高度先端医療の光と影 ー腹膜透析に多発した壊死性腹膜炎患者との関わりよりー

    1章 はじめに          

わが国の透析患者は21万人を超えた(平沢 2002)。内訳は95%以上が血液透析(HD:hemodialysis)であり、連続携帯式腹膜透析(CAPD:continuous ambulatory peritoneal dialysis)患者は5%未満である。

透析医療は60年代は延命、70年代は社会復帰、80年代はQOL向上を課題として発展してきた。この中、我が国では80年代からCAPDの施行が行われ始めた。まさに、透析医療におけるQOL志向の中で、CAPDは登場したという歴史的経緯を持つ(保井 2001)。

旧来、HDとCAPDの長短について、以下のように主張されてきた(表1 藤井 1998)。

表1 血液透析と腹膜透析の主な相違点

           CAPD HD

設備       簡単な機具のみ    機械、施設が必要

所要時間  1回20~30分で1日4回   1回4~5時間で週3回

通院月        1〜2回       週3回

手術       カテーテルの挿入   内シャントの作成

体液量、体液組織の変動  小さい      大きい

循環器ストレス      小さい      大きい

不均衡症候群       ない      時に出現

蛋白質の喪失       多い       少ない

食事制限       塩分 リン     塩分、カリウム、リン

合併症  腹膜炎、硬化性被嚢性腹膜炎

継続可能期間      約10年      半永久的




又、CAPD患者の選択に際し以下の基準が設けられている(表2 川口 家口 1993)。

表2 CAPD患者の選択基準

(1) 積極的適応(positive selection)

1)  腹膜透析が可能であり、よい透析効率が得られる

2)  十分な自己管理能力(技術、食事、水分)

3)  積極的に社会復帰を志向する患者

4)  患者の強い意志

5)  家族の同意

6)  高いコンプライアンスを有する患者

7)  社会的環境の受け入れ

8)  日常生活においてCAPDのメリットを最大限に活かせる(とく

    とくに夜間透析、家庭血液透析と比較して)

9)  腎不全合併症の程度が少ない(臓器障害の程度が少ない)

10)  年齢(60才以下が望ましい)


(2) 消極的適応(negative selection)

1)  ブラッドアクセスが不良あるいは長期間使用できない場合

2)  心血管系の障害が強く、体外循環が好ましくない場合

3)  糖尿病性腎症で、血液透析よりもCAPDのほうが良い血糖コン 

   トロールが得られ、循環器系への負担の軽減が期待できる場合

4)  血液透析では十分な透析効果の得られない場合


(3) 行うべきでない症例

1)  腹腔内面積が著しく少ない場合

2)  腹膜機能(溶質移動及び限外濾過)が十分でない場合

3)  腹壁ヘルニアがあり、液貯留によりヘルニアが発症する場合

4)  横隔膜の欠損がある場合

5)  著しい換気障害がある場合

6)  腹腔内に透析液を貯留することにより強い腰痛を訴える場合

   (初期には存在しても慣れる場合は実施可)

7)  人工肛門造設者(可能であるとの報告があるが、CAPD以外に

   透析法がない場合のみ適応)

8)  CAPDの教育実施に耐えられない場合

9)  家族の反対がある場合

10)  腹壁が高度に肥満している場合(カテーテル設置が可能ならば

   行うことができる)  



特に積極的適応(positive selection)においては、患者の自律心を基に、「本療法が患者にもたらず自立性と、良好な社会機能および就業面からの社会復帰に基づいた(窪田 1999)」QOLの改善が強調されてきた。尚、アメリカではCAPD選択に望ましい患者として、以下の特性を挙げている(表3 Consalves-Ebrahim 1982)

表3 CAPDに望ましい患者

(1) strong desire for independence

(2) high degree of determination

(3) careful attention

(4) good cognitive function

(5) no poor body image

(6) no personality disterbance

しかしながら、我が国のCAPD患者は1997年の5.1%をピークに2000年末で4.1%と減少している。この要因の一つが合併症である硬化性被嚢性腹膜炎(SEP:sclerosing encapsulating peritonitis)のリスクである(福井 2002)。

SEPはCAPDの最も重篤な合併症であり、びまん性に肥厚した腹膜の広範な癒着により、持続的、間欠的あるいは反復性にイレウス症状を呈する症候群であり(野本 久保ら 1998)、重症例は死亡する。臨床所見、形態学的所見、腹膜組織所見を合わせて診断されるが、予測試験法がなく、診断、治療、予防においてはようやく概ねの指針が成立しているが、手術の適否などは議論中にあり、病因についても未解明な点が多い。状態像の重軽、発症のパタンも非常に個人差が多い。

患者にはCAPD中止、絶飲食、TPN、長期入院下での安静が求められる。

 つまり、SEPはCAPDの治療的メリット(より自由な飲食、通院頻度の少なさ、より自由な社会的活動)も、QOLも崩壊させるどころか、ADL、生命まで奪うという、CAPDの逆説的性質を持ったものである。

ところで、透析医療におけるQOL志向、又今日の医療に要請されている全人的医療の概念から、1978年、Levy.N.Bにより、透析患者の精神、心理、社会的問題を担うサイコネフロロジー(psychonephrology)が提唱された。我が国では、春木により1990年サイコネフロロジー・カンファランスが発足した。これは後に日本サイコネフロロジー研究会と改称され、日本透析医学会の関連学術団体へと大きな発展を遂げている。本研究会においては、1992年、1997年に「CAPDをめぐる精神医学的問題」と題した大会が開催されている。

しかし、この中においても、SEPを表題とする発表そのものが一件に留まり、その精神、心理、社会的問題の詳細を見る事ができない。

我が国のサイコネフロロジーは、透析医療は欧米に比べ医療技術面では相当に進歩しているが、精神、心理、社会的、倫理的側面においては大きな遅れを取っている現状、「ことに先端医療では先に技術があって後から人間(すなわち精神と心)がついていくといったことになっている。ここで精神、心、ひいては社会、生活、倫理の問題を見なおす(春木 1996)」との理念から誕生しているが、“医療技術面では相当に進歩”し、QOL志向へシフトした透析医療の根本を揺るがすものとして、SEP、殊に重症例が登場してきている。そこでは、精神、心理、社会的、倫理的側面はもちろんのこと、医療技術面においても“大きな遅れを取って”いる。当院では既に死亡もしくは超長期入院に至る重症例を経験している。SEPは透析医療にもサイコネフロロジーにも、等しく新たな難関として存在している。

 我々は血液透析患者に対する心理的援助について報告したが(箭本 2001 宇佐美 中嶋 2002)、今回、長期CAPD後にSEPを発症し死亡したケースを経験した。本ケースの面接、CL活動の過程と、ここから学んだCAPD医療の今日的問題、心理職への要請と課題について報告する。

 


           2章 症例報告           


症例 男性(死亡時)54才

家族歴 妻66才、子27才

生活歴 幼少時に両親と死別、苦学して高校、大学へ進学。大学卒業後、会社員を経て製造業起業。24才時、12才年上の妻と結婚し、長女誕生、ダウン症状にて「余命5年」との告知がなされた。X年37才時、ネフロ−ゼから腎不全を来し、経済的事由、長女の養育上の事由から本人が社会復帰を強く希望し、医師の勧めもありCAPD導入となった。コンプライアンス、セルフケアに問題なく、長女の養育、就労ともに熱心であった。

X+12年、神経科初診、神経症性不眠、restless legs症候群の診断にて、約1年通院、薬物治療を受けた。

X+15年、数回の腹膜炎の後SEP発症、開腹するも手術不能でHDへ移行、又完全IVHとなる。「生きていてもしょうがない」等の発言見られるも、主治医に対しては頑なに心情を語ることなく、入院中に再度神経科へ紹介となる。

神経科医、心理士に対しては淡々とした口調で応じ、疾病理解も充分であった。透析スタッフに対し「生きていてもしょうがない」等の悲観的発言が続いており、退院後の外来フォローについてガイダンスするも、受診されなかった。

