『明日、私は誰かのカノジョ』を読んで。毒親には2パターンある
遅ればせながら漫画『明日、私は誰かのカノジョ』を読んだ。
ホス狂(ホスト狂い)の話が有名で、読む前はそのイメージだった。全巻を読了すると、たしかにホストの回はキャラクター一人ひとりがいきいきと魅力的で心情描写も素晴らしく、ひとの幸せと悲しみを強く引き出す題材そのものが刺激的で面白かった。
しかしそれとは別に、この物語を貫くテーマのひとつが「毒親」だ。主人公にあたる「雪」の心の傷を象徴している火傷の跡が、毒親の存在を静かに主張する。
物語の終盤で登場する雪の母は、ひとり親のようで、父親の影はない。回想シーンをつうじて、母親が雪を放置した過去が分かる。食事を用意しなかったため、幼い雪が自分でカップラーメンを作ろうとして失敗したのが、顔に火傷の跡を負った背景だ。
作中のリアルタイムでは、雪は大学生で、同じように親との関係に苦しむ同世代の男子と付き合い始める。しかしその彼氏(名前は「太陽」)の親との関係は雪とは異なっていて、過干渉され過度にコントロールされることに苦しみを抱えている。
雪の親は、雪を「放置」した。太陽の親は、太陽に「過干渉」した。
雪と太陽は映画の感想を語り合って仲を深めるが、次第に太陽の束縛癖と雪の人間不信がぶつかり、別れを選ぶことになる。
太陽の親の過干渉は、雪から見ると「羨ましいくらい」と書かれていて、育つために必要な資源・支援を得られなかった雪の悔しさと無念がにじむ。もちろん太陽も苦しんでいる。就職先の制限や執拗な男女交際への追及といった母親からの過干渉に対して、雪と付き合ってから「反抗できた」ことが、彼の成功体験となる。
基本的に、我が子へ無関心だと「放置」に、関心が強すぎると「過干渉」になる。ただ、「放置」と「過干渉」は同じ親が兼ね備えることもある。子どもに自分の夢を託して自分の代わりに叶えさせたいが、家事をやらず成長に必要な資源を与えない親の場合はそうなる。
子育ては親に対して時間・お金・労力の資源を要求し、見返りは「子どもが可愛い」の一点に尽きる。だから我が子が特に可愛いと思わない親にとっては、可能な限りやりたくない、やらないで済むに越したことはない重荷となる。
子どもが愛しく思えるかどうかは実際に産んで育てるまで分からない。いざ親になってから我が子が可愛いとは思わなかったとき、どのようにして子育てを実施するのか。そのひとつの形態が「放置」で、親の資質によっては「過干渉」として表れたり、放置と過干渉のミックスとなったりするのだろう。