしたのでは?あそこは軽くスモークしたラム肉がウリですよね」

「凄いな、あんた。その通りだよ」

静観していた彼女までもが感心したようにヒュウと喉を鳴らす。

「職業柄、鼻が効くものですから。あと失礼ですが随分とお疲れのようでしたので。こちらのスティンガー、就寝前に飲むにはうってつけですよ」

そのひと言に顔色が暗くなる。

「そんなに疲れたように見えるか」

はぁとため息を吐く。
どうやら何か訳ありのようだ。

「お伺いしても?」

「どうしても外せない会議が明日あるんだ。その準備に徹夜続きでな。部下は定時に帰りたがるもんだから、負担は全て俺にくる。まぁ好きで就いた仕事だしやりがいはあるが…。最近どうにも疲れが取れなくてね。明日のプレゼンにこんな疲れきった中年男性の顔を出すのが、億劫で仕方ないんだよ」

「なるほど。それで気つけの一杯をと、うちにお越しくださったのですね」

「ああ、幾分か目が冴えた。だが積み重なった疲れは簡単に追っ払えるもんじゃないな」

「それでは良いものを差し上げましょう」

「いいもの?」

示し合わせたようにスッと差し出された小さな小瓶。中には金平糖のような色とりどりの粒が入っている。


「これは明日の元気を前借りする、魔法の錠剤です」

「なんだいそりゃ。怪しい薬か?」

「ドラッグの類ではございません。疲れた朝に一粒飲めばたちまち元気になります。ただし、先ほども言ったようにあくまでも前借りする形になりますので、翌日は二日分の疲れがやってきます。それでもよろしければ」

「眉唾ものの話だなぁ。一体いくらなんだ、その薬は」

「お代は結構ですよ。またここに来てお話しを聞かせていただければ」


一貫して変わらぬ表情でそう語るマスターに懐疑的になりつつも、ダメ元で試してみるのも悪くはないかと、彼はそれを持ち帰ることに決めた。

「また来るよ」


くたびれた後ろ姿を見送ると彼女が口を開く。

「彼、大丈夫なの?マスター」

「いや困っている人を見るとどうにもお節介を焼きたくなる性分でして」

「そういうことじゃないけど…まぁいいか、念の為にこれ」

そう言って彼女がカウンターに取り出したのは一枚の名刺。

「さっきお手洗い行くついでに、上着から拝借しておいた」

「おや、まあ」

トイレ横のポールスタンドにかかったコートからいつの間にか抜き取っていたのだ。

「それじゃ、きなこが心配だから私も帰るわね」

途端に静まり返る店内。
安堵のため息と共に名刺に目を落とす。

「ま、確かに些か心配ではありますからね」




明朝。

相変わらず目はギンギンと覚醒したまま。
三日三晩も寝ずの働きづめとなると、もはや身体から精神までがすっかりトランス状態のようだ。クスリを決めないままハイの状態を維持している感覚。妙な高揚感はあるが、積み重なった疲労は隠せない。
鏡を覗き込む。頬は痩せこけ目元はくぼみ、まるで死神じゃないか。こんなナリじゃお偉方も引いちまうだろう。

ベッド脇の小瓶に目が行く。
ドス黒く停滞した部屋の運気に相反し、朝日を吸いキラキラと美しく虹彩を落としている。

いいさ、ドラッグの類だろうとなんだろうと。
一粒つまんで口に頬張る。ジャリジャリと角砂糖のような甘みに、ほのかな柑橘系のフレーバーが後を引く。
重い腰を上げ出社の支度をしようとした瞬間。

驚くほど身体が軽い。
関節の動きも別人のようにスムーズだ。

「なんだ?!」

つい声が漏れる。
急いで鏡を見ると別人のような自身の姿がそこにあった。

「おい、まさか」

そのまさか。
薬は、本物だった。




「それで、プレゼンはどうでした?」

「お陰さまで大成功さ」


一日を終え、彼は再びバーの扉を開けた。
昨晩よりもずっと余裕のある風情で。


「お偉方から若いもんまで感心しっぱなしだったよ。怪しい薬でも使いましたか、なんて言われる始末。あながち間違っちゃいないわな」

万全の状態でも口の悪さは変わらずだが、人となりを知ればそこが彼の魅力でもあるのだろう。
マスターは終始ニコニコと穏やかだ。

「それで、その薬なんだが。できればもう少し頂戴しても大丈夫か?」

「結構ですよ。そのままお持ちください。ただし、ご無理はなさらない範囲でお願いしますね。特に明日は二日分の疲れがやってきますから、連日使用だけはお控えください」

「おう、恩に着る。また飲みに来るよ」
 



翌日は休みを取っていて正解だった。
尋常でないほどの疲労感に全身が悲鳴をあげる。ますます身を持ってして薬の効能を知るハメになったのだ。

しかしそれでも充分、お釣りがくる。
こいつがあれば、仕事に関しては向かう所敵なしだ。


その後彼はことあるごとに薬を飲んだ。
ワーカーホリックであることは以前から有名だったが、社内では「悪魔に身を売った」なんて噂も流れるほど、いままで以上に勤しんだ。

