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一の谷は、ローラーコースター(ジェットコースター)マニアの聖地⁉︎ かもしれない。

「 旅探 」

とうサイトに、

コースターの起源、由来には諸説ありますが、16~17世紀のロシアで氷の滑り台から木製のソリで滑り下りるといったものや、1870年代にアメリカの鉱山の廃坑で石炭運搬用のトロッコに乗り坑内を走り下りるという遊びがルーツとされています。

「旅探」

などと書いてあった。

「1870年代にアメリカの鉱山の廃坑で石炭運搬用のトロッコに乗り坑内を走り下りるという遊びがルーツ」なのだそうだが、1910年代に同じようなトロッコ遊びをしていた日本人が、一の谷(現一ノ谷町3丁目)にいた。

Wikipediaによると、

日本では1890年(明治23年)の第3回内国勧業博覧会(上野)で「自動鉄道」(ローラーコースター)が初上陸し秋に大阪の今宮臥龍館に移設した。1925年(大正14年)に多摩川園に常設の「陸上波乗」(ローラーコースター)が設置された。1935年(昭和10年)にはあやめ池遊園地に設置された[4]。

ということらしい。

「1925年(大正14年)に多摩川園に常設の『陸上波乗』(ローラーコースター)が設置された」のだとすると、日本に常設のローラーコースターが設置される以前に、トロッコで、ローラーコースター遊びをしていたことになる。

これはジェットコースター(ローラーコースターの和製英語らしい)の歴史を塗り替える大発見、かもしれない。

トロッコ遊びをしていた人物というのは、鈴木商店(神戸にあった伝説の財閥)の大番頭金子直吉の次男で哲学者・倫理学者の金子武蔵である。

当時の武蔵先生の自宅には、マイ・トロッコがあり、そのマイ・トロッコでローラーコースター遊びをしていたそうだ。

このトロッコは、後に金子直吉一家が移り住む一の谷山荘(一ノ谷町2丁目)の造成工事に使われていたそうだから、芥川龍之介の『トロッコ』(大正十一年)に描かれたような風景が、庭にあったということになる。

武蔵先生の『わが心の自叙伝』

という手記に、二の谷(現一ノ谷町3丁目)でのトロッコ遊びのことが書いてある。

家から海岸に向って四、五十間の距離は、ゆるやかながら傾斜をなしていたので、工事の資材を運ぶためにトロッコが設けられていたが、ゴンタがこれを見のがすはずがない。最初は近距離運転にとどめていたが、距離はしだいに長くなり、ついにトロッコは暴走して二、三十間下のできたての大きな門を大破してしまった。
 気がつくと例の植込みに面した部屋に寝ており、そばには白衣の女性がいる。一時気を失い、療病院から看護婦さんがはせつけていたのであろう。

武蔵少年(1905年生まれ)が一の谷山荘(一ノ谷町2丁目)へ転居するのが大正2年(1913年)ということだから、「1925年(大正14年)に多摩川園に常設の『陸上波乗』(ローラーコースター)が設置され」る10年以上前の出来事ということになる。

一の谷は、ローラーコースター(ジェットコースター)マニアの聖地と言える、かもしれない。

一ノ谷町2丁目は海岸段丘の上にあり、比較的丈夫な地盤なのだそうだが、金子直吉の邸宅があった場所(武蔵少年の専用野球場や果樹園として利用した場所)は、二の谷川の北側と東側を切り崩し、武蔵少年がトロッコ遊びをしていたトロッコで土砂を運んで、一の谷川と二の谷川の間にあった谷を埋めたということなので、一ノ谷町2丁目の平坦な地形の南西、西、北西は金子直吉が造成したことになる。

造成前の地図と造成後の地図を比較すると、なんとなく、埋め立てた場所がわかる。埋め立てた場所は、周囲の地盤より弱くなりがちなので、注意した方が良いかもしれない。

造成前(1892-1910年)
造成後(1922-1923年)


リートン作:トロッコ

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