卒業設計とせんびると私
ようこそ、初めまして。
京都工芸繊維大学で建築設計を学んでいる矢野絢子と申します。
現在は11月末、卒業設計の真っ只中で大奮闘中ですが、思考と設計のプロセスをリアルタイムで記録・発信したい、と思い執筆を始めました。
ここでは、私が卒業設計を通して、都市、特に大阪の船場において、"生活景"というものにどのように向き合っていこうとしているのかを、そのきっかけから、改修の対象に選んだ船場センタービルについて、そして設計で目指したいことを順にお伝えしたいと思います。
大阪から京都に来て、建築の世界に魅了された21歳建築学生の、迷って、彷徨って、もがきながら過ごすであろう、これからの2か月を、どうか温かい目で見守っていただけると幸いです。
Chap.1 いま、卒業設計で考えていること
1.1 都市の生活景について
初めて訪れた街で、どんな人がそこで生活しているのかを想像できたとき、その街の少し先の未来が浮かぶようなことがあります。
景観のなかに生活が含まれているときに、それを生活景と呼んでみます。
誰かの家の庭から植木鉢がはみ出ていたり、お店の変な看板に店主のユーモアが滲み出ていたりといった、生活のシーンが、土地に固有の環境や癖のようなものと結びついて、景観に与える豊かさ、つまり、生活景の豊かさは、その場所で経験する時間や空間を確かな記憶の拠り所とするのだと思います。
大阪や東京の都心では、オフィスビルや高層マンションが増え、生活が景観から切り離されています。
私は、自らが生まれ育った大阪に対して、故郷という言葉を使ったことがありません。18年間を過ごし、間違いなく大阪に育てられたにもかかわらず、その時間のなかで”大阪”という土地固有の環境や癖に慣れ親しんだ感覚がないのです。
京都では、例えば、まだかろうじて残る町家や戸建てが生活を通りに見せていることに加えて、鴨川などの自然的な要素に近い生活があると思うのです。(これは、私が大学から京都に来て、建築と都市について最も明らかで、身をもって学んだことの一つです。)
小学低学年の頃に見た、今でも忘れられない夢があります。
私が住んでいたのは、公園に面したマンションの4階だったのですが、学校からはその公園を通って帰っていました。2つのエリアに分かれた公園を斜めに通って角を曲がると、マンションが正面に見え、自分の家のベランダを見上げながら帰る毎日でした。
ある日、夢の中で、私がいつものようにその角を曲がると、家があるはずのマンションは跡形もなく消え、空虚だけがありました。
小さいながらも私は、自分が日々生活する家がただ空中に浮いていて、土地の固有性と結びついていないことを無意識に悟っていたのだと思います。
今思えば、学校への行き帰りの道で毎日見ていたのは、建てられては壊されていく、記憶の拠り所にするにはあまりにも頼りない街の姿でした。
コンビニが駐車場に変わったかと思うとマンションが建ち、つい最近新しくできたカフェも気が付くと看板が入れ替わっている。よく遊んだ思い出の場所や、友達とだらだら喋りながら帰った道は今でも残っていますが、私が経験した子供時代を象徴するシーンは、曖昧な都市の断片でしかなく、それはその断片が”大阪”にあることを保証するものではありません。
生活が土地固有の環境や癖と切り離された時、そこで過ごす時間や体験はアドレスをもたず、記憶の中で場所や風景と結びつかなくなります。
バーチャルやアドレスフリーの活動が増えている今、見えてきた人の活動と土地との結びつきが生み出す豊かさが、都市の空(くう)に浮いた生活を再び場所と関連づけ、生活景を再編していく必要を示唆しているのだと考えています。
1.2 都市のインフラと生活
高層化によって生活と地面が分断される一方で、都市には高架道路や地下鉄などのインフラが、街区や通りを超えて水平に伸びるネットワークを構成しています。そして、何よりも、インフラを支える構造物は、その規模と社会基盤としての重要度から、存続可能性が極めて高いと言えます。
経済的な論理が支配する街区内の建設に対して、都市構造の枠組みとしてのインフラこそ、豊かな生活景の基盤として都市の景観を変えていく潜在可能性を持っているのかもしれません。
都市にも、かつては土地の固有性と結びついた生活がありました。
