今日1日ずっと過去の嫌悪と後悔が頭の中で渦巻いてたので膿出しがてら長文を書き出そうと思う。
高校1年生から3年間を書き出すので本当に長くなると思う。

高校に入学したての遠足で私からKちゃんに声をかけたことが始まりだった。「Kさんが嫌じゃなければ一緒に回ろう、人がいっぱい居た方がきっと楽しいし。」とひとりで回ろうとしていた所に声をかけると嬉しそうにしてくれてた。
遠足が終わる頃には「じゃあ私たち今日から友達だね」と言ってくれたのがとても嬉しかった。

実家は関東にあるらしく、「ずっと転校続きで友達関係が継続したことがあまりないから距離感を間違えてしまうかもしれない」とのことで「じゃあ嫌なことがあったりしたらお互い言い合おうね」という会話をしたことを覚えている。
今思い返すと返事はなかった。
その時は距離感も少し遠めで私の苗字にさん付けをし、時折敬語を交えて話していたので、「友達なんだし下の名前で呼んでよ、私の苗字呼びにくいでしょ」と言うとその日からあやめちゃんあやめちゃんと小突いてくるようになる。
小突くには少し早くないか?と思いながらだったが久々に友達が出来たようで嬉しそうにしてるのを咎めることもないか、いずれこの距離感が普通になるだろうしと思いそのまま過ごすことにした。

夏休みに入る前には、他の子と喋っていると私の髪を後ろから引っ張ったり腕をつねったり、私が話しかけるといきなり頬を打つなどするようになっていた。
その子は普段大人しくしている子だったので私にそういう風に接していることに親友以外は誰も気付かないようだった。
試験の話をしていたりするとやはり肩を叩いては耳を軽く引っ張り「あやめちゃんって馬鹿だよね、文字読めるの?」と笑いながら小声で耳打ちしてくる。
Kちゃんの声は全体的に弱々しかった。
私の家はずっと貧乏で高校に通うのもやっとだったことを知ったKちゃんは「貧乏人、貧乏だと関東行ったことないでしょ?良かったね修学旅行先が関東で。」とか。
他にもいろいろあるが頻繁にあったのはこのくらい。

その度に不快だからそういったコミュニケーションの取り方はやめるよう言うが「あやめちゃんだってあの子(親友)にしてるじゃん」との事。

してない、100歩譲って私がそうしてるようにうつっていたとしてもあなたとは関係値が違う、この子は私が中学の時からずっと部活も一緒で頻繁に遊びに出かけたりしているしきちんとどういったことが不快なのかというラインを定期的に話し合い、お互い弁えた上でじゃれている。
再度言うがそんなことはしていない、断じて。
という旨を伝えるもいまいちピンときていない様子。
「この子ばっかりずるい。私もこの子くらい仲良くなりたくて無理してこうしているのに。」と何故かにやつきながらもじもじして小声で言われる。

確かに最初友達との距離感がわからないと言われたが、友達をやめるというそんな小学生の主張でよく聞くようなことは言っていないし拒否されたことはやめるべきだと、本当に友達だと思っているならそこを受け入れあうべきだ。それに無理しているなら誰も幸せにならないその方法は適切じゃない。
と言うが納得してくれず「なんで自分にそのノリが許されないのかわからない、いじめだ」の一点張り。
だからさっきから関係値が違うと伝えている、あとそのあなたがいうノリとやらも誰であろうと許してない。
でも納得してくれない。

そういった問答がいくつも重なって、ものの半年も経たない間に身体に影響がでるほど疲れてしまった私は秋も終わる頃ようやく離れようと思った。
その間ずっと「友達でしょ」と「教えてくれないと分からない」「許してよ」「あやめちゃんは怒らないでしょ」の板挟み、さすがに限界を迎えたため遅くはあるがもう出来るだけ、極力関わらないでほしい。無視するという訳ではなく適切な距離感をお互い認識するためにも一度離れた方がいいという旨を伝えた。
それでも嫌だ離れない、一方的すぎると毎日のように言われなんだかんだ一緒の空間にいることには変わりはなかった。
夏の頃からずっと胃が痛む。

それから更に数ヶ月後の冬、持久走大会の2日前。
父と妹が身体の不調を訴え時期的にもインフルエンザの可能性があったため隣町の病院に罹ることなり、ついでに私の胃痛も検査しようと家族3人いっぺんに診察室に転がり込んだ。

父と妹は風邪のようでほっとしたのもつかの間、医師から「あやめさんは腹部エコーの結果、胃は大丈夫。綺麗です。でもその代わり左の卵巣に腫瘍がみられます。」と告げられる。
医師側は慣れた事象とはいえ、あまりにもあっさりぶっきらぼうに言われるものだから、父も私も何も言えず「紹介状を書きますので明日絶対にここの病院に行ってください。ものによっては死にますのでね。」と紹介状を貰い病院を後にした。

