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理解し合えないことの尊さ:心の闇を抱きしめる『耳に棲むもの』を読んで
私には隠したいことがたくさんある。
深爪してしまうとか、お気に入りの香水の名前とか、ケガができたら写真を毎日撮って記録してるせいでカメラロールはケガの写真だらけとか、たくさん。ほんとはもっとあるけど、隠してるから言わない。
小川洋子さんの『耳に棲むもの』を読んだ。
彼女の作品では、徹底してちょっと変わった人をさも「普通」に描いているけれど、そんな登場人物たちも、現実の世界だと「普通」の人なんだろうな、といつも思う。
私が、パッと見「普通」の人に見えるように、世の中の人の多くは、何かしら「隠したい」ということを心の内側に抱えて生活していて、ふと、その事実を抱きしめなければいいけない夜があるのだ。
この先は、作品の内容に触れている部分もありますので、ネタバレが気になる方は、ぜひ作品を手に取ってから読んでください。
抱えた”闇”に寄り添うこと
今回の『耳に棲むもの』では、さまざまな関係の人たちが誰かの「隠していた事」に寄り添う。
『耳に棲むもの』に出てくる登場人物たちは誰もが、どこか不思議な人たち。心の中には奇妙で不穏だけど、なぜか共感できるような何かを抱えている。小川洋子さんの作品は、そうした「表面」と「内面」のギャップを静かに描き出す。現実世界でも、こんなふうにさも当たり前のように、誰にも言えない何かを持っているのかなと、小川さんの作品を読むといつも思う。
『耳に棲むもの』には、親子、恋人、仕事で関わる人、そして自分自身――様々な関係の人たちが5篇の短編に出てくる。それぞれが、相手が「隠していた」ことを偶然知り、どうにか寄り添おうとする。それは完璧な理解ではない。むしろ、完全に理解し合えないことを知りながら、それでも相手の心を抱きしめる優しさが描かれている。
「耳の中に棲む何か」や「クッキー缶の中の宝物」など、他人には奇妙に思えるものも、彼らにとっては大切なもの。読者の私たちも、その気持ちはわかるけれど、どうしても完全には理解しきれない。その微妙なズレが、この作品を独特な心地よさにしている。
読者である私たちにとっても、この世界の住人たちにとっても、なんとなく理解はできる。だけど、完璧にはどうしても理解できないところが、こそばゆく心地よい、そんな気持ちになる作品である。
”共感”のかたちを探す物語
5篇の短編の中で、登場人物に共感する時に様々な感情を抱きます。
ほっこりしたり、ジーンとしたり、とてもロマンチックで胸がいっぱいになったり、そしてナイフを突きつけられたような、張り詰めた気持ちにもなる。この、感情の揺れ動きがとても楽しい。
「今日は小鳥の日」は、グロテスクで全く理解できない行動に、同じ趣味嗜好を持ったというだけの繋がりであった人に対して、精一杯理解しようとする……。戸惑いながらも精一杯の弔いを込めて行動を起こすところが、起こっている事件のグロテスクさに比べて、なんだか応援したくなるような気持ちになる不思議な読後感の作品。
また、「踊りましょうよ」は、一転とてもロマンチックな話で、なんで自分がその人にとって特別なのか理解できなくても、その特別な気持ちを受け入れ、理解しようとする姿勢がこんなにもロマンチックなのかと感動する話で胸がいっぱいになる。
特に、補聴器を選んでプレゼントするところから、耳同士をぴたりとくっつけて、聞こえるかもわからない「耳に棲むもの」のカルテットをシェアするシーンは、こんなにもロマンチックでいいんだろうかとびっくりするほどだった。
そして、最後の「選鉱場とラッパ」は、誰もがハッとする内容なのではないだろうか。倫理観に反することをしてしまった時に、そのことを胸にしまいこんで「隠し通す」こと。自分の倫理に反してまで、手に入れたものが、手に入れた瞬間色褪せてしまったり、そのために負ってしまった十字架に対しての心の葛藤。
誰にも共有できずに、自分でその頃の自分のことを思う気持ちとか、ここまでドラマチックなことは自分はしていないけれど、なぜだか理解できてしまうところにとても感心してしまった。
最後の話は、本当に自分の身を切りつけられるような気持ちになったけれど、そこにも救いがあるのが良い。
理解できなくても、”寄り添うこと”の価値
この作品を読んで、理解の形にも、これほどいろんなものがあるのかと感心させられる。
私たちは『理解できないこと』に対しても、共感や優しさを持つことができるのだと気づかされる。
それは、私たち自身が抱えている見えない闇や、他者の秘密に対しても同じで、完全に理解することができなくても、それを受け入れることで心の温かさを感じられるのだ。
私と夫もそうだが、正直共感できないことはたくさんある。それでも、自分の感じたことは正直に話すようにしている。夫はよく「言ってることがよくわからない」と言うけれど、ちゃんと話を聞いてくれるし、そのことに救われることも多い。
正直に言うと、自分にも受け入れ難いことはたくさんある。それでも、その人の気持ちや感じたことを聞いて、思いを巡らせるだけで、あたたかい気持ちになることができるのだ。共感とは、必ずしも完全に理解することではなく、相手の感情に思いを馳せ、受け入れようとする心があたたかさをもたらすのだろう。