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小説 |Suite 1101 -Chapter 5-

It’s only in innocence you find any kind of magic, any kind of courage.
純真な心だけが、あなたに、魔法や勇気をみつけさせることができるのだ。

Sean Penn

地下鉄を乗り継ぎ、由美子が倶楽部に戻ったのは5時過ぎだった。アンヌが長い尻尾でリズムをとりながら寄ってきて、由美子の脚に身体を擦り寄せた。ベージュの縞猫のアンヌは人懐こく、いつも機嫌が良さそうに見える。一方、白猫のマリーは気位が高く、由美子のことは餌を準備する使用人くらいにしか思っていないのがわかる。機嫌が良さそうな姿を見せることもない。猫を飼ったことのない由美子は、2匹の性格の違いを面白く眺めている。自分から愛想をふりまかずとも大切にされるマリーを羨ましく思いつつも、アンヌの上機嫌さこそが人生を生き抜くのに必要なのではないかと考えたりする。

[倶楽部にもどりました。]

由美子は椿にテキストを送ると、ゲスト用のバスルームをチェックした。ペーパー、鏡、洗面のためのボウル、カラン、全てあるべき姿で整えられていた。それからエントランスに行き、スリッパを取り出して並べた。由美子は腰に手を当てて、エントランスからリビングへ、リビングから書斎へと歩いてみる。何か落ちていないか、直す必要のあるものはないかとチェックのためだ。アンヌは足音を立てず由美子の後ろからついていく。問題のあるところはなさそうだった。由美子はキッチンに行き、ゲストのための飲み物も確認する。それから、ベルガモットの香りのするハンドソープでゆっくりと時間をかけて手を洗った。他に何かできることはないかと考えて、トートバックからノートを取り出した。会員:Sausan Lewis(牡丹さんの友人) と書かれたページを探すと、スツールに座った。

会員:Sausan Lewis(牡丹の友人)
・乳がんサバイバー、骨折しやすい
・ABTのジリアン・マーフィーのファン
  スワンレイクのチケットを頂いた、感謝!
・ウオークアップのアパート住まい
・1人住まい?

と今日知ったことを書き入れる。それから新しいページに

会員:広川

と書いた。カウンターに置いた携帯で時間を確認すると、広川が到着するらしい6時までにはまだ15分時間があった。由美子はスツールから降りると、シンクの上の棚から真っ白なマグカップをとり、冷蔵庫から取り出したガス入りのミネラルウォーターを注いだ。封を切ったばかりのそれは、小さな音を立てて、気泡がはじけている。由美子は顔を近づけて、ささやかな飛沫を楽しんだ。携帯が震えたので、手にとると椿からのテキストが届いていた。

[病院です。スーさんがロール[1]が食べたいとのことなので、買いに行きます。広川さんには由美子さんのことテキストしました。よろしくお願いします。]

初めての会員の訪問を1人で迎えるのは不安だが、骨折しているのに面識のない由美子にまで優しい言葉を送ってくれたスーさんのためなら仕方がないと由美子は思った。

[了解です。いらっしゃったら、お知らせしますね。]

と返信して、もう一度、員:Sausan Lewis(牡丹さんの友人)のページを開き、

・ロールが好き?