あと普通にインフルエンザにはかかってた、私が。

そこからはあまり覚えてないが慌ただしくなったと同時に家族間の空気が少しの間冷たくなったように思う。
良性か悪性かは分からないが皆が緊張していた。
我が家は皆、癌家系で早世だ。
でも良性だろうが悪性だろうが体内にもう既に在ることに変わりないし、検査には数週間ほどかかる。

いずれにせよ手術は避けられないらしい、その間に友人達にできるだけ軽く伝えようと思い登校。
「まだ良性かは分からないけど腫瘍があるから手術が必要らしくてあまり遊びにも出れないかもしれない、今の所痛くもないし平気だから気にしなくても大丈夫だけど予定が潰れるといけないから」という旨を伝えると皆心配してくれた。こんなに優しい友人に恵まれてありがたいことだ。
そんな中肩を叩く友人がひとり、Kちゃんだ。
Kちゃんは耳を貸してほしいというふうに私の耳を引っ張ると耳打ちで「いつ死ぬの?」と聞いた。

目を見開いたまま何も言葉が出てこない私を見て少し笑い、続けて「胃癌なんでしょ?死ぬんだよね?いつ?」と畳み掛けられた。笑っていた。
久々に身体の芯が冷え喉がつまり直後泣きそうになる。
なんだか急に、私は生死の不安でいっぱいなのに対し、元気な皆を前にして虚無を振舞っている自分が惨めに思えて制服のスカートをシワになるくらいに力強く握りつぶした。

なんて醜い人なんだろうと思った。
なんでこんないつまでも人の気持ちがわからないと言い訳を並べては被害者の顔をし練習台と言わんばかりに自分を殴りつけてくる相手に、自分からあの時声をかけたからと気を使って笑いかけないといけないんだろうと思った。
自分が当事者じゃないからと他人のつらい状況を嘲りネタのひとつと捉え笑い、きっと私と同じ状況になったら絶対に辛い思いをするのに、そんな熟考せずともわかる簡単なことがなぜこの子には分からないんだろうかと思った。
私は娯楽道具なんかじゃないのに。

自分の“これから”の一切が無いかもしれないやり場のない不安。
もしかすると癌かもしれないと判明してから煙草の量が増え口数の減った母。
私が産まれた直後癌でこの世を去った祖父の写真を見つめ深夜に声を殺して泣く父。
死なないでと私に抱きつきながら眠る妹。

それら全てがこの子にとっては他人事で、自分の人生におけるただのコンテンツで、私の命だって消えていいもので。
汚らしい笑顔とも呼べない笑顔で私の大切に築きあげてきたもの歩んできたもの全てを一蹴された感覚に陥る。
きっとこの子に何を言っても解らないと思い奥歯を音がなるほど噛み締めてから「いやだなぁ、胃癌でも無ければ死なないよ」とやっとのことで笑って返す。
それに「えー死なないの早く死んでよ。」「死なないのかぁ残念だなぁ、あ、冗談だよ。」
滝汗をかいている私に誰一人気付かず「死ねよ」の言葉をいつも通りに混ぜながら談笑を続ける周りの友人たち、動悸が止まらず震える私を他所に教室に入り席に戻れという教師、その全てに理不尽にも無性に腹が立った。

私の人生に温度や重みがあると思っているのは私だけだったようだ。

帰宅後数時間してから、とうとう耐えられなくなり父に打ち明ける。怒りに頬を震わせたあと脱力して担任に電話をかけ、「うちの家は癌家系で早くに皆死んでいる。先週も人が死んだばかりで不安でいっぱいのなかナイーブになっているのでどうかそういったことを言うのは辞めてくれと伝えておいてくれませんか、どうか頼みます。」と伝えてくれた。
あんなに弱々しい父は初めて見た気がする。
それをさせてしまったのは、打ち明けてしまった泣いてしまったたった一人の言葉に耐えられなかった私で、その事実にまた耐えられなくなり昼まで死ぬことが怖かったというのにとっとと消えたくなってしまった。

週が明け、登校するとKちゃんは「傷つけちゃったみたいごめんね」と謝ってきた。
ヘラヘラしながら口元に手を当て、喋る時だけ前屈みになり喋り終わると背を反らせるのは癖なんだろう。皆の前で言うものだからいいよという他なく「次からちゃんと考えてから喋ってね」と言うと口角が上がり、「じゃあ今日からまたいつも通りだね。謝ったし。」と返される。
それはお前が言うことじゃない。
あと許していない。

