物書きにとっての魂の殺人
有無を言わせない、人の文章への一方的なダメ出し。
それだけで、人の大事な筆と心を折るには充分だと思う。
先日、とある文学講座に参加した。
市民講座みたいな感じで、単発で格安、それでいて有名な講師の方に教えてもらえる講座だ。
毎回講師が変わるのだが、とても豪華な面々で、本当にこのお値段でいいの!?と驚いてしまう。
あまりにお手頃なので、私のような作家を目指す者だけでなく、読書家の一般市民がサイン目当てにミーハー心で参加することもあるようだ。
そう、参加するスタンスは人それぞれ。
むしろそうでなきゃ不自然。
ところが。
いろいろなスタンスの人がいるはずなのに、運営に参加者の心理的安全性を守る意識がなかった。
何が起きたかというと、冒頭に書いた通り、講師のひとり喋りによる参加者の文章への一方的なダメ出し。
しかもまあ、ほぼ褒めない。
どの作品にだって、光る点はあるはずなのに。
まくし立てるようなその喋り方に、聴いているだけで辛い思いをした。
例えるなら、会社で誰かが怒られていたとする。
自分に直接関係がなくても、横でお説教を聞かされるだけで周囲はしんどい気持ちになるだろう。
文章を提出していない私でこれだから、自分の文章を大勢の前でけちょんけちょんに貶された参加者は、どんな思いをしたことだろう。
背筋が凍る。
こういった講座をやる意義は、市民の中に文化を根づかせることもあると思う。
もしそうであれば、何かしら自分でものを書いているであろう参加者たちの大事な大事な筆を折らぬよう、細心の注意を払うべきではないだろうか。
あるいは、まだ書いていなくても書くことに興味があって参加した人が、「こんなにボロクソ言われるなら書くのやめとこ……」とならないように丁寧に発信すべきではないか。
もしもそんなことが起きてしまったら、文化的に大きな損失だ。
繰り返すが、いろいろなスタンスの人たちが来ているのである。
「プロを目指すためにどんな指摘でも受け入れる!」といった鋼のメンタルの持ち主ばかりではない。
実際に課題文として取り上げられた作品たちはそれなりの枚数になっていて、それぞれの作者の労力と時間をたくさん使って書かれたものだと思う。
それって、命を削るのと同じことだ。
みんな、魂を消耗させながら書いている。
講師と運営にはそのことへのリスペクトがなかったように感じる。
素人だろうとみんな必死で書き上げているのだ。
舐めるなよ。
作品って、自分の分身だし子どもだし命だし魂である。
運営が「あくまで文章への指摘であって人格否定はしてませんよ〜打ち上げで提出者の方にはフォローも入れましたよ〜(笑)」と弁解ポストをしていたが、文章の全否定は物書きにとってほぼ人格否定だ。
それで人の筆を折ることは、魂の殺人だ。
あと、傷ついたのは文章の提出者だけではない。周りで聴いていた参加者の中にも、きっとたくさん傷ついた人がいるはずだ。
だからフォローは「打ち上げ」というクローズドな場ではなく、講義中に全体に対して行うべきなのだ。(笑)っている場合ではない。
実際に私も打ち上げには参加していないし、そこでどんなやりとりが行われたかはわからない。
あの先生の言うことは確かに非常に勉強になる。
鋭い指摘だと思う。
基本的だけど、私が徹底できていないことで、背筋が伸びる思いをした。
でも、それがすべてと思わなくていい。
自分の心を守っていい。
傷ついた気持ちは、ちゃんと大事にしていい。
傷ついたことをちゃんと認めて、自分の心を労ってほしい。
ようやく秋らしくなってきたから、お風呂にゆっくり浸かるでもいい。温かいお茶を飲むでもいい。部屋でゴロゴロしながら好きな小説を読むでもいい。
とにかく、自分の心を丁寧に癒やしてほしい。
人の心は脆いのだから。
大事に、大事にしてほしい。
これは参加者のみなさんにも、自分にも向けて言っている。
あの場にいた人たちが筆を折らぬよう、ただただ祈るばかりだ。
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