X+16年、吐気、嘔吐の悪化にて再入院、「SEPの予後、家庭内の負担等神経科的要因強い」との旨で再度紹介、入院中数回心理士が訪問し「不安が大きい、病気について完全に受け入れることはできない、あきらめきれない。希望を持っていたい」との訴えがあった。退院後の受診は今回もなされなかった。

X+17年11月、転倒にて緊急入院。転倒の事由について「透析室の都合で透析開始時間が変更されて以降、不眠悪化した、睡眠薬を増やすことになり、日中残薬してふらつき、転倒した」との言。不眠について、再度神経科に紹介となり、主治医、患者の依頼にて、心理士による1)神経科医による不眠加療の「つなぎ」役2)患者、妻への心理面接を開始した。当初は外傷の治癒による退院までの間の、薬物調整の経過観察、疾病、家族の負担によるストレス緩和目的での訪問との治療契約であったが、入院10日後よりSEP増悪、悲観的言動が見られるようになり、身体状況も悪化の一途を辿った。X+18年2月、週単位での予後である旨のムンテラが妻になされ、SEP症状のPain controlに対し、本人と妻の了解得られ、モルヒネの使用が開始された。この頃よりせん妄症状見られ、次第に増悪、3月には疎通はほぼ困難となり、同月末死亡した。

経過)

筆者はX+17年、転倒による緊急入院時から死亡までの約5ヶ月の間、コンサルテーション・リエゾン活動を行った。患者、家族との面接の頻度は週2回であった。死亡までの経過は、「一期 外傷の回復と退院への期待」 「二期 SEP症状の増悪、全身状況の悪化」 「三期 意識障害出現後」 に区分される。以下、各期での面接とCL活動の過程を記述する。


一期 外傷の回復と退院への期待 #1 ~#3

HDへの通院時に自宅階段にて「眠剤が残ってて足がふらついて」転倒、下肢の疼痛と運動麻痺を生じ緊急入院となった。この折りのClの睡眠薬服薬量はアモバン7.5mg2T、ハルシオン0.25mg2T、時にロヒプノール1mg2T、デジレル150mgに及んでおり、このような大量の睡眠薬の使用について、Clは透析室の都合によるシフトの後退による睡眠リズムの乱れによるものと訴えた。睡眠障害についてSEPの病状と予後の不安の関与を案じた主治医より心理士の介入の要請を受け、病室を訪問し「病棟を回っているカウンセラーです。神経科の治療を受けていらっしゃるので、その経過を時折お伺いしたいのと、スタッフの皆さんが、難しい病気を抱えてられて、色々心労も多いのでは無いかと心配されていたので、お力になれることがあればと思い」と自己紹介した。

Cl自身は、「ありがとうございます、よろしくお願いします」と笑顔を見せた後、淡々とした口調で睡眠薬が増量となった経緯、更には「次の入院は生きて帰れないと覚悟してたのに、コケて入院なんてねえ。思いつめてたの、気がぬけちゃったよ。」とむしろ朗らかに語った。反面妻は「この人がこんな目にあってるの全部透析室のせいだよっ。病身の人間のリズム壊して(透析時間帯の変更)!CAPDの事だって許せないよ。この人の不幸は何もかも透析室のせい。なのに向こうの都合で時間変更して、眠れなくさせて。薬も増えたから転んだんだよっ。呂律もろくに回って無いことだってある。こんな夫を見るのは自分だって苦しいよっ。」と声高に言い放ち、Clが妻をたしなめる体であった。否定も肯定もせず、感情的な表現にのみ共感を示し、「今後も経過観察だけでなく、ゆっくりお話を伺わせて下さい」と問うと、夫婦共に「よろしくお願いします。」と訪問に好意的な反応を見せた。特に、透析スタッフへの強いaggressionを表現した妻の好意的な反応が印象的であった。

2回目の訪問日、病棟師長より、Cl自身はハルシオン1T、アモバン1/2T、デジレル75mgにて眠れている旨訴えているが、傾眠等日中残薬見られること、夜間のいびきに同室患者からクレーム寄せられ、やむなくnose padの使用依頼した旨報告された。特に師長は「HDだけでなく、医療そのものに葛藤があるだろうと思う。ここで、いびきがうるさいので、とnose pad使用を依頼した事が、更に外傷的な体験となっていないか」懸念しているとの事であった。

訪問するや、「眠剤が減らせました。このままでいられるといいな。」と笑顔を見せた。直載にスタッフの懸念であえうnose pad使用依頼について話しを向けると、「いびきのひどさは、女房からも聞いてるんだ。迷惑かけちゃったけど、いいもの見つけてくれた。師長さんもNsも、日中『調子どうですか』ってちょこちょこ来てくれる。『寝ちゃだめだよー』とか。昼寝ちゃうともっと眠れなくなるもんね」と、外傷的というよりも、手を尽くし配慮されている、という安心感をもたらしているようであった。問わず語りに「うちは本当に病気一家でね」と妻の持病(橋本病)、長女出生の際の医師からの厳しいムンテラ、その折の葛藤が語られた。「透析医療にも、正直心穏やかでない部分があるのは確か。だけど、怒りは女房が担当しちゃってるし、CAPDやるって時には先生達も含めて、それがベストだと思われたし、透析室のスタッフはずっと親身にしてくれた」と、急に口調平板に語り「でもSEPになった内、Aさんも死んで、Bさんも死んだでしょう、あの人息子まだ学生なのに。でもCさんとDさんは手術が上手くいって頑張ってるよね。」と次いだ。『まずは、Clの病状なりの、最大限の元気を取り戻して欲しい』と応じると、「そうだね、家族がいるもんね。女房ああ見えて、芯は細いんだ。娘も障害があったって何だって、ひたすら大切で可愛い。もっと見守っていたいもんね。この子を育てられるという人間、ってきっと選ばれたんだ。やり遂げたいよ。」と笑顔を見せた。

3回目の訪問時、師長から、眠剤について「減らしているとのみの言。不眠の訴えと日中傾眠も変化ない」との報告を受けた。

訪問するなり「デジレル75mg、ハルシオン2Tで粘ってます」と応じた後、「見てもらおうと思って、女房に持って来てもらったんだ」とアルバムを取り出した。長女を囲んだ写真を次々指しては、「これは〜の時、これは〜の時」と笑顔で説明していたが、主治医も交えてのCAPD仲間との食事会の記念写真が出て来た折り、アルバムを置き「正直、もうあまり生きられないという事、いつも思っている。仲間も死んでしまって、生きているのは手術が成功した人だけ。家族のために生きていたいけど、セカンドオピニオンの先生にも言われたんだけど、この病気の事は医者も手探りで、自分の状況はかなり悪いって。せめて一日でも長くって事にかけてるんです。」と結んだ。筆者は「状況を正しく見据えながらも希望を持とうとするのは、実に貴いお志だ」とのみ応じた。



二期 SEP増悪、全身状況の悪化 #4 ~#20

病棟から急な熱発、吐気、嘔吐が生じているとの報告を受けた。早速透析中のClを訪問するも、悪寒にて湯たんぽを抱え震えている状況であり、急な病状変化に筆者自身大きな衝撃を受けた。Clに何を問いかけたものかと思案しながら顔を出すと「会話難しいです・・急に悪いんだ、薬飲むので水分量が増えたから、お腹刺激してしまった、こうなったら危ないよ・・」と切れ切れに応じる。筆者は背中をさすり、Clの言葉に相づちを打つ以外の行動を取りえなかった。透析室スタッフに透析室でのClの様子を問うも、不眠に関する訴えが簡易に伝えられるのみで、Clの心理状態に関する対話へ発展する事はなかった。これまで、良好な協働関係にあった透析室スタッフの抵抗に戸惑いを禁じ得なかった。これは主治医との接触においても、同様の結果であり、筆者はSEPにまつわる禁忌と思える程の抵抗を前に、途方にくれた。この後2週間程、会話の困難な状況続き、筆者の介入も、背をさする、下肢の疼痛部をもむといった介助の合間に「すごく痛いんだ」「人間こんなになってしまったらもうお終いだよね」との言を聞き入れるのみに終始した。