結果は良性で転移の可能性も死ぬ可能性も無く、奇形腫と呼ばれるものだった。
なんだとほっと胸を撫で下ろす親を見てひどく安心したのを覚えてる。しかし手術はいずれにせよ必要なので経過を見つつ決めていこう、痛くなったら即手術との事。
早く良くなり周りを安心させることが出来るのならばもうなんだって良かった。

まぁ高校一年から高校三年生の春になるまで痛いと言っても放置され続け、持久走大会、修学旅行、文化祭、体育祭等学生のうちに楽しめるイベントをほぼ全て棒に振る結果になるのだがもう過ぎたことだしどうでもいい。
考えたとてもう戻ってこないのだ。
ただ父と病院に伺ったらトントン拍子で手術の日程が決まりものの1週間で手術にこぎつけられたのは納得いってない。私と母が手術はまだかと聞いたら返事を濁して無愛想に帰れだのなんだの言ってたくせに蓋を開けてみればただの男尊女卑だ、やぶ医者め。やっぱり返せ私の青春。

Kちゃんは私の手術成功を手を叩きながら「生きてたの」「死ねばよかったのに」「なんで生きてるの?」と茶化した。悪意は本当に無いようだった。
その間ずっと疲れ離れられず表面上仲良くしてしまった。

手術による痛みも癒えてきた頃、クラスの雰囲気が明らかに少しおかしくなっていた。クラスというよりKちゃん周りか。
私は手術やホルモンバランス崩壊の影響で休みがちだったわけだが知らぬ間にどうやらKちゃんが過度ないじりというなのいじめを受けているようだった。悪意がないのは恐ろしいもので、弄っている側というのはいつだって仲良くしているつもりらしい、まぁそれはKちゃんにも当てはまることだが。

放っておけば良かったと周りの人は言うが面倒くさいことに私は面倒事にすすんで首を突っ込むタイプだった。
多分父の遺伝だが、自分が傷つくよりKちゃんが傷つくのを見る方が心が傷んだ。
いや押し付けがましくて自分を善であることを疑わないような文の書き方だなと思う、でも事実そうだった。
当時も今も自分のした事は善などではなく、自分が嫌だったから、こうした方が自分が嫌な思いをしなくてすむ、振り返った時に情けなく思う方が嫌だからという自己満足かつ自分勝手なものだということは解っていた。
そこからしばらくまた毎日学校に来てはKちゃんと共にいつもより長く過ごす日々が始まった。

Kちゃんがいじられるようになったとはいえ、Kちゃんの私に対する態度は当たり前だがそう変わるものでは無かった。それでも嫌な時には嫌と言ってきたが。
いざ自分がされて嫌だったから態度を改めるとかそういったことは無いらしく、友達との距離感がわからないというのはその実“だから教えて欲しい”とかじゃなく、“だから大目に見て”ということだったらしい。
いつもの調子で小声で暴言(本人曰く冗談)を囁かれてもあまり言葉やリアクションを返さなくなった。
Kちゃんが傷つくのを見るのは嫌だが私だって傷つくのは嫌だ、これ以上極力傷なんか付けたくない。

ある日Kちゃんがお昼時、購買でご飯を買って別棟の空き教室に友達皆で向かっている途中ふと私の制服の袖を掴む。パブロフの犬、もうそれだけで私は不快感を覚えるところまできていた。
無視する訳にもいかず「どうしたの?」と声をかけると「助けて欲しい」とのこと。
一部の人達からのいじめのことだとすぐにわかった。
助けを求めてくれている、もう私しか頼るところがないのだろう。頼ってくれているなら、最後の拠り所としてくれているのなら手を掴まなければいけないとそう思った。

それと同時に酷く腹が立った。
私が嫌だと何年も、いつもいつもいつもいつも分かり易く伝えていることをほんの少しもやめてくれず私に死ねばいいとまで言った口で、親友のことも家族のことも罵った口で私に助けを求めるのかと。
都合がいい時だけ自分は助けてもらえると思っている浅ましさ、気持ち悪くて仕方なかった。
一体誰が誰にほざいているのか、面の皮が分厚すぎる。

いっぱいいっぱいなのかもしれない、寄る辺がずっとなく本当に接し方が分からなかった故に私のことを傷付けていたのかもしれない。もしかするとそういった試すような行動を取る事以外のコミュニケーションが怖いのかもしれない。
私の理解が足りないところがあっただけでこの子だって普通の友人関係を築きたかったのかもしれない。
私には想像できないほどの勇気をだして助けを求めてくれたのかもしれない。