と書き足した。


 コンシェルジュからゲストの到着を知らせる電話がかかってきたのは6時半過ぎだった。由美子がエントランスに行くと、白猫のマリーがすらりした姿で入り口に向かって座っていた。
「マリーちゃまもお迎えに来てくれたんだね。ありがとう。」
と由美子が声をかけたが、マリーは何の反応も示さなかった。エレベーターが混み合っているのか、広川が11階まで上がってくるのは、予想よりも時間がかかった。その間にアンヌもエントランスにやってきて、由美子の足に体をこすりつけてから、マリーの斜め後ろに座って、前脚を舐め始めた。
「2人揃ってお迎えなんて、広川さんは特別な会員さんなのねー。」
と言うと、アンヌは動きをとめ、小さな頭を傾げてじっと由美子の方を見た。アンヌの愛らしい仕草に由美子は思わず頬がゆるんだ。玄関のブザーが鳴ると、アンヌは立ち上がったが、マリーは彫刻のように動かなかった。由美子は重いドアを開けて
「お待ちしておりました。」
と言いながら、広川をエントランスに招き入れた。広川は長身でグレイを感じさせる紺色の薄手のスーツに、卵色のネクタイ姿で濃紺の紙袋を下げていた。
「こんばんは。予定よりも遅くなってしまって。由美子さんですね?」
と深い声で尋ねた。
「はい、今月からお世話になっています、佐藤です。」
と由美子は深々と頭を下げた。広川も
「広川です。よろしくお願いします。」
と頭を下げた。それから広川が靴を脱ぎ始めると白猫のマリーが、そっと近づきその前に座りなおして、視線を合わせるよう小さな頭をつんと上げた。髭がピンと張り詰めている。
「マリー、久しぶりだね。元気だったかい?」
と声をかけられたマリーは少し頭を下げてうつむいた
「そうか、そうか、お留守番、ご苦労さん。牡丹さんは、今どこにいるんだろうね。マリーとアンヌがいるのに、困った人だ。」
と言いながら、小さな白い頭を撫でた。マリーは前脚を揃えたまま、じっと頭を撫でられていた。広川は
「ありがとう。」
と言いながらスリッパに履き替えると、
「出張者が来たので。」
手にしていた紺色の紙袋を由美子に渡した。缶入りの日本のクッキーが入っていた。
「お気遣いいただいて、ありがとうございます。」
と由美子がうやうやしくそれを受け取ると、広川は笑って
「丁寧な方が来てくれて、牡丹さんも喜んでいらっしゃるでしょうね。」
と言った。
「そうだと良いのですが。」
と由美子が言うと
「安心なさい、私は牡丹さんの好みはよくわかっていますので。」
と力強く請け合った。
「何か飲み物をご用意したいのですが。」
と由美子が言うと
「ありがとうございます。では、もしあったら日本茶をお願いします。」
「緑茶と玄米茶がございますが。」
と由美子が伝えると
「玄米茶をお願いします。」
と言うとリビングを抜けて、書斎に入っていった。マリーは当然という面持ちで広川について行った。


 アンヌは由美子と一緒にキッチンに戻った。

[広川様がいらしゃいました。お土産にヨックモックを頂きました。]

と椿にテキストを送った。椿からは

[もう少しで病院を出ます。クッキーよかったら食べてください。]

と返信がきた。由美子はガス台にやかんをかけてお湯をわかし始めた。
 

  茶たくを探すのに手間取ったが、熱々の湯で淹れた玄米茶は香ばしい香りをたてている。広川の持ってきてくれたクッキーをつつみのまま添えて出すことにする。由美子がトレイにお茶をのせて、書斎の入り口にたつと広川の足元で横になっていたマリーがさっと、身を起して振り返った。
「失礼します。」
と由美子が言うと、広川は広げていた図録から顔を上げて
「ああ、嬉しいな。ありがとうございます。」
と言った。由美子は緊張しながら、お茶とクッキーをテーブルに置くとそっと書斎から出ようとすると、広川に声をかけられた。
「牡丹さんは今はどこにいらっしゃるのですか?」
由美子は
「椿さんがおっしゃるには、イタリアにいらっしゃるそうです。先週はポルトフィーノ[2]というところにいらして、今週はどこかの島にいらっしゃるかもしれないそうです。」
「島ですか?」
「はい、マルタ島の近くらしいです。」
「マルタ島の。」
というと広川は黙り込んだ。由美子も返す言葉がなく、そのままトレイを手に黙り込んだ。マリーが横になったまま、長い尻尾をふわり、ふわりと動かしている。すると、広川が突然大きな声で笑い出した。
「失礼しました。牡丹さんらしいなと思ったものですから。あいかわらずのお転婆しているんだなぁと思ったらおかしくて。」
「そうなんですね。私はお会いしたことがないものですから。椿さんのお婆さまなんですよね。」と由美子が言うと
「そうですね。でも、椿ちゃんのお母さんの茜さんは養女なので、義理?義理ではないですね、何と言うのだろう?血縁はないんですよ。でも、椿ちゃんは、小さい頃からここに出入りしていたからか、最近は若い頃の椿さんに似てきたように思います。日本語もネイティブレベルだし。オタクなのが、ちょっと心配ですけれど、良い子ですよ。」
と言うと茶碗に手を伸ばした。
「まだ熱いかもしれません。」
由美子の言葉に広川はにっこりすると広げていた本を閉じた。