8回目訪問時、吐気は変わらないものの、嘔吐はやや落ち着いた。筆者が訪問するなり「人間はどんなに医療が進んでも淘汰されるんだよ」と口火を切り、SEPへの対応の遅れ、情報公開の乏しさ、主治医からのムンテラに関する不満など、平素の淡々とした様子とは一変し強い口調で透析医療への憤りを訴えた。次いで「Eさんもこの間発症してしまったって。何でこういう事が起きなくてはいけないんだろう。人間こんな苦しみに耐え続けられるものではないよ、小休止すらないんだ・・」と苦悶の表情で続けた。「そのような中、Clが踏ん張っていられるのは?」との問いには「家族がいるから」と応じ、涙を流した。ベッドテーブルに飾られた写真立てを差し『ほら、これは〜に行った時なんだ。娘、いい笑顔でしょう』と結んだ。筆者はしばし無言で沿い、「あなたがどのような状況にあってもかならず訪問する」旨伝えたが、Clの身体的な苦痛に対しては言うまでもなく、透析室スタッフへの葛藤、透析室サイドの抵抗に対しても、突破口を見出せない状況に、筆者の無力感はにわかに増大した。

以後、嘔吐、透析中の血圧低下続き、対話を持てない期間が3週ほど続いた。更に、腹痛の増悪、腹水加わり、身体状況は一層悪化した。病棟師長より、妻が、ClがSEPの平均予後2年との通説を切実に感じている様子である事への苦悶、透析スタッフへの憤りを訴えており、この憤りは充分了解可能で共感できるが、同病院の医療スタッフの一員である以上、透析室へのネガティブな発言を扱うことが困難であり、看護スタッフはコミットしづらい旨の報告を受けた。筆者は、Clの身体的苦痛に対し全く無力である事、自らの状態を客観的に見据え、大きな不安を抱えているであろう中で、達観とも諦観とも取れる淡々とした態度を貫こうとするClに対し、どのような「支え」たりうるのか、更に、筆者自身、直接的な医療とは一歩離れた第三者として医療構造の中に存在しているが、当院のスタッフの一員であるという現実は免れ得ないものであり、果たして「つなぎ」役なるものを担うことができるのかという葛藤に直面化した。

新年が明け、ようやく対話を持つ機会が生じたが、癒着部位の拡大からSEP症状は悪化し、血圧低下も頻発している事から充分な透析の施行も困難になっている状況であった。訪問するなり「もうダメだよ、始終苦しい。決着をつけて欲しいんだ。」『決着?』「もう終わりにしたい。でも医師は日本ではできないって。ジリジリ生殺しにされるんだな。」

「どこかでは明日は少しだけでも楽かもっていう希望を捨てられない、でも結局毎度裏切られるんだ。」と次いだ。筆者はClの圧倒的な心身の苦痛に向き合う事への苦痛を感じた。わずかでも、Clにも筆者にも、双方の対話にも希望が欲しく、『その中で踏ん張っていられるのは?』と問い、「家族」という返答がなされる事を予感していたが、Clは「何もない。ただ苦しんでる内に時間が過ぎていくだけだよ・・」と応じ、更に、「前の入院まではC先生(CAPD導入時の主治医)、担当でもないのに顔出して励ましてくれてたんだよ。でももう来ない。来れないんじゃないかな。先生の気持ちも分かるよ、でも痛くて苦しいのはこっちなのに・・」と、苦悶の表情で閉眼した。筆者はClの厳しい身体状況と苦痛の光景に圧倒され、更に触れようがない深い絶望と苦悶になすすべがなくしばし立ちつくした。又、透析スタッフ個人への葛藤が、スタッフの心情を配慮しながら表現されていることから、医療スタッフサイドの第三者として存在している筆者が、何に共感を示そうとも、「先生の気持ちもわかる、でも〜」との言の再体験に陥するにすぎないのではないか、との無力感を感じた。

『決着を、という位苦しいのはもっとも、それはそれとして、私自身の思いとして、あなたの症状が少しでも楽で、心穏やかに過ごせる時を持てる事を願っていたい』と精一杯の自己開示をし、退室した。その場に“これ以上いられない、いたくない”との思いがあった。別所にて妻と面談の場を設けると、「年始から弱気になっている、“もう帰れないんだね”とか、“生殺しだ、リーチかかってる”なんて言う。入院した時は怪我さえ治れば帰れると思っていたから・・。Clの外車を売る話をしたら、“嫌だ、また乗るんだ”って。無理はお互い承知の事だけど、希望を持ってるんだと思って、それが救いなの。」「私も、無理かもしれない、それは分かり切ってるけど、希望を捨てたくないから、主人がいつ帰って来てもいいように、手すりつけたり、家の改築始めようと思って。」と、自らを鼓舞している様子であった。

この後一週間は再度対話が困難な状況が続いた。再び対話の機会を得た時、冷や汗をかきながら嘔吐し、浮腫も著明になっていたが、嘔吐の合間々に「失礼かもしれないね」と筆者に配慮しながら対話を望んだ。「もうどうにもならないんだ。一々期待して絶望し切った。期待することには疲れました。病気は治すもの、とか治るもの、っていう概念自体、おかしな事なんだろうと思う。でもこんな思いをしなければならないのかな・・殺生すぎるよね、ただ少しだけ楽になりたいって希望も自分には危険なものなんだ。」と、悲観と絶望強めていた。合間合間に嘔吐しながら、必死に語る様子に、筆者自身絞られるような苦しみを感じると同じに、Clが筆者に対し必死にコンタクトを取ろうとしていること、以前の訪問時、筆者がClに告げた「どのような状況にあっても訪問を継続する」ことに筆者自身持ちこたえる事こそが、Clのニーズであろうと感じた。一言々に大きく相づちを打ち共感を示し、背をさする、顔を拭清する、という対応に終始したが、筆者自身の“(もう苦しくて)この場にいられない”思いは減じていった。

この後増悪する腹水に対し、イレウスチューブが挿管された。透析継続も更に困難になり、大幅な時間短縮となった。浮腫、体重増加も著明になった。「チューブ、HDって、きつくて限界だよ、チューブにも期待してなかったけど、やっぱり何の効果もないな・・」とのみ語り、更に増えたベッドテーブルの写真立てや、その場で筆者が手伝える事などに話しを向けるも、応答は得られなかった。直栽に『私が何の力になれる訳ではないが、こうして伺うことで、あなたのお気持ちがわずかでもポジティブな方向に向かったり、穏やかになれるのであればと思い、御負担かもしれない、と思いながら顔を出させて頂いているのだけど・・』と切り出すと、「ありがとう。お願いします。」と返答された。

さらに痛み、嘔吐などSEP症状は増悪し、妻に「ターミナルにあり、週単位での予後であること、Clの苦痛除去を最優先とし鎮痛にモルヒネを用いること」が告知された。モルヒネの使用に関してのみCl自身にも説明され、夫婦の了解を得られたとの事であった。告知の翌日訪問したが、Cl自身は眠っており、敢えて起こさず妻と別所にて面接した。妻は「いつも来てくれるね、ありがとうね」と始め、「SEPって事がわかって、他の先生の所に相談に行ったり、一緒に自分達でも手にできる論文集めたりしたのね・・それで、もうずっと私はあきらめ続けてきた。最後の一筋を、昨日あきらめたのよ。苦しんでいるの見るよりも、どんな薬使ったって、少しでも楽で、良い時間送って、逝かせてあげたい。」と涙流しつつも、気丈に語った。『奥様自身ずっと苦しんでこられた中で、Clを支え続けられるのは本当に尊い姿、何ができる訳ではないが、これまで通り訪問させて頂きたい』と応じた。“ついにこのような時が来てしまった”と、出会った当初の、怪我の回復を待ち望んでいた夫婦の様子が心をよぎり、更に、「自分達でも手にできる論文を集めていた」Clが、モルヒネの導入をどのように受け止めているのか、それについてどのような対話を持てるのかという不安が生じた。その中で、絶望の連続の中で必死に気丈な様子を保ち、筆者を好意的に迎え、笑顔を見せる妻の存在が、筆者自身の、絶望の中の希望、であった。

