「人付き合い」再考
突然ですが、皆様には「絶対的な自分の味方」が何人いますか?
二日前の金曜日、カウンセリングを受けていました。
その中で、私のようなタイプは友人が少ないという指摘を先生から受けました。そう言われた時、真っ先に思ったのは「むむ、私友達多いと思うぞ!」だったのですが、先生曰く「駄目なところを曝け出しても、弱さを見せても、嫌いにならずに味方でいてくれる人が何人いるか」という話である、と。ほほう。それはとても少数ですね…私に多いのは「知り合い」かもしれない…「友達」という言葉は定義が難しいと思います。その定義は人によっても変わるし、同じ人であっても年齢や置かれてる状況によっても変わる。私もここ数年は土地を転々と移ってることや歳を重ね、年々「友達を作る」のが難しくなってるのを感じています。逆にいうと、誰とでもそれなりに感じ良く喋れるし、大人としての「社会の繋がり」は国境を問わずに多種多様に持ってるとは思います。
けどその中で何人の人に気を遣わずに、弱みも曝け出すことができるか。そんなことをこの数日間はよく考えました。そして自分は「よく見せたい」「よく見られたい」が凄く優っていて、自分で思ってる以上に人に素直な姿を見せてないのでは、とも気付きました。
ハンブルクには単身で越してきましたし、来る前に知っている人は仕事の繋がりをのぞいたら一切いませんでした。そんなで約2ヶ月こちらで過ごしてきましたが、どの人とも「友達」って言えるほどには未だ親しくなっていない、でも2人程「比較的自分が素で接せられてて、居心地がいいな」と思う人がいるな、と気づきました。ミュンヘン生活を振り返ると大事だと思える方は3人います。共通点は彼女彼の前でも基本「気負わずに」振る舞えていた、ことでしょうか。今でも機会があれば連絡を取って会いたいと感じる。「相手に良い顔を見せたい」「好かれていたい」ということよりも「一緒にいて楽だ」という関係の方が健全なのかもしれない。
こんなことを書いていたら、自分の恋愛の傾向とどこか類似点があるように思えてきました。私は20代・30代前半はまあ恋愛体質で、代わる代わる人とお付き合いしていた時期がありました。が、その多くが、所謂「相手のステータスに惚れていた」状態だったなぁと振り返ります…憧れの人に好いて貰いたくて、一生懸命相手に合わせて無理をするような恋愛経験が多かったなぁ。なので「一緒にいて楽」とは程遠い・あんまり幸せじゃない、追っかけるような恋愛ばかりをしていた気がします。その後唯一一度だけ「向こうから告白されて付き合う」という経験を持ったことがあるですが、ななななななんとその恋愛は結局ストーキング紛い別れたくても別れてもらえないという苦しい結末に辿り着き、そこからはすっかり「嫌われることよりもむしろ、好かれることが怖くなってしまった」という経緯があります。
こうやって振り返ると、散々だぜい!くそうっ!もっとイーブンな恋愛をしてきたかったよ!
理想の恋愛相手ってどんなかなぁって考えた時に、①大親友と表現できる女性の友達と②仕事を通じて出会った大好きな男性の先輩の2人の存在が頭に浮かびます。
①の彼女は歌い手の大先輩で、ご活躍の歌手の方。初めて会った時からもう13年。ぶっちゃけて言うと、縁切ろうかと思う程に私がイラついたことも2度ほどあったのですが、そうはなっておらず。何故かというと彼女に対しては、イラつき以上に「好き」が優っているのです。嫌なところも全て含めて「彼女だから仕方ない」って思える。もはや「惚れた弱み」と同じ感覚、「ファン」に近いかもしれない。とにかくその子のことが好きなのです。彼女は、きっと、いつまでも・私が何をしても・味方でいてくれるのでは無いかって感じています。し、彼女の味方でいたいっていつも思います。お互いになかなか会えず一年に一回会えたら奇跡みたいなのがもう8年以上続いているけれど、それでも不思議なもので、会えばいつでもサイコーに楽しい時間を過ごせます。9月の一時帰国中には、ホテルデイユース9時間コースに行ったのに、時間が足りないって言って泣きながら別れました。でもとっても忙しく・スターとしても大人気の彼女なので、いつもどこかで「私のことなんぞいつか忘れてしまうでしょう」みたいな不安感?はどこかに無くはないけど…それも相まって「仲良くしてくれて有難う」って感じます。