色々なことをいっぺんに考えた、でもそれ以上に自分でもびっくりするくらい目の前で私の袖を掴むか弱い女の子のことが憎く気持ち悪かった。
私もいじめられた経験があるし助けを求めることにどれだけの勇気がいるか大なり小なり知っているつもりだ。
それでも本当にその時はそういった良識がどうでも良くなるくらい嫌で、一瞬、ほんの一瞬聞こえないふりをしてしまった。
「声が小さくて聞こえない、もう一度言ってほしい」とただでさえ高いハードルを更に上げてしまった。

その瞬間Kちゃんは崩れ落ちて泣いてしまった。
はっと我に返る。
「つらい、くるしい。たすけて。」
とはっきり私に告げた。
崩れ落ちたKちゃんを慌てて抱きしめる、なんてことをしてしまったんだろうと思った。

ほんの一瞬とはいえその子にとっては大きな一歩だったに違いない、それを無視するようなことをしてしまった。
私がされて嫌なことを返してしまった。
謝りながら頭の中で後悔と言い訳が綯い交ぜになる。
どれだけ言い訳を捏ねてみても目の前でKちゃんが私にしがみつきながら泣いている。これが全てで答えだ。
私が泣かせた。
限界だったものを溢れさせてしまった。
今まで他人に縋られ泣かれたことは幾度となくあったがそれとは種類が違う、私がしたことは間違いなく加害だ。
Kちゃんが私にしてきたこととKちゃんが私に助けを求めたことを切り離して考えるべきだった。
自責が止まらない、なぜかこの目の前で泣いてるKちゃんを差し置いて泣きそうになっている自分に耐えられず、かと言って私が言っても根本的な解決にはならないことは火を見るより明らかなので、Kちゃんの手を取り一緒に担任に相談しに行くという結果に落ち着いた。

幸い、科が1クラスしかなくクラス替えもない私たちの担任の先生は3年間ずっと変わらずおまけにドがつくほど良い人で問題解決に時間も努力も惜しまない人だった。
私たちが暗い顔で相談しに来ると、暖かい部屋で親身に昼休みいっぱい使って話を聞いてくれた。
そこから先は担任に引き継いだため詳しいことはあまりわからないが、本人たちは仲良くしてるつもりだったがそれが違ったことが分かったらしくいじめはぱったりやんだようだった。
Kちゃんに聞くと「もう話しかけないでと伝えたらそこからもう関わってこない。安心して学校に来れる。」と言っていたので本当に何も無かったようだ。

その後ずっと今の今まで自責の念に駆られ続けているわけだが、親友と担任は私とKちゃんのトラブルを知っていたためか今回の件でも私のことを気にかけてくれた。
担任に至っては「どの面下げて」と少し怒ってもいた。
助けを求めた先が私だったことが嫌だったらしい。
本当に申し訳なく思う、この件での加害者は私も含まれているはずなのに。
Kちゃんは未だに私の後ろをぴったりくっついて歩いていた、当時私と仲良くなった気が強く身長の高い女の子とは上手くいって無さそうだったが本当に私以外に友達と呼べる友達が居ないらしく、コバンザメみたいだなぁと自分の中の汚い部分で考えた。

私はどうやら他人に害を及ぼすことがアレルギーレベルで耐えられない人間だったらしい。
「死ね」と言われ親が泣いたことにも深く傷付いたが、その実それを盾にして助けるべき人の手を一度振り払ってしまった自分の醜さがどうにも受け入れられない。
人に少しでも嫌な思いをさせることが、それによって露呈する自分の嫌な部分。それを目にすることが未だに夢に見るほど嫌だった。
両親とも「痛みが自分のもの以外わからない分他人にはいっとう優しくしなさい。傷つけられることがあっても傷つけちゃいけない。」と幼い頃から教えられて育ってきた。
それらを全部裏切ってしまった気がした。
一時の感情で他人を傷つけてしまった、もしかしたらその傷は消えないものになってしまっているのかもしれない。
罪の意識から死にたくなった。
許されることじゃないが自分が加害した事実から逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。

なんだかんだ卒業までずっと居ることになりフォルダには私がすごく気まづそうに無理やり口角を上げているツーショットが未だに残っている。
Instagramのフォローはずっと返せていない。
同級生や親戚と繋がっていたがアカウントはもう捨てた。

一昨年の夏叔父が死んだ。
胃癌だった。
自宅で亡くなってもう体が板のようになっていた。
「胃癌なんでしょ?死ぬんだよね?いつ?」
と笑いながら言っていたあの子が思い出された。

高校を卒業して6年経つ。
体調が悪い日は嫌な思い出ばかりが想起される。
今日はその日だった、吐いて眠ることにした。
翌日の6時まで眠れなかった。
未だにこんなことで悩んでいる自分がちっぽけで惨めで嫌になる。

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