人間が生きることを肯定したい・19「人を好きになるということ」
『光を知ってはじめて闇を知る如く
人間は他人という光にあたって
はじめて人になる』
吉野朔実著「恋愛的瞬間・1」より
前回の第18号を書いたあと、
自分の中で何かひっかかるものがあった。
「人を愛すること、
人から愛されること、
好きな仕事ができること、
趣味が充実していること・・・、
それらは人生を楽しむための重要な要素であるけれども、
『生きている価値』そのものではないように思います。
でもそれらは『生きる価値』と非常に取り違えやすい。
取り違えても仕方ないほど、人にとって大切なこと」
そう書いたものの、
自分のこの文章にひっかかっていた。
愛する人が愛してくれないから生きて行かれない、
それは違う。そんなことは違うと思う。
今でもそう思っていることは確かだ。
だが、ひっかかる。
人が人にとって「生きる価値」でないのなら、
そんなに重要なものでないのなら何故、
人は人によって救われ、
人によって破滅し、
人によって狂い、
人によって至福を得、
人によって生死をも翻弄させられるのか。
最も激しい感情は何故、
多くの場合、
人との関係性の中で発露するのか。
第16号でも第17号でも第18号でも、
私の胸に渦巻く思いがあった。
「愛してくれる人も、愛している人も、
生きがいも、喜びも、なんにもない人に、
それでも
”生きていていいんだ”
”生きていて欲しい”と言いたい」
このメルマガの原点とも言える思いだ。
第16号で書いた。
「誰からも愛されなくたって、
恨み憎むまなくても大丈夫。
そこから歩き出して、
引出しを開ける旅に出ればいい。
誰からも認められなくたって、
絶望し投げ出さなくても大丈夫。
そこから抜け出して、
引出しを開ける旅に出ればいい。
誰も言ってくれなかったことを、
世界は口々にささやいている。
あなた自身が、
「愛」そのものなのだと。
あなたは、この世界に産み落とされた幸せなのだと。
だから、生きなさい、生きなさい、どうか生きてください、と」
とにかく、
「生きているだけで、いい」ってことを言いたかった。
だから人間というものに惑わされてはいけないと思っていた。
何故なら人は人を否定するから。
人はその圧倒的なパワーで他人を破滅させることができる。
愛さないことや存在を無視することで、
相手に「自分には生きる価値なんてない」と、
簡単に思い込ませることができる。
愛によく似たもので相手を身動きできないほど縛ることもできる。
そして何よりも、人の心は移ろう。
だから、他人の愛を頼りに、
他人の気持ちを探し回っているうちは、
本当の探し物は見つからないと思っていた。
だが、ひっかかる。
それならば何故、
人は人によって、
心の底から沸き上がるような幸福感を得られるのだろう。
その幸福感がニセモノだという気にはなれない。
そんなことを考えながら、
てくてく歩いていた小春日和の午後、
ふと思い当たった。
人だけ区別するからおかしなことになるのだな、と。
水や木や石や犬や草や火や土と、人は同じものだな、と。
それらに真に癒される者があるように、
人によって真に癒される者があって当然だな、とそう思った。
なんで人だけ意固地に区別しようとしていたのか、不思議だった。
おそらく、人は余計とも思える賢しさを持つがゆえに、
人が人という迷宮に絡め取られるのを、
無意識に警告していたのだろう。
人は確かに、
負の言葉や、
理屈や、
負の意志を持つ行動で、
相手に目隠しをすることができる。
目隠しをしあっている人々が余りに多いから、
その関係性に捕らわれることを恐れ、
警告していたのだろう。
でも人は同じものだ。
存在する一切のものと同じものだ。
どんなに脳が発達しようが、
それは変わらない。
美内すずえの「アマテラス」という漫画と、
樹なつみの「八雲立つ」という漫画で、
同じことを描いた場面がある。
曰く、人は「霊止(ひと)」
神とは生命そのもの、
生のエネルギーそのものなので、
人とは動く神社のようなものだと。
宮司が一体の神像の笑みの中に、
刀鍛冶が飛び散る火の粉の中に、
陶芸家が土の象る空間に、
笛吹きが空へ昇っていく笛の音に、
写真家が切り取られた風景に、
神のカケラを見るように、
人は人に神のカケラを見ることができる。
人を好きになるということは、
その人に神様のカケラを見るということだと思う。
一瞬の眼差しや、
ふとした仕草や、
さしのべた手や、
なにげない笑顔、
落ちた涙や、
発した言葉や、
肌のぬくもりや、
胸の奥に感じる鼓動に、
神様のカケラを見る。
自分の魂の故郷を見る。
恋しくて当然だろうと思う。
冒頭に引用したのは「恋愛的瞬間」という漫画のセリフだが、
同じ漫画の中に、こんなセリフがある。
恋のできない女の子が、恋をしている男の子に聞く。
「恋をするってどんな感じ?他人を大好きになるってどうゆうふう?」
男の子は答える。
「”まざりたい”の。そんな感じ。
他の誰とも混ざりたくなんかないもんね俺。
俺は俺。人は人。
何時でも何処でも誰とでも対立していたいの。
ただ彼女だけが、俺を優しい気持ちにさせるんだよ。
俺に優しくすることを、
俺は彼女にだけは許すんだよ」
魂、と呼ばれるようなものが人の本質で、
人とは魂を留めている完成された芸術的な器で、
いずれ器が滅びれば、
中の魂は解放されてひとつの故郷に帰る、
輪廻転生とはそのような考え方だが、
それが正しいと仮定した場合、
もとはひとつであるものが、
またひとつになろうとするのは当然だろうな、と思う。
人が人に惹かれてひとつになりたいと願うのは、
自然なことなんだな、と思う。
人と人との関係性における幸福とは何か。
「ある時点での気持ちがずっと変わらない」ことではない。
口先では何とでも言える「永遠の約束」ではない。
気持ちが「変わらない」というのは自然ではない。
それでもなお、永遠に見えるものがあったとしたら、
それは永遠性を含んだ一瞬の連続なのだ。
途絶えることのない、一瞬のつみかさね。
神様のカケラを一生相手に見続けることなのだ。
=====DEAR読者のみなさま=====
冒頭の引用には、物語の最後に、
付け加えの一文があります。
『・・・しかし希に
光を知らずとも
闇を知る者が在るのだ』
やっぱり人間って把握しきれない、
不思議な生き物です。
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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。