「椿ちゃんはスーさんの病院に?」
と広川の問いに
「はいそうです。広川さんはスーさんとは面識が?」
と言うと
「ありますよ。牡丹さんの古くからのお友達で、東京にも住んでいたことがあって、日本語、フランス語、ドイツ語がお話になれます。スペイン語も話せるかもしれませんね。」
「凄い方なんですね。」
「そうですね。言葉で苦労したことはないとおっしゃってました。耳がとても良いみたいで。東京にいた時はフランス語を教えていたみたいですよ。」
「羨ましいです。私は全然英語ができなくて。」
と由美子が恥ずかしそうに言うと
「とりあえず、生活できているなら、それで良しとしましょう。」
と笑顔で言った。マリーが広川の脚に手をかけながら、みーと声をあげた。広川は身をかがめてマリーの首の後ろを撫でながら
「マリーもそうだと言ってますよ。なー、マリー?」
と言った。由美子は広川が本を閉じたままなのを確認しつつ
「ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
と広川に尋ねた。広川は
「もちろん、よろこんで。」
と答えた。由美子は思い切って
「先ほど、椿さんが牡丹さんの若い頃に似ているとおっしゃっていましたが、広川さんは、牡丹さんの若い頃をご存知なのですか?」
「ええ、知っていますよ。」
と誇らしそうに答えた。
「和幸くんには、古参の追っかけって言われているくらいなので。私は牡丹さんの生徒なんですよ。」
「牡丹さんは先生をなさっていたのですか?」
と言う由美子の問いに、広川は嬉しそうに笑いながら
「はははは、牡丹さんは先生にはならなかったのですよ。僕が中学3年生の時の教育自習生が牡丹さんだったのです。多分、先生には最初からなるつもりはなかったのではないかな?女性の職業といえば、看護婦さんか、先生くらいしかない時代で、教職は両親にすすめられていたようですよ。」
「そうだったのですね。それは長いお付き合いですね。」
広川は由美子のびっくりした顔に満足した様子で、
「もうその時は映画の撮影は終わっていたのですが、編集中で公開前だったので、普通に教育実習ができたのです。」
と話を続けた
「サークルか何かの映画ですか?」
と言う由美子の問いに
「あれ?由美子さんはご存知なかったですか?牡丹さんは女優さんだったんですよ。」
と当たり前のことのように答えた。
「芸能人ってことですか?」
「そうですね。映画に1本だけ主演して、そのまま引退してしまったので、覚えている人は少ないかもしれませんけど。」
「全然知らなかったです。」
「教育実習に来たときは、学校も先生たちも、牡丹さんが女優さんとしてデビューすることは知らなかったのですが、あんまり綺麗なので、みんなぼーっとしてしまって。初日に教育自習生が全員で朝礼で挨拶したんです。4人とも女子大生で、他の実習生の時は男子が口笛吹いたり、冷やかしたりしていたんですけど、牡丹さんの時は、全校がシーンとなっていました。紺色のスーツに襟のところがリボンになっている白いブラウスを着ていて、他の教育自習生も同じような格好だったと思うのですが、全然違ってましたね。可愛いはよくいると思うのですが、あの頃から牡丹さんは綺麗でしたね。日本の芸能界には珍しいタイプでした。」
「そんな綺麗な実習生が自分のクラスに来たら、嬉しいですよね。」
と由美子は言った。
「もちろん、嬉しいですよ。でも、男子は遠巻きにしていて、女子の方が先生、先生と付きまとっていましたよ。」
「ああ、わかります。思春期の女子は美しいもの敏感です。圧倒的な美しさに対する賞賛を惜しみませんから。」
「由美子さん、なかなか深いことおっしゃいますね。」
と広川がからかうと、由美子は
「そんなことは・・・」
と謙遜した。