三期 意識障害出現後 #21 ~#31

身体状況の悪化より、大部屋から二人部屋へ移動されていた。モルヒネの導入も含め、Clとどのように対話を持つか不安を抱えながら訪問するも、開眼はしているが焦点が合わない様子が見られた。Nsから、「モルヒネ開始してから、日中傾眠目立ち、会話もつじつまが合わない事が出て来た」との報告を合わせ聞いた。挨拶し脇に座すも、無言であり、ベッドテーブルの写真に話しを向けると「これは〜ですね」とのみ応じるが、それ以上の発話は出ない。やにわに「薬が強く、もうろうとしますね」と奇妙な間合いで発話するも、途切れてしまい対話は困難となった。夜着の着脱の介助をし、筆者が一方的に気候や景色の話しをして退出した。更に、ラインが外れる程のミオクローヌスが加わった。日中傾眠、失見当識も増悪し、対話は困難となった。妻は更にアルバムを持ち込み、筆者に次々と見せては「この時は〜だったよ、ねえ楽しかったよねえ、パパ」とClにも逐一確認を求めた。筆者には、妻が筆者と共に、Clの失見当識−失われて行くCl個人−へ必死の抵抗を繰り出しているかのように見られた。Clは傾眠の合間に、的確に応答したり、不意に「もうダメな所に来てしまったなあ・・」と呟く状況であった。その中でも、妻は写真を筆者に見せてはClに確認を求める行動を続けた。訪問毎に一冊終えては、「はい、今日はここまで。また次ぎのお楽しみね。」と笑顔でおどけて見せた。

更に身体状況が悪化したこと、加えて「ダウン症の長女の来訪を可能にし、家族の時間を作ってあげたい」との病棟師長の奮闘の甲斐あり、差額費用免減の上での個室への移動となった。この個室の確保を巡り、「発症と現状の経緯から、Clに共感したり、時には入れ込みしぎてしまって、万事良いようにというスタッフと、特別視しすぎるのは問題というスタッフの摩擦が生じてきて、チーム内の人間関係の問題や、透析室やCl、家族への陰性感情も目立ってきてしまって・・」という、スタッフ、患者、家族間の摩擦が表面化が師長から語られた。加えて、「やっぱり、私達医療側の人間が、いかに共感して親身に関わろうとしても、患者、家族の抵抗を免れられないのは事実、せめてケアや環境面でのベストを尽くす事が、私達にできるメンタルケアだと思う。でも、中々に難しいわね・・」と師長自身の苦悩が語られた。Clが、Nsが配慮してくれている、という体験を持てていること、それはClにとって大きな励みになっているであろうこと、又、看護記録より妻の訴えをNsが傾聴している部分を指摘し、『経緯が経緯なだけに、関わりにおいても、病棟の統率においても困難な状況で、最善を尽くしていられるのは実に立派ですばらしいこと』と保証的なコンサルテーションを行った。時同じくして、看護スタッフの一人から「Clにケアが集中していることに抵抗があるスタッフが、奥様に『師長とカウンセラーに甘やかされて、特別にされている』ような心無い事を言ったようで・・」と告げられ、発症の経緯にもたらされた、Clを取り囲む広い治療構造に生じている摩擦を再認識すると同時に、コンサルテーション・リエゾン活動を果たし得ない自らの“身動きの取れない”感覚に頭を抱える思いであった。

妻は個室にClが自宅で使用していた雑貨等をもちこみ、実にアットホームで暖かみのある環境をつくりだしていた。「師長が頑張ってくれて、娘がやっとパパに会えた。娘はとまどってしまって。でもパパ喜んでねー、『おりこうさんにしていますか?』とか『きちんとママの言う事を聞くんだよ』とか、久々に生き生きとしてて。」と笑顔を見せた。師長の奮闘と思いは、しっかりと伝わっているようであった。Cl自身は質問に対しては短くも的確に応答するが、傾眠し対話にならない状況であった。妻より「昼起きていた方がいいって言われて車椅子でドライブしている。本人も楽しそうなんだけれど、私の体がつらくて・・」と聞かれ、『では、選手交代』と、筆者が車椅子を押し、妻が傍らに沿って“車椅子ドライブ”にて病棟フロアを廻った。Clも「ドライブだね、いいねえ」と笑顔を見せ、ドライブ中の問いかけには短いながらも即座の返答を見せた。この“車椅子ドライブ”を訪問毎に行ううちに、“ドライブ後のお茶。先生がここで私達のお話聴いてくれたりお手伝いしてくれたりしても、休んでいっても、同じ時間の中だったらいいでしょ。だったら、一緒にお茶して、休んでいって欲しいの。一日中頑張ってるんでしょ。ねえパパ。」と、持ち込んだ可愛らしい食器で、おそらく用意してきたであろうお茶菓子とお茶をテーブルに並べた。Clも「僕達が御礼できることってそれくらい・・」とめずらしく対話に加わり筆者に笑顔を見せた後、再び傾眠した。躊躇しつつも『じゃあ、せっかくだから呼ばれよう』と頂いた。妻もお茶菓子を手に取り、自宅の花壇の話し、和らいで来た寒さ、ファッションの話しなどのびのびとした様子で語った。以前Clの失見当識にアルバムにて抵抗していたように、今度は、厳しい告知後の過酷な状況下で、必死に微かな余裕とくつろぎ、人の営みを固持しようとする努力と考えられた。この中で更にClの身体状況、意識障害は悪化を辿り、やがて傾眠による転倒の危険から“車椅子ドライブ”が不可能になった。妻は「私達最強のカップルなの」の始め、妻自身は再婚であること、その折の騒動、結婚当初の生活苦や長女のダウン症、その困難を乗り越えマイホームを手にしたこと、厳しい予後告知を受けた長女を育て上げたことを笑顔で語り、「ね、すごいカップルでしょ。だから、愛がある分、自分が悲しくて寂しいことには耐えられるから、もう苦しまないで、楽に早く逝かせてあげたいの」と涙流し結んだ。以後、状況は更に悪化し、個室でのHD施行、時には中止とする日も生じた。ミオクローヌスもベッドがゆれる程であり、妻とClの体をさする、ベッド、ラインを整える、という対応に終始した。退室毎、「またあなたに会えますように」と妻は結んだ。この状況が続いていた、初春の朝、病棟師長より「今日未明に急変し亡くなられた。奥様と病室の片付けをし、先程お見送りしました。」との電話連絡を受け、約5ヶ月、合計31回の面接は終結した。


終結後

終結から6ヶ月後、病院内にて、受診後の妻に声をかけられた。「随分前にちょっとお顔見たくて神経科行ったけどいなかった。私もちょこちょこ通院しないといけないし、その内会えるだろうな、と思っていた」と、変わらず朗らかな笑顔を見せた。「今、お時間取れる?」と、売店で筆者の分も飲料を購入して「はい。先生とはこれがなくちゃね。」と手渡した。葬儀以降の慌ただしさと悲嘆、その中での地域や友人の支えを語り、「でも、今は元気。娘とゆっくり過ごしたり、趣味のダンスまた始めてもうすぐ発表会なの。あの人はいなくなってしまったけど、苦しんでいられるよりいいの。お金もきちんと残していった。」と結んだ。その後自然と透析医療に話が向き、「今後の患者様と我々の研鑽のために」と依頼された解剖について「今後同じ病気の人に役立てるよう、医者にもっと(SEPについて)勉強してほしい」と受諾したこと、現在は透析スタッフ個人への憤りは無く、むしろ透析医療への葛藤を体験していることが語られた。「先生も看護師さん達もずっと親身だったのは事実だから。CAPDやったから、娘にも色々してやれたし、仕事もできて、家も建ったんだしね。病棟でも娘が来られるようにって、免減で個室にしてくれた。あれ、本当は師長さんすごく大変だったと思うのね。だから先生達を恨むのは逆恨みだと思って。でも、透析っていうもの、医療についてはやっぱり許せないよ。わかって(長期CAPD後のSEPのリスク)さえいれば、パパは死ななかったし、苦しまなかったよ。」

