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嶋田紋奈とプロレス。これまでの関わり。

こんばんは!
代表・紋奈です!

今回のnoteでは、私のプロレス沼にどっぷりハマっていく様と、どうして関わるようになったのか?を信じられない長文にてお話しできたらと思っております。(笑)

そもそも、天龍プロジェクトは2010年に”天龍源一郎の終の棲家”として旗揚げというか、まぁ気の向いた時にやりましょうみたいな感じで始まりました。
その当時のことは大将が、様々な取材や書籍でも語っておりますので割愛をしつつ、私個人のことはご存じでない方も多いと思いますので、これまでもお話している機会はあるのですが、改めて振り返りながらと思います。

大将はいつも突然に…

天龍プロジェクトの、とある大会に向けての公開記者会見の時。
最後に大将からひと言を頂戴しようとした際に、
『じゃぁ、うちの代表から最後に一言!』と言われたことから始まりました。
その後も、復帰戦、引退試合の時も、突然に大役を任せてくる節が皆様にもお届けできているので、もうそういう人だと思うしかないです(笑)

大将の無茶ぶり一覧(笑)

※うまく記事を見つけられず…すみません。


最初は、有耶無耶にしていましたが、遠慮したり謙遜したりして責任から逃れているだけなんじゃないかな?と思う様になり、また、その記者会見後から何故か四六時中、『代表!』としか呼んでくれなくなった父・天龍源一郎。
今思い返せば、まんまと大将の策略にハマった気もしていますが(笑)
これにより、私の人生は大きく変わったと言っても過言ではないと思います。

突然の音響担当。

天龍プロジェクトの代表としてはそんな感じではありましたが、以前よりこの世界ではお仕事をしていました。お手伝いという方が正しいかもしれません。

生まれてから、『所帯じみたところをファンの皆様にお見せするのはよくない』という母の方針もあり、あまり会場には足を運ぶ機会がなかった全日本時代ですが、WARという父自身の団体を持つことで状況が一変しました。
小学生だろうが、何だろうが、使えるモンは使う!の環境に変わり、家族経営が始まります。
会場に行く度、パンフレットの売り子さんをしたり、出来るお手伝いをする様になりました。
子供ながらに親のお手伝いができるというのは本当に何だか誇らしくって、恥ずかしい気持ちと入り交ざった良い思い出です。

天龍ファンは長いお付き合いの方が多いので、そんな私のお手伝いの姿を知ってくださっている方も多くいらっしゃる、そんな環境でした。

プロレスのお手伝い、そんな日々があった14歳の2月。(因みに…26年前www)
木更津の体育館での大会。
学校がお休みだったので、バレンタインデーのチョコを所属選手たちに渡せる。そんな軽い気持ちで会場に赴きました。

当時の社長であった(うる覚え)叔父から突然に
『お前、音響やってみるか?』と言われ、
『えーー!?』とか言いながらもやってみることになりました。
その当時は、試合が終わった選手も、セコンド以外に雑務や音響をやっていた程、スタッフも限られていたので、その日は確か、石井さんと一緒にやった気がします。
教えてもらったのは、大会が始まる前に当時の音響機材、カセットテープの頭出しをして音を確認、試合順に並べてセットして音を出す。
基本的にはそんなことの繰り返しでした。

でも、音響の仕方を教えてくれた石井さんは第1試合。
早速、一人で音響をすることになります。
そこで、第2試合に出場していた超電戦士バトレンジャー選手の入場曲で事件が起こります。
リングアナウンサーから入場を促すアナウンスがなされ、私は『ポチっとな』をします。
………。

一向に音が鳴りません。
会場内に『スーーーーーーーーーーー』という無音の何かが流れ続けます。
ボリュームを上げたり、下げたり、いろんなことをします。
次第にお客様たちもキョロキョロしだし、不安な表情になり、14歳の小娘は震えあがっていました。

そこで、お客様も手拍子で何とか盛り上げて下さり、バトさん入場。
その場は何とか試合が始まるところまではいけました。

悔しい。応えられなかった自分。

後で分かったことですが、通常はA面に入っている入場曲…。
何故かバトさんのだけ、B面に入っていたのです。
何とかなったとはいえ、とても悔しい、というか、やってしまった!と責任を感じたのを今でも覚えています。

当時の私は、今ほどにはプロレスラーというお商売や、お客様からお金を頂戴しているということが一体どれほどの事かは、理解は出来ていなかったとは思うのですが、それでも、客商売であることは理解していましたし、夢を売る。そんな風にも感じていたんだと思います。

だから、悔しかった。
その一個のミスが、選手たち、お客様たちにとって、夢から覚めてしまうような。そんな重大なミスを起こしてしまったんじゃないかと思いました。
そして、その後から、リベンジをしようと考える様になりました。

今でもこの小さなミスという、始まりがあったからこそ、プロレスに携わる私がいることは間違いないです。

それからは、学校がお休みの時は全大会参加。
間に合う時は学校帰りも参加。(大会があるからと早退したりもしました💦)
少しづつ、プロレスが学業よりも上回る日々。
プロレスラーという職業が、私の中でとてつもない凄い事へと変わっていった瞬間でもあります。
凄く詳細なことは覚えていないのですが、一つ、また一つと、大会を見るたびに、父の闘う姿や、選手たちの闘う姿をみて、中学生の私は『片手間でやっていい仕事じゃない』漠然とそう強く思ったことだけは覚えています。

その後は”片手間でやらない”を何故か実行しようと、学校にも行かず、すべての大会・巡業に徐々について回るようになり、いっぱしのスタッフとしてやらなくては!という気持ちでいっぱいでした。