大阪の船場では、昭和初期まで長屋や町屋が軒先を揃え、全国から集まった食材や繊維がまちを賑わいで満たしていました。当時東京よりも人口が多く、”大”大阪と呼ばれた時期の大阪の経済・文化は、ここ船場が中心となって醸成されていったのです。
高度経済成長期を中心として急速に進められたインフラの建設は、大阪船場も例に漏れず、都市の成熟と発達に寄与し、高層化を進めました。
一方で、高架道路や地下鉄などのインフラも、それを支える巨大な構造物の寿命とともに、いずれは限界を迎えます。景気が良く、人口減少の心配など誰もしていなかった時代に大量の予算と人材をかけてつくられたインフラも、殆どが半世紀以上の時間に耐えてきました。次の半世紀の間に適切な手入れをしていかなければ、気づいた頃には、使い物にならない超粗大ごみとなって都市を蝕むことは容易に想像がつきます。
”公共の力に頼りきるのではなく、都市に住み、働き、観光にやってくる全ての人が都市のインフラを個人の生活基盤として見ることで、自発的で多様な手入れの在り方と、豊かな生活景をともに作り上げていくことができるのではないか”
この卒業設計では、高架道路というインフラを、構造物としての老朽化に対応しながら、土地と結びついた生活の基盤として再編することを目指します。
1.3 築港深江線と船場センタービル、通称”せんびる”
船場にあって、御堂筋や堺筋の上を東西に横切る高架道路、築港深江線も、かつてそこにあった繊維問屋街の生活景を残すことなく、ただ周りに背比べをするように立っていくオフィスやマンションに見下ろされながら佇んでいます。
船場センタービルは、1975 年の大阪万博に先立ち、1970 年にこの高架道路と一体的に建てられました。
東西の交通網が必要とされていた大阪では、足早で計画・実行された高架道路建設のために立ち退きを余儀なくされた人々が多くいました。船場地域は、特に立ち退きに困難を伴い、繊維問屋街の商人たちに代替案として提示されたのが船場センタービルです。
こうした経緯があるため、1号館から10号館まであるビルの約6割は分譲されており、全体の所有者は500人ほどに上ります。しかし、竣工当時から続く、或いは子の世代が継いで経営している店は2店舗ほどしかありません。また、ネット通販や輸入品の流通により、繊維産業自体が縮退する状況のなかで、倉庫やジムなどの異業種が増え、繊維のまちとしてのビルのアイデンティティは失われつつあります。さらに、ビル内外の環境は完全に切り離されているため、この状況は船場のまちからは見えづらく、閉じた状態で取り残されていく姿を想像してしまいます。
一方で、御堂筋の目まぐるしい変革に比べて、54年前のまま時間が止まったように独特の空間と雰囲気を残したせんびるの良さというのもあると思っています。
周囲にはオフィスビルが建ち、せんびるにも買い物客だけでなくサラリーマンや観光客が行き交います。つまり、今は住んでいる人がいなくとも、せんびるには隠れた生活景がすでにあるということです。しかし、先にも挙げたように、このままでは空き区画や異業種の増加とともに訪れる人も少なくなり、今ある生活景すらも忘れ去られていくことになります。
これら全ての背景やポテンシャル、懸念を踏まえて、これからのせんびるの在り方を考えると、一つのストーリーが浮かんできます。一度は生活景を犠牲にして建設された都市のインフラを、これまでの50年間、これからの50年間を合わせ、100年間かけて船場の人々の生活基盤へと還元していく。このストーリーを、形にしたいと考えています。
1.4 せんびるの50年を考える
"住む"だけでなく、"働く"こと、"観光する"ことも生活であると捉えたときに、今のせんびるに入っている事務所や卸売・小売店舗、飲食店が入れ替わっていくスピードに合わせて、丁寧に行う手入れが必要です。
また、高架道路と一体になった柱や梁の構造補強に加え、設備機器や配管の老朽化に伴うメンテナンスの質を上げるため、また光環境を整えるための減築が必要だと考えています。
これらの複合的な課題を解きほぐしながら、適切な生活環境を構築していくために、50 年先までの段階的な長期計画を提案したいと思っています。
次の投稿は、12月中旬頃になる予定です。
長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました!
*引用元
⑴船場センタービル ウェブサイト
https://www.semba-center.com/history/