ふと、あのバーで飲んだカクテルの味が脳裏をよぎる。そういえば美味かったな。しばらく行っていない、いまの業務がひと段落したらまた行こう。
そんな余裕すら覚える。全ては戴いた薬のおかげだった。



翌る日。
いつも通りに薬を飲む。

しかし待てど暮らせど体の疲れは去ってくれない。

薬が効かない?使いすぎで副作用が?
分からないが、考えている暇もない。今日の会議はどうしても外せない。
薬に頼りすぎたおかげで気怠さに身体が言うことを聞かない。頬を激しく打ち付ける。以前ならこれくらい、なんてことなかったろう。


結局その日薬の効力が現れることはなかった。
担当部署どころか会社の人間全員に心配されながら、何とかことなきを得て退社する。
家に帰りベッドに倒れ込むと、もう立ち上がる気力すらない。薬の件については明日またマスターに聞いてみよう。薄れゆく意識の中そんなことを悠長に考えていた。



結論から言うと、俺に次の日は訪れなかった。




「お目覚めですか」



バーで聞くのと寸分違わない、穏やかなマスターの声で目が覚める。蛍光灯の光が目に痛い。ゆっくりと瞬きをし辺りを見回すと、目の端に点滴の管が見えた。


「倒れたのか?俺は…」

「ええ。過労による心筋梗塞だそうで、丸一日気を失われたまま
でしたよ」

「そうか…それで薬が効かなかったんだな」

「そのようですね」

「やってこない日の元気までは、さすがに前借りできないか…」

「命があったから良かったものの、下手したら死んでいてもおかしくなかったんですよ。ご無理はなさらない範囲でとお願いしたでしょう」

口調は穏やかで表情も柔らかいが、少し怒っているように見える。
俺はつい、ふっと笑い声を漏らす。

「笑い事じゃないですよ」

「いや、すまん。こんなふうに人に心配されて怒られることなんて、この所なかったからな。別れた女房くらいだよ。あいつに見限られて、ますます仕事に入れ込むようになったが、結果このザマだ。仕事が理由で捨てられたのに、皮肉な話だよ」

自嘲気味に想いを吐露する。
こんなこと誰にも話したことなかったな。

しばらくの静寂のあと、マスターが小ぶりなスーツケースから水筒とグラスを取り出した。


「よろしければこちらを」

注がれるは目にも鮮やかなオレンジ色。

「フロリダです」

「まさか、お酒かい?」

「ノンアルコールカクテルですよ。オレンジジュースとレモンジュースに、ビターズをほんの少し」

なんとも洒落た差し入れだ。
震える指先でグラスを掴む。柑橘の香りがまだ朧げな頭を刺激する。

「カクテルにはそれぞれカクテル言葉というものがございます。フロリダのそれは、元気。あなたが失ったものの代わりとはいきませんが、景気づけということで一杯、私から」

ちびりと飲むと乾いた喉が潤され、体の隅々まで染み渡っていくようだった。空っぽになった俺自身を満たしていくような、なんとも言えない多幸感。

「しかしマスター、どうやって俺が病院に担ぎ込まれたことを知ったんだい?」

「あなたの会社に連絡して、何かあれば私のところに連絡してくださいと言伝をしてあったんです」

「そうかい。そりゃ悪いことをしたな。お節介を焼かせちまった」

「いえ、お礼でしたら以前お越しの時にいらした彼女に言ってあげてください」

「なんのことだ?」

「あなたの様子を見て身を案じていましたよ。彼女の助言がなければ私もここに訪れることはなかったでしょう」

「なんだか分からないが、そうか。元気になったらお礼を言いに、店に行くよ」

「先ずはしっかりと療養なさってくださいね」



そう言ってマスターは病室を後にした。
残された俺は何気なく窓へと目をやった。カーテンがそよそよと風になびく。微かに聞こえる子どもたちのはしゃぎ声。

なんてことはない。
世界は変わらず回り続けるんだな。


ゆっくりと目を閉じる。

俺はこの無益な時間がとても意味のあるものに変わるのを、感じた。

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