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人間が生きることを肯定したい・30「金色の温かいかたまり」

『世界中の子供達がたっぷり幸せを獲得しても
この世の幸せは少しも減りません』

版画家 名嘉睦稔
「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第四番」
パンフレットより


私には損な癖がある。
その時間が幸福であれば幸福であるほど、
心の奥から不意に「正反対の不幸」が顔を出す、という癖だ。

例えば、
ドライブをしていて、
隣りで運転しているのは大好きな人で、
会話もはずみ、
窓からの風が心地よく、
外の景色は素晴らしくきれいで、
おなかなんかも痛まず体調は快調、
当面の心配事はなにもなく・・・、
そんなほんわかした幸福感漂う空間で、
会話がとぎれた細切れの一瞬、
私は心の中でとんでもない「不幸」を考えているときがある。

「不幸」は私に関係のある内容ではない。
過去に読んだ本や、
昔に見たニュースや、
歴史的な出来事、
その中の衝撃的な場面場面。
悲惨なこと。
残虐なこと。
痛いこと。
理不尽なこと。
その内容を、記憶しているとおり、頭が勝手になぞり出す。

もちろん、そのことを隣りにいる人には悟らせない。
再び会話が始まったり、
他のことに気がそれれば、
「不幸」はたちまち頭から消える。
しかし完全に消え去るわけではなく、
次に頭をもたげる時まで、
心の奥にひっそりと隠れているのだ。

なぜ「正反対の不幸」は顔を出すのだろう。
自分の幸せをしみじみ噛みしめるようなとき、
ある種の「後ろめたさ」がうまれるのだろうか。
「私は今こんなに幸せだけれども、
世の中ではあんなことやこんなことも・・・」という後ろめたさ。

世の中に、
「不幸」に出くわしてしまった人生と、
「不幸」に出くわさずにすんだ人生、
2種類あると仮定した場合、
出くわさずにすんだ組に属している後ろめたさ。

さらにつきつめて考えていくと、
その後ろめたさの中には、
「この先、出くわしてしまった組に入るかもしれない恐怖」
が混じっている。
気が遠くなるくらいの恐怖が。

もちろん「不幸」の定義は個人の価値観によるのだが、
世の中には、
目をおおわんばかりの、
癒す余地も忘れる余地もない、
人格も肉体もズタズタにする「不幸」がある。
私がここでいう「不幸」はそれを指す。

私はそういう「不幸」を「知識」として知っている。
「情報」として知っている。
けれども出くわしたことはない。
出くわしたことはないが、とても恐い。
この先も、出くわしたくない。
もっと言えばそんな出来事を聞きたくもない。

そのためには、
世界中の人がそんな「不幸」に出くわさなければいい。
少なくとも、子どもたちは絶対に出くわしてはならない。
でも世の中に「不幸」は厳存する。
子どもにすら区別なく容赦なく。
だから私のこの願いはキレイゴトだ!

忘れるしかない。
考えないようにしよう。
私にはどうすることもできないんだ・・・。

・・・そうやって普段は抑えている恐怖や憤りが、
自分が幸福なときほど、ふっと顔を出すのだ。
逃避しきれずに。


しかし、「なんか、私、間違っていたかも」と
思わせてくれる映画に出会った。

「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第四番」の名嘉睦稔、
「ホテル・ハイビスカス」の主人公・美恵子、
このふたりが私の中の何かを吹き飛ばした。
たまたまこのふたりに共通していたのは、沖縄だった。

「ホテル・ハイビスカス」は沖縄の子どもたちの、
日常の隣りにある小さな冒険の物語。

主人公の美恵子は、
ハチャメチャなパワーを持つ小学校3年生だ。
本当にハチャメチャなのだ。
その奔放さ、破天荒さ、天真爛漫さ!
生きるエネルギーが画面いっぱいに満ち満ちている。

そして、美恵子が腕白で伸び伸びいられるのは、
温かくおおらかで、ときには厳しい家族と、
至るところに神さまの宿る沖縄の風土が、
みんなして美恵子たち子どもを守り、
育てているからなのだ。

