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岩明均先生の『寄生獣』を読んでみた。
『寄生獣』というアニメが、中国で配信規制されるという話があるそうだ。
『寄生獣』というアニメを観たことがないので、どんな話か全く分からない。
話を知らなければ、規制することが良いことなのかどうか、判断できない。
そこで、原作の岩明均先生の『寄生獣』を読んでみた。
人間の脳に寄生し、ついで宿主の脳にとって代わり、伸縮自在、硬軟自在の身体を変形させ宿主の顔をコピーし、宿主の首から上に棲み、宿主と同種の生物を捕食する知的生物が、たまたま、ある少年の右手に寄生し、この寄生(ミギー)した生物と宿主の少年(泉新一)との種を超越した友情の物語。
まんがで右手と言えば、古谷三敏『手っちゃん』を思い出す。
右手繋がりでは、ライダーマン。
左右問わず、手繋がりでは、『地獄先生ぬ〜べ〜』の鬼の手などを思い出す。
話がそれた。
『寄生獣』には、特に良い表現がある。
第6巻204ページ、
平間警部補ほか私服警官隊が、赤ん坊を抱いた田村玲子を一斉射撃する場面がある。
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この場面は、平間警部補ほか私服警官隊の方が、寄生獣に見える。
実に秀逸な表現である。
ほかにも、自衛隊に射殺された広川市長が、
「人間こそが地球を蝕む寄生虫!!」「いや寄生獣か」と演説する場面(第7巻187ページ)もなかなか秀逸である。
第7巻184ページの広川市長の「・・・地球上の誰かがふと思ったのだ・・・」「生物の未来を守らねばと・・・」との言葉は、第1巻5ページの「地球上の誰かがふと思った。『生物の未来を守らねば』・・・」と一致している。
「寄生獣」とは、ミギーや田村玲子や後藤などの寄生生物ではなく、人間なのである。
ただ残念なのは、バケモノと人間を見分ける能力を持つという凶悪犯浦上(第6巻252ページから登場)が、警察に逮捕されているという、不自然な点があることである。
本当に浦上にバケモノと人間を見分ける能力があれば、浦上は、警察官の接近を常に事前に察知することができるということであり、浦上は、警察に捕まるはずがないのである。
警察官も寄生生物同様バケモノなのである。
寄生生物は、突出した知性を持ちながら情を持たない。
このことは、
漱石が警察官が文芸の哲学的基礎(道義的同情)を欠いていて、知性のみがむやみに働くと言ったことと同じである。
寄生生物(後藤)を射殺するために同僚自衛官もろとも射殺するよう命じる指揮官と命令に従う自衛官を描いた場面(第7巻210ページ)、平間警部補ほか私服警官隊が、赤ん坊を抱いた田村玲子を一斉射撃する場面は、文芸の哲学的基礎(道義的同情)を欠いた犬党のヒトビトの特質を良く表現できている。
ミギーが、生きんとする意志の肯定を象徴するのだとすれば、この物語は、意志の肯定から、意志の否定に至るショーペンハウアー哲学を示唆する物語と言ってもよいかもしれない。
『寄生獣』と同様に、ニーチェ的な意志の肯定一辺倒のニンゲンが諦念に至る筋という意味で、細野不二彦先生の『電波の城』も興味深い。
※中国が『寄生獣』を規制しようという真の目的は、中国国民が中国共産党という寄生獣に気づかないようにとの配慮かもしれないが・・・
※岩明均先生にも、文芸の哲学的基礎があるような気がしたが、『寄生獣リバーシ』を読んで、岩明均先生のバランス感覚に驚愕した。