ロリコンみたいかなって | 子どもの範疇 第12回
「あなた橋本くんの妹さんなんだ。橋本くん元気?」
「はい、元気に高校に行ってます」
中学のときに比べてだいぶ太りましたけど……と言うのは心の中だけに留めておいた。
「中学を卒業したのが一昨年だから、もう高校二年生か。久しぶりにまた顔見たいなあ。橋本くんなら高校でも大丈夫だよね。正直、うちに通う必要ないんじゃないかと思うほど優秀だったし」
「いえ、兄はこちらでお世話になったとよく言ってました」
それを聞いたあきえさんが愉快そうな笑い声を立てたので、翠子の顔が熱くなった。大人にあわせた受け答えをすると、どうしてもしっくりいかないようだった。
「これさ、恋愛マンガ?」
ふたたび手元のマンガに目を向けてあきえさんが言った。こずちゃんの作品だったので、そうです、と翠子が答える。
「でもおりっぺはギャグマンガで、南さんはファンタジーです」
へー、バラエティに富んでるんだね、とあきえさんはまた感心したように言う。あきえさんは割とおしゃべり好きなようで、大人にしては話しやすい人だと翠子は思った。塾の先生をしているからだろうか、子どもに対しても自然でかまえたところがないから、こちらも緊張せずに楽にしゃべることができる。中学生になったら自分もこの塾に入ろうかな、と少し考えた。
「最近のマンガって何が流行ってるの」
「えーと、雑誌によってちがうけど、最近だったらママレード・ボーイとかセーラームーンとかミラクル☆ガールズとか。あと少女マンガじゃないけど少年アシベもゴマちゃんがかわいいから好きな子多いです。私が好きなのはときめきトゥナイトですけど……」
勢い込んで答えてしまってから、また恥ずかしくなった。
「ときめきトゥナイトってまだやってるんだ。ゴマちゃんとセーラームーンは名前だけ生徒から聞いたことあるなあ」
「あの……次のマンガで考えてるのがあるんですけど」
「うん」
「大学生と小学生の恋愛の話ってどうかなって」
気がついたら、翠子の口が勝手に動いていた。頭で思ったことが薄暗がりにそのまま溶け出してしまったようだった。相手は初対面の大人なのに自分は何を言っているんだとあせったが、もう遅い。あきえさんは少し驚いたような顔をした。
「それはちょっと、年が離れすぎてない?」
「でも例えば……九歳とか十歳くらいの歳の差で結婚してる人もいますよね」
「まあそれは大人同士だから……大学生と小学生って聞くと、その、そういうふうに小学生を相手にする大学生のほうが何と言ったらいいか……」
難しい表情で言い淀んでいるあきえさんに「ロリコン」と翠子がつぶやくと、なんだ知ってるのかという顔になった。
「そう、ロリコンみたいかなって」
「でも、ロリコンって変態のことですよね。その、かっこよくていい人だったら変態にはならないかなって思ったんですけど……あと、その子がまだ小学生でもほかとは違う特別な子だったらどうかなって……」
「特別ねえ……うーん。私はもうおばさんだから、かっこいい大学生とか、特別な小学生とか、よくわからなくて……なんかそういうのって、かっこよさを餌に大人が子どもの特別につけ込むみたいな感じがするような……」
特別につけ込む、という言葉の意味が翠子にはよく理解できなかった。そこであきえさんはふと立ち止まったような顔をして、「あーごめん、マンガの話なのにね。マンガならそういうのも自由だね」とばつが悪そうに続けた。
かたん、と音がしたので振り返ると、トイレのドアが閉まる音だった。水色のチェックの服が中に入っていくのが一瞬だけ見えた。南さんだった。
しまった、と翠子は思う。いまの話を聞かれていただろうか。どうしよう。そのままコピー機にごつんと頭を打ちつけたくなったが、あきえさんがいるのでぐっとこらえた。
「私って大人げないかな」
「え?」
「いやね、塾のセンセイなのに、生徒と雑談してるとつい同じ土俵に降りちゃうというか、大人なのを忘れてしゃべってしまうというか……いまのマンガの話だって……」
「いいと思います」と翠子はうっかり口にしていた。大人にそんな口の利き方をしてまずかったか、と思ったけれど、子どもにそんなことを打ち明ける大人だからだろうか、あきえさんはとくに意に介した様子もなく、「ま、それならいいんだけど」とコピーされたマンガにふたたび目を落としていた。
いつの間にかトイレから出てきた南さんが後ろにいて、一緒にコピーをのぞきこんでいた。翠子は動揺して「すごい、ちゃんと出てるね」と言った南さんの顔から何かを読み取ろうとしたけれども、それはただ感心しているだけの表情に見えた。さっきの話は聞かれていなかったと胸をなで下ろす寸前のところで、南さんのことだからわからないと考えた。