更に「あんなに苦しんで、パパ本当は思った以上に追い詰められてたのよ。」と、“自分に何かあった時に”開けるように言われていたClの引き出しから、SEP発症し手術不能な状況が明らかになった時にしたためたと思われる遺書、欠片も含めて溜め込まれた大量の睡眠薬が見つかったこと、更に死亡退院時、荷物を整理した折りにも、他の処方薬とは別に欠片も含めた睡眠薬が隠されていたことが語られた。「よく、冗談めかして、一家心中しちゃおうか。睡眠薬が一杯あれば苦しまないよ、なんて言ってたのね。やけくその冗談と思ってたけど、本当は誰も知らない所で、ずっと迷ってたんだろうね。」と結び、その後しばし沈んだ面持ちで顔を伏せていた。達観とも諦観とも見えた平素のClの淡々とした口調と、SEP悪化以降の苦痛の表情を思い出し、自身が何に触れられていなかったのか、又、それは果たして触れられなかった事であるのか、筆者の技量によっては、「ずっと迷っていた」苦悩そのものを取り上げることができたのではないか、との悔恨に暮れた。

不意にその場の陰鬱を払うように、「3人で車椅子ドライブしたり、お茶してた時、こう言っちゃ不謹慎かもしれないけど、私楽しかった。ほっとするっていうかね。楽しかったよね?。」と笑顔を向けた。筆者に「共に苦しい時を過ごした」ことを伝えようとするメッセージであるかに思われた。自らが、どのように存在し、何ができるのか、Clとの関わりで無力感を強めていった過程の折々で、妻のポジティブな言動やメッセージに筆者が救われてきたごとき展開が再度再演された。『不謹慎だけど楽しかった。最強のカップル(末期での妻の言葉)のお姿を見られるのは、私自身、人の尊さを学ばさせて頂く大切な時間でした』と応じると、「もっと見せたりしたいものがあるの。プライベートでいつか遊びに来て。」と場を結んだ。

筆者自身、妻のしなやかな逞しさと、「楽しかった」時間を思い出し、ようやく幾許かの清清しさを得た機会であった。










             3章 考察           

一節 CAPDの抱える問題

 CAPD医療の現状と問題

初項にて述べたように、CAPDは透析治療の延命からQOLへという歴史的変遷の中で、まさにQOL志向の中登場した。我が国では1980年に治験が開始され、1984年に製造承認が得られ普及の段階に入った(太田 1993)。

しかし、我が国の全透析患者におけるCAPD患者の比率は諸外国に比べ圧倒的に低い。欧米では腎移植が30~40%、CAPDは10%強を占めているが、我が国では1995年の5,3%をピークに2000年度末で4.3%と減少傾向にすらある。

小川、松下ら(2002)は、成人のCAPD率が増加しない原因について患者サイド、医療機関サイド双方について普及の阻害となる要因があるとし、

患者側の要因として

(1)    透析導入患者の高齢化 理解力、判断力の低下が見られることが 

  多い。理解力、判断力に問題無く、CAPDの希望があっても実際に 

  セルフケアが行われる保証がない

(2)    透析導入の原疾患が腎由来の疾患を糖尿病性腎症が凌駕しており、 

  既にADLが低下しており、セルフケアの点での問題も多い

(3)    広大な国土を持つ他国と異なり、比較的近辺での血液透析が可能 

  な我が国では在宅療法としてのメリットが低い。又、自律的なケア 

  を要するCAPDより、夜間シフトの血液透析サテライトに通う方

  が容易な選択となっている

医療機関側の要因にとして

(1) 常時行われているCAPDの患者のトラブルに即対応できる体制を

  持つ施設が限られており、可能な機関(大学病院、基幹病院、腎不

  全医療に特化した病院)においても経済上、患者の増加に相応した

  スタッフの増員が困難であること、又十分な教育のため在院日数の

  長期化が生じうること

(2) CAPD患者を長期療養型病院では、看護力が限られる中、HD患者

  のように専門的なケアを引き受けるセクションへの依託が困難であ 

  り、大きな負荷を生じること

を挙げている。

福井(2002)は導入後離脱患者の多さに着目し(年度末で4.3%であるが、導入患者自体は9.3%である)、ドロップアウトの原因として

(1)   導入期の患者管理の難しさ、特にnegative selectionによる死亡と 

  除水不全

(2)   カテーテルの出口部、トンネル感染

(3)   腹膜炎

(4)   腹膜機能低下

(5)   SEPの発症

を挙げている。

比較文化的な見地からの見当もなされており、我が国の国民性として、欧米で自己責任、自律性が美徳とされるのと異なり、我が国では「和を重んじる」「甘え(土居 1971)」という相互依存的な傾向を有し、病院に治療を委ねられるHDの方が馴染みやすいとの指摘もある(春木 1993 福西 1993)。

しかし、圧倒的に低率とはいえ、既に歴史を重ね洗練されてきたHDではなく、この新しい治療に期待と希望を持ち、熱心に取り組んで来た医療スタッフ、自ら本治療を選択してきた(negative selectionを除く)患者、家族があって、今日の透析医療の中にCAPDという選択が存在しているのであろう。そこにどのような期待と希望があったのであろうか。

 CAPDをHDと比較した場合の優位性について、一般的には

(1) 在宅透析が容易であり、入院期間、通院回数ともに低いこと

(2) 治療に拘束される時間がはるかに短く、社会生活への支障が少なく

QOLが高いこと

(3) 常時体液を補正することから、循環器系への負荷が低いこと

(6)   食事においてカリウムの制限を要せず、比較的自由な食生活を送れ

ること

(7)   生存率において導入後早期の時点では高いこと

(8)   (かつては)コストが低く、医療経済上のメリットがあること

が挙げられていた(奥田 阿部ら 2002 平沢 2002)

しかし、欧米ではあくまでも腎移植までのつなぎであるCAPDは、腎移植が一般治療にならない我が国の透析療法の主要な目的は延命治療になる。その観点から見た場合、

(1)   生存率について、永続的にCAPDを行うことは不可能であり、又難

治性腹膜炎やSEPの発生により、HDよりはるかに劣るというのが

現状であろうこと。導入後早期の数年はCAPDの方が生存率、QOL

ともに高いとする報告は、双方の導入患者の平均年齢の差異による

部分が大きいであろうこと

(2)   QOLが良好であるのはCAPDが順調に継続されている限りにおいて事実であるが、身体の活動面(スポーツ、肉体労働)に関してはCAPDが劣ること

(3) 医療経済上のメリットについて、今日においては順調に行われてい

る場合でHDと大差なく、腹膜機能の低下が生じた場合には透析液量

の増加から、むしろ高コストであること

との矛盾を生じしめた(平沢)。

ところで、先述した通りCAPD導入率が1995年をピークに減少をたどっているが、この年に何があったか。

厚生科学研究として、SEPのevidence-based study、診断、治療指針が実施されたのが本年である。CAPD導入率の減少、そもそもCAPD医療の存続、発展において、SEPは最大難関として存在しているのではないだろうか。

これは欧米のごとく、腎移植の「繋ぎ」としてでなく、長期継続を免れ得ない我が国ならでは(川口 1996)の問題である。欧米では、もっぱら透析液の質、衛生の問題に関して取り上げられる向きがあるようだが、我が国では、高い自己管理能力、コンプライアンスを有し、自ら積極的にQOLを挙げるべく本治療を選択した患者、家族、それを支えた医療スタッフがこの難関に直面させられているのである。


 CAPD患者の精神、心理的問題

他の慢性疾患、及び血液透析患者同様に、治療が順調な限りにおいても、CAPD患者、家族に精神、心理社会的負荷は当然かかってくる。

川口 家口(1993)は、「ほかの透析療法でも当然あるわけだが、特にCAPDでは、施設で受動的に受ける透析よりも自分自身で自分を管理するということについてすべてに渡ってはるかに大きなストレスがかかってくる」と、治療や療養、自己観察といった「医学的ストレス」、職場での“病人扱い”といった「社会的ストレス」、医療保険のきかない消毒機材、周辺機材などの「経済的ストレス」の3点を挙げている。

 小山内 植松(1998)は患者へのアンケートから、主に「心理・社会面の問題」として「自己管理の負担」「行動範囲の縮小」「就寝時の心配」「神経質になった」「職場、社会の無理解」を挙げている。