当時の社員さんや、海野さん、石井さん、いろんな方が仕事をお教えて下さり、きっと今思えば天龍の娘がしゃしゃり出てきた。とか、かえって仕事を増やしてしまっていたんじゃないかなーと反省もしますが、私は私で、天龍源一郎の娘として扱われない様に、一番下っ端としてやろうと決めて、子供ながらに努力をしていました。

父との行動は極力避け、今までは状況に応じて『お父さん』と呼んでいたものも、選手、スタッフたちと同じ『大将』に統一。
親子であることを捨てました。
子供なんだけど、子供がいたら迷惑になってしまうと一人でいろいろ考えることも多かったです。
14歳です。
親元を離れ、淋して泣きたくなったり、純粋に日程や体がつらくて泣いたり、よく隠れて泣きました。
一人でホテルに泊まることも初めてで、サービスエリアでの食事はうどんを5分で食べるなんてこともしたことが無くて、本当に両親に守られて生きてきたのだなと、振り返れば振り返るほどに実感します。

それでも、選手バスには乗らず、一番過酷とされていた、トラック帯での移動を選び続けました。

早朝トラックで出発→会場設営→リング設営→グッズ販売→音響→会場撤収→次の目的地へ
これの繰り返しです。
WARは小規模の巡業ではありましたが、しっかりと2週間ある時もあって、夏の巡業なんかは本当にぶっ倒れるくらいの毎日でした。
今も体力的に無理になってきましたが(初老)
14歳の私にもなかなかの過酷さで…。泣
その話はまた別の機会にもさせてください!

今も天龍プロジェクトでお仕事をご一緒しているリングアナウンサーのパンチ田原さんもその時からのお付き合いで、『中学生だったあやちゃんが代表だもんな…』と。
時の流れを感じます…。

そんなこんなで、WARが所属を解雇、活動を停止したことで私の巡業生活も終わりとなりますが、それでも、娘であることが劣等感でしかなかった日々に、現場で皆と苦楽を共にし働くという時間は今の自分の礎となっています。

働くということ。
親の仕事を目の前で見て生きていくこと。
これは、とても大切なことです。
そして、家族として、仲間として、この業界の人間として、もしも出来ることがあったら全力でやる。
そんなことも朧げに学んだ気がします。

プロレスラーってかっこいいんだ!すごいんだ!

そういう感情も、ここから強烈になっていった気がします(笑)

背広を着て、凛と佇み、業務は最低限で見守ることも、今の代表という立場ならできるのかもしれません。
でも、私は、現場に立ち続けた父や母と同様、現場至上主義でいたい。
選手・スタッフと同じ空気を吸っていたい。
お客様のいる場所でその雰囲気を感じ、知っていなくてはならない。
選手、スタッフ、ファンの皆様の声が聞こえる場所に居たい。
役職に関わらず、出来ることをする。
そういった精神をWARで教わり、今もその気持ちでいる気がします。

代表がセコンドをすることに、人がいないんだね。と言われてしまうこともありましたが、そうではありません。
それが、何かの際に邪魔になる時もあるかもしれませんが、これからも変えずにありたいです。

そんな中学生活を送ったお陰様で、立派に学業は疎かにし、プロレスのみで生きてきてしまった為に、良くも悪くも鍛えられた何かが時たま天龍源一郎の反骨の魂を上回るくらいにプロレスに熱い女に育ってしまいましたが、何でもが出来るわけじゃないけれど、プロレスを名の付くモノやコトに対して情熱だけはいつも変わらずに持ち続けられています。
だからこれからも、あの時を忘れずにプロレスからたくさんのことを学び、それを還元できるように務めていきたいです!

14歳から始まった私のプロレス生活は一度幕を閉じ、母の経営する鮨處しま田へと変化を遂げますが、すし屋の閉店後にまたそのキャリアが花開く。
本当に、嶋田家という家族は、面白いなと思っています。
面白いというか、本当に人使いが荒いな!!と笑い話になってます(笑)

今年で40歳になりました。
私の場合は、純粋に14歳から計算してしまうとキャリア26年になってしまいますが、離れていた時間もあります。
なので、WAR時代の数年+天龍プロジェクトの13年といったところで計算しております。
ただキャリアって言うのは何だかマウント取ってるだけの気もするし、ただ月日が流れたら偉いとか、くだらないなと心の底から思います。
代表だから!って振りかざすのも誰かを守る為に戦う時、責任を負う時だけでいいと思ってます。
なので、これからも会場では、一スタッフとして見て頂ければと思います。
お困りごととか相談とか、どこまでお応え出来るかわからないですけど何でも言いに来てください!
『勝ったー!ワーイ』をファンの皆様と一緒になって喜んだり、共有したりできる身近な存在でありたいです。

私のプロレスに関わるようになった話からそれてしまった部分もありますが、流行りのアニメなんかの長いタイトルに乗っかってみると…
『天龍源一郎の娘は、自分の父親がやってた団体WARで突然に音響をやり、見事にミスって挽回しようと思っていたらいつの間にか全大会ついていき、プロレスの魅力に気づき、娘であっても何かの役に立ちたいと願い、裏方として生きていくことで生きがいと居場所を見つけたってよ!』
といった感じでしょうか。(ネーミングセンスないですね(笑))

とにかく、そんな始まりだったことが、今の天龍プロジェクト代表である私を築き、支えています。

何か小さなことでも、率先してお手伝いするのが当たり前!と育ててくれた、そんな運命にしてくれた母に感謝。
人生始まったばかりの小娘が今こうして一生をかけて守りたいと思えるお仕事に出会えるきっかけを作り、受け入れて下さったWARに関わる全ての皆さんに感謝を込めて。









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