南さんと二人で紙の束を抱えて部屋に戻ると、退屈してきたのかあっちむいてほいをやっていたこずちゃんとおりっぺがうれしそうに立ち上がった。束をぱらぱらとめくって、本物みたい、本物みたい、と原画ではなくコピー紙に向かって言う。みな同じようにコピーのほうが本物だと感じるらしかった。
お礼を言って、メンバーはあきえさんの家をあとにした。
「安くコピーを使わせてもらって申し訳なかったね」
帰り道でこずちゃんが言うと、おりっぺが傘をくるくる回しながら答えた。
「いいんだよう。未来のお客さんになるかもしれないから小学生にはサービスだよ」
もともとはおりっぺのおばあさん、すなわちあきえさんのお母さんが娘たちを一人で育てながら塾をやっていたという。そのお母さんが病気で突然に亡くなったとき、あきえさんは大学四年生だった。姉は結婚で家を出ていて、おりっぺを妊娠中だった。塾を畳もうかどうかと迷った末、高校受験を控えた塾生たちを放りだすわけにはいかないと、就職活動を辞めたあきえさんが塾を引き継いでいまに至るという。
「私も将来は結婚しないで一人暮らしして、あきえちゃんから引き継いだ塾やりながらマンガ描こうかな」
おりっぺの言うことに、それちょっといいなと翠子は思った。しかし中学生相手に勉強を、たとえば算数ではなくて数学といわれるものを教えるなんて、まるで想像のつかないことだった。
マンガ雑誌の中身はすべてコピーできたので、あとは表紙だった。あきえさんのところのコピー機はモノクロ印刷しかできず、表紙だけはカラーにしたいということで、こずちゃんとおりっぺと南さんの三人からはカラーのイラストを受け取っていた。これを翠子が家で切り張りして一枚の紙にレイアウトした上で題字をつけて表紙にし、本屋兼文具屋にあるカラーコピー機でコピーするという手はずになった。
自分の家は別方向になるので、道の途中でみんなと別れて一人になった。そこから少し歩いたところで学校から帰ってきた兄と出くわした。
「おスイじゃない」
見ると兄は傘を差していなかった。それでもう雨が止んでいることに気がついて、翠子も自分の傘を閉じた。
「お兄ちゃん、今日は早いね」
「そうか? いつもよりちょっと早いかもだけど、翠子が遅めなんじゃないの。不良になった?」
たしかに外はまだそれほど暗くはなっていなかったが、街灯がぽつぽつと点りはじめていた。今日は母がパートで帰りが遅いからよかったが、そうでなかったらお小言をくらうかどうか、という微妙な時間帯だった。
「不良じゃないよ。お兄ちゃんが通ってた塾に行ってたの」
「え、尾辻塾?」
兄が目を丸くした。翠子は尾辻塾の先生が自分の友達のおばさんで、今日はマンガ雑誌をつくるのにコピー機を使わせてもらったのだと説明した。
「はー、そうなのか。先生は元気にしてた?」
「うん。あきえさんがお兄ちゃんのこと優秀だったって言ってたよ」
それに対して、はーん、とも、ほーん、ともつかない気の抜けた声を出した兄だった。県内でも有数の進学校というものに通っているせいか、優秀という言葉にこれといった感動がないぜいたくな人間だった。
「また顔見たいって言ってたよ」
「こんなに太っちゃったら、もう誰だかわかんないだろ」
そう鼻で笑って兄がそっぽを向いた。兄が自分の体型のことに触れるのははじめてだったので翠子は少し意外に感じた。
中学生の頃、兄はとても痩せていたのだった。陸上部でハードルをやっていた。毎朝早く家を出て、土日も練習ばかりしていた。
兄は高校に上がってからも陸上部に入ったが、そちらは三ヶ月もしないうちにやめてしまった。そのとき母には「向いてないのがわかった」と言ったらしい。もう自分には勉強しか取り柄がないから、と冗談なのか嫌味なのかよくわからないことを言って、本当に勉強ばかりするようになって、高校二年生というまだ早い時期に大学入試のための塾に通っている。
陸上をやめてから、兄はみるみる太ってしまった。鋭かった顎のラインはふっくらと肉に埋もれ、せり出したお腹のせいで制服のズボンを買い替えなければならなくなったと母が文句を言っていた。
マンガを描かなくなったことを筆を折ると表現した兄だったけれど、陸上をやめるのはトレパンを脱ぐとでも言うのだろうか。ただ飄々として、打ち込んでいた陸上をやめたことにも、自分の体型が変わったことにも頓着しない兄の様子に、高校生というのはこういうものなのだろうかと翠子は受け止めていたけれど、本当のところ、心の奥で本人がどう思っているのかはわからなかった。
「あきえさん、先生、いまもまだ独身だって」
家に着く直前、何の気なしに翠子が言うと、兄は「そんなこと別に聞いてないっつーの」と普段聞かないような妙な口調になった。
(つづく)
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