阿部(1998)は、患者ではなく家族が精神、心理的問題を生じた症例報告から、家族の負荷とバーンアウトを指摘している。

宮本(1993)はロールシャッハ・テストによる、CAPD導入期と5年以上経過期データをHD患者と比較し、CAPDの経年による心理的変化について、

(1)   導入期と経年時での比較において、導入期は抑制、防衛的な傾向が見られるが、抑制が緩み、表出が増す。統制は低下し情緒的に不安定さが増すこと

(2)   経年時でのHD患者との比較において、意欲や知的エネルギーはあるが、感情、衝動の統制が悪く、周囲にあわせるよりも、型にはまった“我が道をいく”対応が多いこと

(3)   導入期でのHD患者との比較において、抑制、防衛は高いが他者からの反応、評価には敏感であること

 以上から、導入期には抑制、防衛的であるが、次第にこれが緩み、感情が表出できるように変化すること、自分の気持ちは表現しないが“我が道を行く”ごとく、頑固さの反面人の評価に敏感でプライドが高い一面があり、他人に依存するのが苦手で、立ち入られることにも抵抗がある性格特性のある人がCAPDを選択しうる、としている。又、この特性は「期せずしてHD療法でトラブルを起こしがちな人の特性と一致する」との事である。

 春木(1993)も、「強い意志のものと、拘束されるHDよりも、より自由度の高いCAPDを自らの意志で選び、かつこれを確実に実行できる患者が理想とされているが」実際にはHD拒否—HDに対する強い否定的感情が強い患者が多いのが実情であるとし、事実「移植をしたい」「アメリカに行く」といった発言が圧倒的に多く聞かれる、すなわち疾病受容のプロセスが進んでいない場合が多い、と述べている。

加えて、そもそも彼らの治療は「期限つき」であるという厳然たる事実があり、これはSEPが問題となる以前から変わりはない。

福西(1997)はCAPDからHDへの移行について、腎不全という喪失体験に次ぐ「第二の対象喪失」という観点、又CAPDに要求される能力が、そもそも執着気質、メランコリー親和型といった特性に合致するという観点から、深刻な抑うつの生起の可能性を指摘している。


 インフォームド・コンセント(IC:informed consent)の問題

自己管理の重要性もさることながら、「期限つき」であることを免れ得ない以上、更には難治性腹膜炎、SEPという重篤な合併症が存在することからも、導入時での中止に関する十分なICが取り分け問題になろう。

平野(2000)は腹膜硬化症と診断された症例を対象に、主治医に対して中止時のICに関する実体を報告している。

(1)   ICの実施者は84%の施設で主治医のみ、17%の施設で主治医と看

  護師

(2) ICの対象者は患者のみが63%、患者と家族が37%

(3) CAPD中止に関する最初の説明からカテーテル抜去までの期間は1

ヶ月以内が45%、1〜6ヶ月以内が27%、6〜12ヶ月が15%、1

2ヶ月以上が13%

(4)   説明の内容は、除水能低下について80%、腹膜の寿命について69%、

腹膜硬化症について58%、SEP発症の可能性について58%

(5)   患者の同意は、継続希望16%、一旦中断後再開希望28%、将来もCAPD

の希望なし56%

(6)   CAPD中止時期の決定根拠は、除水量不足82%、CAPD継続期間50%、

血液排液18%、腹膜石灰沈着26%、CRP陽性18%、繰り返す腹膜炎

20%、腹膜機能検査42%、その他28%

(7)   CAPD導入期の除水能低下、腹膜硬化症、SEPに関するICは、きちんと説明50%、不安を与えない程度の説明32%、原則として説明しない18%

(8)   腹膜硬化症、SEPの発生によるCAPD導入への影響は、変わらない

9%、継続期間を考慮88%、導入しない3%

(9)   ICにおける腹膜生検の意義は、欠かせない65%、参考になる35%

まず、CAPD導入期において「きちんと説明」が50%に留まっていることに目を引く。「不安を与えない程度の説明」において、何がどの程度差し引かれているのかという疑問もあるが、この状況下では半数でICそのものが成立していないとすら考えられる。又、ICの実施者は概ね主治医のみであるが、透析医療は他職種協働で成立している医療であるという特色が反映されていない。ICの対象者が「患者のみ」である場合も多く、治療において家族の全面的な協力を要している(これが不十分な場合には「問題」とされる)点から片手落ちであり、患者や家族の精神的負荷、決定能力そのものにも悪影響を与えていると思われる。

ICからカテーテル抜去までの時間も、CAPD離脱という第二の喪失体験に対し予期悲嘆とこの間のケアを物理的に奪っている。

松本、中元(2002)らは特にCAPD導入期でのSEPに関するICに関する施設、患者アンケートを行っている。

(1) 施設全国調査より、SEP発症率は平均2.2%、66%の施設でSEPに

  ついて説明、特にSEPの発症歴を持つ施設では91%が説明

(2)   (導入期の説明を必須としている特定施設の)患者調査より、「説

明を受けた」と回答したもの39%、重篤な合併症と理解しているも

の13%

やはり施設側のSEPに関する説明の不十分に目を引くが、特に、説明を必須としている施設での患者の回答とのずれに目を引く。前調査(平野)で指摘された、説明の有無のみならず、その実施者、対象者、内容も含む、説明のあり方に影響される部分も多いものと予測される。又、春木の指摘にあるようにHDへの拒否感が強い患者がCAPDを選択しており、HDを免れうるCAPDへの期待感がリスクというネガティブサイドの理解を希薄にしている可能性もあると思われる。

患者がリスク、ベネフィットともに理解し、その上でCAPDを選ぶ、すなわち真のICを成立させる為には、説明の有無のみならず、そのニュアンスも含めた内容(「不安を与えない程度の説明」は情報の内容ではなく、その語られ方やコミュニケーションのあり方について議論されるべきであろう)や、実施者、対象者の充足、又、離脱患者については第二の喪失体験の衝撃を減じ、この間からの再適応を支えるサポートを行い得るタイミングでなされるべきであろう。

更に、CAPDを選択する患者の心性にも注意を払い、re-ICとでも呼ぶべきコミュニケーションが日常診療内で行われる必要があろう。



 本症例の場合

まず、本症例においては、自営で工場を経営していること、ダウン症の一人娘の養育上の必要から、自ら強く希望しCAPDを選択している。我が国で実施が開始されてからわずか数年後の事であった。以後のコンプライアンス、セルフケア能も高かった。

夫婦関係も相補的であり、妻のサポート力も高かったと想像される(事実、「一緒に家でのケアの工夫、あれこれ考えた」との妻の言もあった)。

幼少時に両親と死別して以降、勤労学生として大学まで終了しており、自立心、自己決定能力も非常に高かったものと思われる。尚、妻に言わせると「真面目で温和、でも頑固」と、宮本の指摘するCAPD選択者のパーソナリティ特性を伺う点もある。

CAPDのメリットを最大限に活かし、「週に半日だけ休み」と言う程に就労し、3階建というマイホームを都内に得ている。一人娘の養育においても家族会や勉強会に熱心に参加、又娘の余命についての厳しい告知もあり「家族の思い出をいっぱい作りたかった」と頻繁に家族旅行もした。当院の特徴であるが、CAPD外来患者間のネットワークが非常に高く、「時にはDr、Nsにもお声かけて食事会をしたり、家族も参加して日帰り旅行によく行った」との事である。CAPD担当Nsから見ても、「非常に活動的で、活き活きと最大限のことをしていた」様子であった。

ICに関しては、リスクについて「まだ実施自体が開始されたばかりであり、何があるかわからない」旨の説明がなされたとの事である。当院の透析室はDr、Nsの協働のレベルが非常に高く、背景も含めた患者の状態の共有がなされている印象を筆者は強く持っている。この点から実施者に関しては、主治医のみならず看護師も参加しているものと想像される。対象者についても夫婦関係や妻の協力的なエピソードからも、患者だけではなく、家族に対してもなされていたと想像される。CAPDの施行が端緒についたばかりである状況を考慮するに、最大限の配慮はなされていたと思われるが、松本、中元らが指摘したように、リスクに関する医療スタッフ側の理解と患者側の理解に大きな差異が生じていた可能性もあろう。

