高齢の親の病院の付き添いで思うこと

「の」がいっぱいですみません。
今回もタイトルから不穏な匂いがしますが、批判を恐れずに思い切っていきます。

週末、80歳になる母の病院の付き添いで大学病院に行ってきた。

母は5年前に悪性リンパ腫(血液の癌)になり、死ぬんじゃないかと思ったが、現代の最新医療と医師による適切な治療のおかげで無事寛解となった。癌は一般的に、寛解となってから5年間は経過観察が必要となる。3か月に1回の診察と半年に1回のCT診断、5年間その都度私は母に付き添ってきた。今年の5月にやっと終わりだと思い、いつものように2時間待たされて2分の診察が終わると同時に、太宰治に似た佐藤先生から発せられた言葉は、

「また半年後に来て下さい」

え?
ちょっと待って
もう終わりだよね?
5年経ったら終わりなんじゃないの?
ちょっと佐藤先生!

すると母が、

「佐藤先生これからも宜しくお願いします」

は?
ちょっと待ってよ
これ永遠に続くの?
なんなの?

しかしながら、
その思いは一旦封じ込めて、半年後にあたる11月の週末にまた行ってきた。

大学病院の待合室は高齢者でいっぱいだ。
私のように中年の子どもに付き添われている人、老夫婦で労りながら来ている人、1人で杖を付きながらやっとの思いで来ている人、それらの人々を見る度に何とも言えない気持ちになる。

待合室でいつものように2時間近く待たされたが、恐らく診察は2分で終わるだろう。私はその日は意を決していた。「待たされる」という行為は人をイライラさせ、それと同時に何らかのエネルギーをもたらす。

「お母さん、私は今日佐藤先生に言うからね。もう終わりだよ、終わりでいいんだよ」

そしていつものように、2時間待たされて2分の診察が終わり、役所広司似の佐藤先生から発せられた言葉は、

「また半年後に」

ちょっと待ったー
ちょっと待ったちょっと待った
ちょっと待ったー

私はたまらず口を挟んだ。

「先生、もう5年経ちましたよね?もう終わりでいいですよね?これ、永遠に続けるんですか?もう母も高齢なので、今後は別の何かになると思うので、一旦終わらせて貰っていいですか?」

すると佐藤先生は、

「そうですね。終わりでいいと思いますよ。半年後に診てもその時に疾患が見つかる訳じゃありませんし」

え?
意外とあっさりしてる?

「また何かあった時に来て下さい。それまで元気にお過ごしください」

え?
佐藤先生、話わかるじゃん
さすが名医だわ

「色々とありがとうございました。また何かありましたらその時は宜しくお願いします」

と言って、私達は太宰兼役所似の佐藤先生に深々とお辞儀をして診察室を後にした。


今回、付き添いの立場である子どもの私が勝手に決めた事だけど、母は納得してくれて

「やっと終わった。おめでとうございます」

と自分自信に言っていた。恐らく母は私に絶大なる信頼を置いているから、私の判断に間違いないと思ったのだろう。

母はもう80歳で十分生きた
無駄に病院にかかる必要は無い

私のこの意見はすごく冷たいかもしれない。

「老人は死ねと言うのか!いつかお前も老人になるんだぞ!」

と言う、所謂ゼロ百理論、おま老意見もあるかもしれないが、私はそうじゃねんだよと言いたい。

医者は医者の立場から患者の安心安全を考えて、「来てください」と言うし、患者も患者で医者に言われたら行かなければならないと思う。これはこれで間違っていない。けれども、例えば医者の中には80歳の患者でも20歳の患者と同じ事を言う人もいる。申し訳ないけど、何のために言っているのだろうと思うが、医者は医者の立場でしか物は言わないから仕方ない。本人や家族のためではない、目の前の疾患を治すための意見だから、まあそうなるだろうなと理解できる。

だから、少しばかり合理的な判断をする付き添いの人の意見もしていいと思う。
私は母のこれ以上の通院は無意味だと思ったからそれを伝えた。その意図を汲んでくれて、今後何かあればいつでも来てくださいと言ってくれた佐藤先生には敬意を示したい。


きっとこれからは、高齢の親の「その時」はどんどん出てくるだろう。緊急事態も沢山やってくると思う。だから病院への付き添いはその時でいいんじゃないかと思う。

大学病院の待合室は、包帯グルグル巻きで足を引きずっている若い人や、ぐったりして横になっている子ども、杖をついてゆっくり歩く女子高生、うずくまっている中年男性、色んな人が、自分の番をまだかまだかと待っている。



高齢の親の付き添いから見たら、誰に優先順位を付けるべきか、色々考えてしまうのです。


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