「私もすぐにファンになったのですが、教室で話しかけたりはできませんでした。みんなが見てますからね。私は美術部の部長をしていたのですが、美術部なんて、帰宅部の別名みたいなもので、それまでは全然活動していなかったのですよ。顧問も定年前のやる気ないおじいさんの先生で。教育実習生は何かの部活に参加することになっていて、牡丹さんが美術部を希望したんです。顧問に呼び出されて、今週から週2で部活するぞ!って言われて、私も、わかりました!って言ったよね。」
とまた大きな声で笑った。広川は自分の話によく笑うタイプの男らしいと由美子は思った。
「教育実習は3週間なのですけど、その時だけ週2で放課後に活動して、秋の学園祭にも牡丹さんが、美術部の展示を見に来てくれました。その時もまだ映画の公開の前でしたね。部長だったから、教育実習の最後にはみんなの寄せ書きを渡す係にもなったな。」
と楽しそうに話を続ける。
「広川さんにとっては、憧れの人なんですね。」
と由美子が言うと、
「そうですね。男子も女子もみんなが憧れていたと思いますよ。だから、映画が公開されて、教育自習生だった牡丹さんだとわかった時は、大騒ぎになりました。あれは1970年でしたね。由美子さんはまだ生まれてないでしょう?先生たちもサインもらっておけばよかったと言っていましたね。」
「ぎりぎり生まれてませんでしたね。」
と由美子は答えた。
「女性に年齢の話をするなんて失礼しました。セクハラだって言われちゃいますね。」
と広川は頭に手をかけて、うっかりしたというジェスチャーをした。
「とんでもないです。どうぞ、お気になさらず。」
と由美子が笑顔で言うと
「みんなが由美子さんのように寛大だったら良いのに。難しい時代になりましたよ。先日も外部からコンサルを招いてハラスメント講習があったのですが、相手が不快に思うことは全部セクハラになり得ます、と言われて、秘書にも気をつけてください、と言われてしまいました。」
と言うと広川はまた笑った。
「椿ちゃんは、あの頃の牡丹さんと同じくらいの年頃かな。ちょっとした時の表情とか似ていると思うことがあるけれど、今時のお嬢さんだから、幼く感じるね。最近の大学生は昔の高校生くらいに感じることないですか?あの時の牡丹さんは今思い出しても、とても大人っぽく感じる。」
「美人さんって、そう言うものかもしれませんね。」
由美子のあいづちに広川は大きくうなずいた。
「それが15歳の時の出会いです。」
きっと何度も語っているのだろうと由美子は思った。
「由美子さんはその映画を見たダニエルさんからプロポーズされて、せっかくデビューしたばかりの芸能界を引退して、ニューヨークに引っ越ししたのです。映画会社としては、せっかく売り出した新人だったので、かなり引き止められたらしいです。最後はダニエルさんが違約金を払って。」
「違約金を?」
と由美子の声が高くなった。広川は2人しかいないのに、声をひそめて
「そう聞いていますよ。ダニエルさんは牡丹さんにベタ惚れだったのです。」
「お話が凄すぎて、なんと言ったら良いのか。」
広川は目を大きく見開いて、うなずいて見せた。そして、楽しくてたまらないのを、敢えて抑えているような調子で話を続けた。
「牡丹さんはニューヨークへ。僕は日本で大学を卒業して、今の会社に入社したのです。ちょうどバブルが始まって、日本全体の景気が良い時期でした。入社3年でコロンビアのビジネススクール[3]に企業留学させてもらったんです。良い時代でした。もちろん、牡丹さんの連絡先なんて、わからないですよ。ある時、大学の図書館で勉強していたら、日本人の留学生が家族と一緒に入ってきたんです。少し遅れて、もう1人日本人の女性が入ってきて、家族と合流しました。その後から入ってきたのが牡丹さんだったのです。知り合いのお嬢さんが留学していて、その家族に会うために、大学で待ち合わせしたんだそうです。すぐに牡丹さんだとわかりましたよ。でも、牡丹さんが私を覚えていてくれるとは思えなくて。10年経ってしましたからね。でも、このチャンスを逃したら、もう会えないと思ったので、こっそり後をついて行きました。大学を出たところで、車を待たせている可能性もあるので、なんとかキャンパス内で声をかけなければ、と焦りましたよ。そうしたら、図書館のエントランスで家族はまた図書館の中に戻り、牡丹さんが1人でエントランスにあったベンチに座ったんです。私は、いまだ!と思ったのですが、緊張してしまって、近づくことができなかったんです。そうしているうちに家族が戻ってくるのが見えて、やばい!と思って、ようやく、葵中学で美術分部長だった広川です、と言おうとしたら、牡丹さんの方から、広川くん、お久しぶりね、と言ってくれたんです。あの時は嬉しかったなぁ。」
と言うと、玄米茶をごくりと飲んだ。広川の足元に寝そべっていたマリーがさっと立ち上がり、書斎を出ていった。いつもの気まぐれだと思ったところで、エントランスのドアの開く音が聞こえた。椿が帰ってきたようだ。

つづく・・・


[1] ロール
巻き寿司のこと。スパイシーツナロール、カリフォルニアロールなどが一般的。米系スーパーでも販売されている。海苔を内側に巻いた裏巻きも多い。

[2] ポルトフィーノ
イタリアのリグーリア地方にある小さな港町です。海岸に面して並ぶカラフル建物は、東京ディスにシーのモデルにもなっている。小さいながらも高級リゾートでもあり、高級ブティックやレストランもある。

[3] コロンビアのビジネススクール Map 15
1916年に設立されたコロンビア大学の経営大学院

小説 Suite 1101 | New York Map■


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