沖縄が抱える社会的背景もさりげなく描かれているのだが、
焦点はそこにない。
それよりも、美恵子たち子どもが見ている世界が、
画面いっぱいに立ち現われてくる。

一番好きなのは、
美恵子がガジュマルの木の上に住む不思議なおじぃと出会うお話。
おじぃの三線(さんしん)に合わせて元気よく歌っているうちに、
美恵子はキジムナーを見る。
キジムナーとは、樹齢数百年の巨樹に宿る精霊で、
子どものような年寄りのような、いたずらな神さま。
子どもたちを見守る沖縄の自然の象徴だ。

美恵子たち子どもにとっては、
そういうものが見えるのは当たり前だし、
目にはなかなか見えなくても、
そういう大きくて不思議なものに守られている感覚というのは、
いつでも肌で感じているのだと思う。
だから、些細なことで怒ったり、不安がったり、寂しくなっても、
最後は大きな安心の場所に帰ってきて、心から笑う。


「地球交響曲(ガイアシンフォニー)第四番」の名嘉睦稔は、
沖縄の風を感じ、
鳥の声を聞き分け、
音楽を奏で、
人々と踊り、
クロトンの葉っぱの色に驚嘆し、
自然の中の神を敬いながら、
こう言う。

『世界中の子供達がたっぷり幸せを獲得しても
この世の幸せは少しも減りません』

『まだいっぱいあるんですよ。
ここはそういうとこなんですよ。
幸せはへりません』

『この世に生まれるって事はすでに
生を受けた時点で祝福されているんですよね』


それは、私がこのコラムで必死で探し求めながら言うのとは違い、
沖縄の風が海に吹くように、
自然にわいてくる「実感」なのだろう。

そして名嘉睦稔の版画は、
人と動物と植物と虫と神が渾然一体となった、
原色の迫力がある。


そうか。そうなんだ。
「不幸」に出くわしてしまった人生と、
「不幸」に出くわさずにすんだ人生、
2種類あるなんて、
それは違う。

私が恐れる「不幸」は、すべて人災なのだ。
癒せないほどの傷を人に与えるのは、
いつだって人なのだ。

「不幸」に出くわさずにすむ人生ばかりになるように、
私は努力しなくちゃいけない。
この世界の構成員のひとりとして。

人間は心の「振れ幅」の大きい生き物だから、
時としてどこまでも残酷になれるけれど、
「そういうもんだ」なんてあきらめちゃいけない。
「不幸」があることを当然としちゃいけない。
そもそも「理想」を捨てちゃおしまいなんだ。

世界はただそこにある。
子どもたちがいくら獲得しても手に余るほどの幸せを
惜しげもなくさし出しながら。


子どもの本の世界に、
赤木かん子さんという人がいる。
その人が「今どきの大人と子どもの本」という著作の中で、
こんなふうに言っていた。
私はすごく共感する。

『私は、人間の子ども時代というのは、
楽しくって幸福であるべきだと思います。

何故かというと、
子どもの時に「あー、楽しかった」
という時間をたくさん過ごした子どもほど、
大きくなった時にタフになるからです。
そういう楽しかった子どもは、基本的に
「生きていることはいいことだ」と思うでしょう。
(中略)

面白かったことというのは、
くっきりとこれがこういうふうに面白かった、
というふうに覚えていることはあまりありません。
でも、お腹のそこに「あの時は面白かった」という
ボンヤリとした、
ポーっとした、
金色の温かいかたまりが残るのです』


美恵子のお腹の底にはきっと、
金色の温かいかたまりが、
たーっくさんつめこまれていることだろう。
それは大人になってキジムナーの見えない世界を
生き抜かなくてはならなくなっても、
お腹の底から美恵子に力を与え続けるだろう。

=====DEAR読者のみなさま=====


宮沢賢治は、
『世界全体が幸せにならない内は自分の幸せはない』と言いました。

初めて聞いたときは、
「ええ~、そうかな? 
ちょっと理想的すぎる・・・」と思いましたし、
今でも、その言葉の本当の意味がわかったとはとても言えません。

ですが、自分の「損な癖」を考えると、
少しその気持ちがわかるような気もします。

私たち大人が、
子どもに対してしなくちゃいけないことって、
いろいろ教育したり、
厳しくしつけたりすることよりも、
子どもが世界から「幸せ」を受け取ることを邪魔しないように、
ただただ見守ることではないかなぁ。

本当の意味で見守るということが、
どんなに大変か・・・。

でもそれができたら、
宮沢賢治の思い描いた世界が、
見えてくるのかもしれません。

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