CAPD中止、SEP発症数年前より腹膜炎を繰り返したが、この頃より「表情も乏しく、コミュニケーションを拒むような様子」が見られたとの事である。又、不眠を主訴に神経科へ通院している。折しも我が国でSEPの問題が大きく取り上げられ始めた折りであった。

本症例のSEPは極めて重症であった。他患とも強いネットワークを持ち、自らセカンドオピニオンを求めたり、医学論文を集めたClが手術不能という事態の後、いかに必死に希望を求め、「一々期待して、絶望し」たのか、導入期のSEPに関する説明の欠如から、いかに透析医療への「やりきれない」思いを持ったのか想像に難くない。又、この折りより、Dr、Nsへ「生きていてもしょうがない」といった悲観的絶望的発言が見られており、深刻な抑うつを抱えながらも、医療スタッフの心理的介入については、「かたくなに“大丈夫です”と拒否」し、かかる様子に対し再度神経科への紹介となったが、神経科医師、心理士に対しても淡々とした態度であったとの事である。「立ち入られることに抵抗がある(宮本)」内的状態を語ることの困難さを抱えていたものと思われる。完全IVH管理となり退院したが、ガイダンスにも関わらず再受診されなかったこと、透析室スタッフへの「生きていてもしょうがない」という発言は継続していたことも、これと関連した行動ではないだろうか。


二節 筆者との関わりの過程において

 Clと妻との関わり

筆者は転倒にて受傷から死亡までの期間において関わりをもった。

Clは対面当初、「次の入院は生きて帰れないと覚悟してたのに、コケて入院なんて気がぬけちゃったよ」と語りながらも、「もうあまり生きられない事、いつも思って」いたのであり、後に知ったが、既に訪れた自らの予後のリミットを強く意識していたものと思われる。

その中で、“睡眠薬を減らすサポート”というパスポートの水面下でCl—筆者が暗黙に了解した関係が成立していた。筆者をナラティブの聴者として、自ら選択したCAPD医療への葛藤、更には医療スタッフへの葛藤をClなりに収めてゆくこと、更に、決して症者としてのみではない個人と家族の歴史、「病いの物語りは、患者が体験する重要な物語りではあるが、患者は決して病いだけを生きているのではない(斎藤 2003)」ことを描き出そうとしたのであろう。であればこそ、「見てもらおうと思って持って来てもらった」とアルバムの写真を次々と見せたのではないか。筆者の役割は、ナラティブの聴者として、疾病と治療の歴史を患者の生活史の中に統合する作業に沿うことであった。

症状の急激な悪化以降、「CAPDやるって時には先生達も含めてそれがベストだと思われたし、透析室のスタッフはずっと親身にしてくれた」と、何とか見えて来たClなりの収め方の筋道は一変に崩れた。当初は厳しい症状の中でも、筆者に家族の写真を示し当初のナラティブの紡いだが、圧倒的な苦痛の中、方向は一変した。CAPD医療への憤りと、悲嘆、絶望、痛みのナラティブである。「人間はどんなに医療が進んでも淘汰される」「決着をつけてほしい」「一々期待して絶望しきった」というナラティブが紡ぎ出された。

この頃には、後に妻から聞いた「欠片も含めて溜め込んだ」睡眠薬での自殺を「迷い」続けていたのではないか。『あなたがどのような状況でも伺い続ける』という筆者の言葉が「迷い」の歯止めになり得ていたのかは不明である。むしろ、過酷な「迷い」に気付かずにいた(事実、自殺のリスクの可能性に、筆者は本症例においては不思議な程に不注意であった)時点で、「否」であったように思われる。

かくに未熟な聴者ではあったが、Clは嘔吐しながらも筆者との対話を求めた。会話も不可能な折りには背をさする等の身体介助を受け入れた。筆者の感覚としては“どのような状況にあっても訪問を継続することに持ちこたえる”事であったが、Clは言語、非言語的メッセージにより、変化してゆくナラティブを紡ぎだそうとしていたのではないだろうか。

一方妻は当初は「CAPDの犠牲となった夫」というナラティブの同伴者を求めていたのではないかと思われる。筆者との対話も「全面的に受け入れ耳を傾け、時折軌道を修正、補完する」という聴者、あるいは援助者でなく、Clの痛み、それを見守る苦しさを共有する形態で継続された。

ともにClの苦しみに圧倒され身を切られる思いを抱えながら、自ら希望を語り立て直してゆく。この希望は筆者自身にも大きな希望を与えられるものと体験された。

ターミナル期においては、この同伴者としての色彩が一層濃く現われた(車椅子ドライブなど)が、その後筆者を聴者として、意識障害の生じたClに逐一確認しながら写真を見せ、夫婦の共有する家族の歴史を、更にはお茶の時間を演出して症者の家族としてだけではない、彩りや寛ぎを持ちながら生活してきた個人史のナラティブを紡いだ。

過酷な状況に至った患者の家族としての疾病と治療の歴史に統合する作業にClの後を継ぐかのように妻が取り組んだのではないだろうか。 

終結後、再開した折りに、妻は「先生も看護師長もずっと親身だったのは事実だから。CAPDやったから、娘にも色々してやれたし、仕事もできて、家も建ったんだしね。だから先生達を恨むのは逆恨みだと思って。でも、透析っていうもの、医療についてはやっぱり許せないよ。」と語ったが、身体状況の急激な悪化前にClが紡いだナラティブとの一致からも、更には同病他患の心配を語っていたClの遺体の解剖について「今後同じ病気の人に役立てるよう、医者にもっと(SEPについて)勉強してほしい」と受諾した行動からも、未完のClのナラティブを妻が引き継ぎ、「人生という作品の最終章をどう書き上げるか(柳田)」を、ひとまず収めたのではないかと思われる。次に再開した折り、これがいかに変容し、いかに語られるか、清清しく前向きな力を持つ妻の新たなナラティブの聴者でいたいと思っている。


 透析室との関わり

患者のQOLを考えればこそCAPD医療に積極的に取り組んできた透析医療スタッフにおいて、SEPの発症という事態は「驚きと戸惑い(春木谷 1998)以上のものであっただろう。

良かれと勧め、その生活背景も含めてサポートし、驚くような事態に遭遇して戸惑い、患者、家族には言語、非言語を問わず否定的な感情、時には表立ったaggressioを向けられる事、初期のICの欠落点から罪責感、無力感にさらされ、その中でも最善の策を講じてゆかねばならない透析医療スタッフのメンタルヘルスの問題も、患者、家族へのサポート同様議論される必要があろう。

春木谷は、特に看護師のメンタルヘルスの問題を述べているが、医師には医師の、看護師には看護師の、更には医師と看護師間の葛藤があろう。石崎(1997)は「出口部感染の治療対策が不十分で重篤な腹膜炎を合併させた可能性、除水不良のため処方透析を行わないで安易に高濃度グルコース透析液を用いたこと、至適透析の設定が不十分で患者のQOLを低下させたこと、それらのことが患者の精神的・身体的な“痛み”をもたらした可能性」があると、医師の葛藤を述べ、春木谷は「(看護師の)戸惑いが患者の不安を増強し、患者の不安が我々のメンタルヘルスを疎外する」と看護師の葛藤を述べている。

医師と看護師間の葛藤は、C-Lの実践においては日常的に見られる問題である。本症例、更にSEPの問題においては、医師が進めてきた治療にもたらされたSEPという事態での患者の苦悩、悲嘆、被害的感情、透析医療スタッフへの葛藤やaggressionの直中に、看護師は取り込まれうる点から伺える。透析医療の特色は他職種協働にあるが、実際の透析室における治療の中では、患者との治療も含めた関わりの大半を、看護視が担っている。

医師には言わずとも看護師には表出されること、又医師には見えずとも看護師が見て来た患者の背景が存在し得るのであり、看護師は医師よりも一層患者、家族寄りの視点でSEPの衝撃を体験するだろう。その中において、自らが治療側の人間であるという事態は、数々の葛藤を生じしめるものと思われる。

