12本のバラをあなたに 第二章-12
冬のちらし寿司、しかも新作ということで期待値が自然と上がったけれど、いざ届いた物を食べてみるといつもと変わらない気がした。が、遼子に言わせると違うらしい。
「普通のちらしよりネタが小さくて食べやすいです。それに酢飯がさっぱりすぎてないからそれぞれの味が際立っていいですね」
ついさっきまでこわばっていた顔が、うまいものを食べてほころんでいく。それが嬉しくて、食べることより遼子の反応を眺めていた時間の方が長かった。そんな楽しい時間を過ごしたのに心から喜べないのは、遼子が自分に気遣い続けているのがわかっているからだ。それに懸念事項もある。
「あの男」が遼子の前夫であることは篠田から聞いた。それに離婚に至った経緯もほんのさわりだけだけど聞かされた。
遼子の前夫・高桑は、仕事で頭角を現す妻を妬み、彼女の悪評を言いふらして回っていたという。しかも、いわゆるモラルハラスメントを遼子にしていたようだった。それで心身ともに疲れ果ててしまった彼女は、弁護士事務所を離婚してすぐ退職したらしい。
篠田が言うには、遼子の異変にはすぐに気づいたという。それまで笑顔を決して絶やすことはなかったのに、高桑の悪評が方々から耳に入ってきたあたりから疲れたような顔をしていることが増えたようだ。それに富貴子が主催するホームパーティーやお茶会に夫婦二人で出席したときも、遼子は常に夫の顔色を窺っていたらしいし、篠田が言ったとおり彼女は別れた男に支配されていたのだろう。そして、ついに限界を超えてしまったから離婚を決めたに違いない。
遼子が一人に戻ってから三年が経ったようだが、時間は彼女が負った心の傷を完全に癒やしてはいない。タクシーの中での彼女の様子を振り返ればよくわかる。彼女は明らかに怯えていたし、何かに耐えているようだった。もしかしたら過去を思い出してしまったのかもしれないと危惧したものの、どんな言葉を掛けていいのか迷ってしまった。
「あの男は誰です?」
篠田から遼子の別れた夫だと聞いてしまったから聞きづらい。
「なぜ何度も会いに来ているんです?」
これこそ一番聞きたいことだが、万が一プライベートな問題ならば遼子は教えてくれないだろう。だけど、遼子だけで解決できないことなのは確実だ。
悶々としながら食後の茶を飲んでいたら、それまで作ったような笑みを浮かべていた遼子が深々と頭を下げた。
「別所さん。ご迷惑をお掛けしました」
急なことだっただけに別所は戸惑う。
「私に会いに来ていたのは三年前に離婚した夫です。私が以前お世話になっていた事務所の……、弁護士です」
「そう、ですか……」
相づちを打ったら遼子は姿勢を戻したが、目線は下ろしたままだった。
「実は……、辞めた事務所に戻るよう言われまして」
「なぜです?」
ためらうことなく尋ねたら、遼子は重い息を吐いた。
「私が事務所を辞めたあと、それまで私が担当していたクライアントすべてから契約を打ち切られたようです。それで困ってしまっているようで」
「なるほど、そういうことですか」
「ええ……」
「それで、遼子先生は戻られるおつもりですか?」
目を伏せ続ける遼子に聞いた直後、
「いいえ」
遼子とようやく目が合った。
「戻るつもりはありません」
毅然とした様が、揺るがぬ意思を表していた。しかしすぐに表情が曇る。
「でも……」
向けられている黒い瞳が徐々に潤みだした。しばしの沈黙のあと、遼子が重い口を開く。
「……あの人は……、私が何を言っても聞いてくれない……」
絞り出すような声だった。この言葉こそ、遼子が誰にも言えずに抱えていたもので間違いない。そう思ったときにはもう体が動いていた。
「遼子先生」
別所は遼子を抱きしめた。
芯が強く生真面目な遼子が漏らした声と流す涙が、彼女が負った心の傷の深さを教えてくれた。同時に、ずっとため込んでいたものを今ここで吐き出させなければ、また過去に引き戻されてしまいそうな気がしてならなかった。けれど、どうすればいいのか見当が付かず頼りない体を抱きしめていたら、遼子の体が小刻みに震えだした。
「どうすれば……、良かったんでしょう……」
そう言った直後、遼子は嗚咽を漏らした。
遼子が担当していた企業から契約を打ち切られ、一番痛いのは事務所だ。それがどうして高桑がしゃしゃり出てきたのか。ここが謎だが蛇の道は蛇という言葉の通り、高崎に頼んで調べてもらえばわかるはずだ。それがわかれば自分が盾となって遼子を守ることができる。子供のように泣きじゃくる遼子をしっかり抱きしめたまま、別所はこれからするべきことを頭の中で思い描いていたのだった。