②の方は、いつでも私のことを認めて優しい言葉を投げてくれる。でも勿論、自分とは違う「意見」を投げかけられたこともあったけど、それでも嫌な気持ちになったことはなかった。そもそも異性なので、①の先輩ほどに気を遣わない関係ではない&とても素敵な方なので、彼に会う時はいまだに私はいつも緊張しますが、それでもお会いするなんか一種の「安心感」がある。彼はいつだって真摯に・そして紳士に接してくれます。もしかしたら仮面をかぶってるだけなのかもしれないけど、それでもいつだって優しくて・絶対に否定されないっていう気持ちがある。
文を綴っていて、逆に2人、縁が切れてしまった友人のことを思い出しました。その2人については、自分が助けを求めた時に向き合ってもらえず、とっても悲しい気持ちを覚えたことがきっかけになって、それ以来なんだか疎遠になってしまいました。思い返せば、相手方も本当に多忙で私に時間を割くことが出来ない状況だったんだろう、とは理解出来る。ものの感情的に「納得」することは今でも出来なくて…やっぱり許せない思いが消えないんだよなぁ😔もし上記①②のお2人にももし拒絶されたら、きっと疎遠になってしまうんだろうか…でもお二人は本当に本当に忙しい人であるってわかってるから、きっと納得できる気がする。えっ、そうやって考えると、縁が切れてしまった友人2人のことは、もしかしたら本当に「尊敬」はしていなかったのかもしれない…今書きながら気がつきました…なんてことだ。友人としての親愛はあったけど、そこに尊敬は無かったのか…
こんなことを書いていてふっと今頭に浮かんだ別の女性がいます。彼女は「友達」という程には「親密」かどうか分からないのですが、私はとても尊敬している相手。で彼女が頑張っているのを見るのが心地よくて、定期的に会いたくなっちゃう&よく連絡をとっている子で、不思議な関係ですが「友達」と言えるだろう。そして彼女の前でも泣き言は言える。
そうか。私にとっての軸は「尊敬」出来ること事なのかもしれない。かつこの人は絶対に自分を認めてくれるという「自信を持たせてくれる人」が理想の相手なのかもしれません。自信を感じさせてくれる居心地のいい相手。そしてこう書いているとふと、自分は相手に「居心地の良さ」を与えられているかな?って思いました。
ハンブルクの同僚に1人、なんというか本当に癒し系の女性がいて、もう横にいるとなんだか安心感があるのですが(もはやあれは才能)、私は誰かにそういう安心感を与えられているかなぁ?自分が気を遣って「嫌われたくない」と思って会話している間は、きっとその緊張が相手に伝わってるんじゃ無いかなって気がついた。以前「すんごく礼儀正しくて言葉遣いも綺麗だし、接客業のプロの方ですか?」と言われたことがあったけど、どうも「かしこまって」相手に接しちゃうのが私のデフォルトだと思う。それに引き換え件の同僚は、もう「前から親友」みたいな不思議な距離感を提供できる方なのです。それも言葉で、ではなく雰囲気や態度やオーラで。私は逆だろうな…もっと緊張して、ぎこちない、探り合うような会話になってるかもしれない…
それもその筈というか、そういう「否リラックス状態」でいる癖がついたのは家庭環境が大きいと思います。私が生まれ育った実家では父方の祖父母と同居をしていたのですが、この2人がまあ厳しい人で私はついぞ敬語でしか喋ったことがなく・お茶の稽古をつけてもらったり・ヴァイオリンを習っていた自分は定期的に祖父の前で発表させられ講評を受けたりしていたような幼少期でした。どう考えてもHSPの気のある私なので、それはそれは緊張の連続の子供時代で、そのおかげか小学校でもいつも緊張しっぱなし・「失敗してはいけない」という強迫観念に駆られ、ついては毎日の給食も食べることも出来ないような内気な小学生でした。7歳までに身についた癖というのは、その後の価値観を決定すると脳科学の先生から聞いたことがあります。三十ウン歳の今でもそんなことに振り回されて恥ずかし悲しいですが、こういう性質、まだあるなーって、特に今ハンブルク新生活で新しい環境に飛び込むたびに思います。どこか緊張して、怖がりながらその場にいてしまう。
居心地良い相手と知り合いたいなら、まず自分から居心地いい空気を出すことだなぁ。もっとリラックスして、肩の力を抜いて暮らすこと。それが相手の居心地の良さ・ひいては自信につながると考えて、もっとリラックスハッピーオーラを纏った人物を目指したいです…👀✨2025年の目標見つけた!