このような圧倒的なストレス下においては、医師と看護師の、良好な協働や、端的には人間関係事態は阻害されやすいものと思われる。

筆者は透析医療スタッフの協力により、透析患者へのC-Lを行ってきたが、本症例での筆者の身動きの取れない感覚、これまでの症例とは異なる透析室の雰囲気に大きな戸惑いを生じた。「話したいのに触れられない」がごとき強い感覚は、とりもなおさず透析医療スタッフに通有されていた「身動きの取れなさ」であり、「大きな戸惑い」であったのではないだろうか。


 病棟看護スタッフとの関わり

病棟においては、本症例の問題、すなわちSEPというCAPD医療の最大問題が、医療構造内の関係性の問題として反映された。病棟看護スタッフ、病棟スタッフと透析室、病棟スタッフとCl、家族、透析室スタッフとCl、家族という、Clを取り囲む広い治療構造内に、病棟師長や一看護スタッフから報告された、ケアをめぐる「スタッフの摩擦が生じ」、「チーム内の人間関係の問題や、透析室やCl、家族への陰性感情も目立って」きたこと、更に「師長とカウンセラーに甘やかされて、特別にされている」という家族へのaggressionのごとき摩擦が生じた。

このような問題、治療が内包する問題が治療構造の関係性への問題へと反映された問題も、C-L活動においては特別なものではない。しかし、筆者はこの問題を前にして、しかも問題の理解を共有するスタッフが存在するにも関わらず、突破口となる策を講じ得なかった。病棟カルテの看護記録や医師記録への記録において、肯定的評価を(たとえば「Dr、Nsの〜のような対応に、患者様、奥様共に大きな励みを得ているようです」)繰り返し、治療スタッフの自己効力感の向上を図る事が精々であった。

問題が起きている領域が「広すぎる」というのが、当時の筆者の実感であったが、前項にて述べた「身動きの取れなさ」「話したいのに触れられない」感覚が、筆者は言うまでも無く、透析医療スタッフ、病棟スタッフそれぞれに、異なる意味合いを持って生じていたことも大きな要因ではないかと思われる。その「場」に生じていた、圧倒的に強い「禁忌」なるものである。


 治療者の無力感

この「禁忌」に筆者は全く無力であった。

Clとの面接においてしばしば経験した「自分は何者としてここに存在するのか」「自分はClに何ができるのか」といった強い無力感は、医療スタッフにコミットできない無力感に大きく影響されたものであったと思われる。

元来、Clの身体的苦痛を前にした無力感に関しては、C-L活動を行う心理士は親和性を持っていると筆者は考えている。ターミナル等、「医療的に無力」である症例において、我々は「その中においても、その人個人が何を成しえようとするか」を期待し続ける。

そもそも我々は何ら身体的な治療の手段も、公の資格も持たない、医療ヒエラルキーにおける「周縁的な存在(中嶋 2002)」、第三者として存在している。医療における新参者として、何度でも、無駄足であっても、足を運び、時には邪魔者でありながら、活動への理解を得てゆくことは、我々の障壁ではなく業務上の課題であり、スキルとして克服すべき無力感であると筆者は常々考えている。

にも関わらず本症例で筆者は無力感に圧倒される体験を持った。

 先に、本症例の治療構造に生じていた「禁忌」に触れたが、医療合併症のように(あるいは、医療過誤等では一層であろう)、医療スタッフの葛藤が相対的に強いケースにおいては、「周縁的な(中嶋)」第三者として存在している心理士には、期せずして「目撃者」「糾弾者」といった像が投影され得る。個人的な葛藤から投影され付与された役割の修正が困難であるのは、精神医学、臨床心理学的にももっともであるが、更にこの場には禁忌が関与している。これは、生じている事象に対し、リエゾンカンファランスのように、直裁に討議することを困難にする。この為、心理士も含めた各スタッフが、それぞれの葛藤を共有しながら、より一層の協働を目指す機会を損することとなる。

更に、C-Lを担う心理士の役割は、患者、家族との面接のみならず、スタッフ自身の問題や、スタッフ、患者間のあらゆる関係性への介入をも担うことにある。この為、患者、家族と良好な治療関係が成立していたとしても、心理士はC-Lの担い手としての役割を果たせ得ず、第三者としての存在がIdentity Crisisとして体験され、一層の無力感を喚起する。

以上のように、筆者の無力感の体験は、具体的に生じた事象、存在意義に関わる役割遂行の不全といった、様々な系の撚り糸のごとく生じていたものと思われる。

反面、いま一歩の工夫や努力が絶対的に不可能では無かったことは事実である。例えば、「邪魔者」であっても当方からカンファランスに出向き参加を要請する、CAPDやSEPについて主治医に指導を願い(事実筆者は無学であるので)コミュニケーションを持つ機会の一助とする、

この中で医療者のナラティブの聴者となる事は、筆者の職能上の問題として至らなかった点である。

ともあれ、かくに幾多の摩擦を生じた治療構造内においても、Clは「透析医療にも、正直心穏やかでない部分があるのは確か。だけどCAPDやるって時には先生達も含めて、それがベストだと思われたし、透析室のスタッフはずっと親身にしてくれた」というナラティブを、これを引き継いだかのように、妻は「先生も看護師さん達もずっと親身だったのは事実だから。」というナラティブを紡いだ。

ここには、何にも増して、導入以来の各医療スタッフのサポートの歴史と、過酷な状況への熱心で親身な最大限のケアの姿勢を読むことができよう。


三節 CAPD医療の今後と心理職への要請

現在CAPDのあり方は大きな変容を遂げている。SEPの出現により、QOLを志向しての長期使用という点から、CAPDの持つメリットを最大限に治療的に活かすという点へのパラダイムシフトである。

ここで、CAPD firstという概念、高齢者への適応が議論されている。

CAPD firstとは、CAPDの持つ残存腎臓機能の維持という特性を活かし、保存期腎不全患者のHD導入までの橋渡しとして用いる方法(鈴木 2002)である。

高齢者への適応においては、身体的、心理社会的メリットの意義が高いこと(心循環器系への負担の少なさ、尊厳、自立能力を保てる、通院頻度が少なく在宅でも可能)から、「最初に導入を考慮すべき療法である(平松 2002)」との考え方が出て来ている。

いずれの場合においても、十分に配慮されたIC更にはre-IC、患者、家族の適応へのサポートを要し、理解力の点など倫理的側面をも含む問題を内包するが、CAPD医療のみならず、患者の身体、精神・心理的負荷においても、新たな活路を開きうる可能性を持っている。

ともあれ、この中においても、「まさか」と戸惑う事態が起こらない保証はない。

更に、SEPに関しては今だ未解明の点が多く、現在罹患している患者(つまり予防、診断、治療のガイドラインに間に合わなかった患者)以外にも、いかなる特殊ケースが出現しても不思議は無い状況にある。既に、CAPD導入後4ヶ月にて発症した例、小児期のCAPDにより発症した例など報告されている。

CAPD医療は透析医療における先端医療である。先端医療は、常に障壁と課題、犠牲と努力のもと成り立ってきた。筆者はこの度、透析医療における先端医療の障壁の様相を目の当たりにする機会を得たが、医療が存在する以上、本症例で報告したように、患者、家族のみならず医療スタッフも「戸惑い」、葛藤を体験する事態は幾多生じ得よう。

心理職は、今日的にどのような医療が試みられようとしているのか、

そこで何が起こりそうであるのか、もし何か起きた場合に、今、何をなすことが可能であるのかについて、基礎的な医学知識も含め同時代的に視野を広げている必要があろう。その端緒からのコミットが僅かにでも有るのと皆無であるのでは、自ずと活動の可能性は異なってくる。

身近な例を挙げれば、治験の例など実に日常的であり、更には社会学においても議論が進んでいる遺伝子医療の問題がある。我々心理職が、医療の場において活動の可能性を模索、確立してゆく為には、心理臨床の技能、C-L活動に関する技能とともに、治療の今日性に自らコミットしてゆく必要が一層求められるものと考える。

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