少年ジャンプには付録がない | 子どもの範疇 第6回
ほかの雑誌も見てみたいと思って、翠子は兄の部屋のドアを叩いたのだった。
「なに?」という返事とともにドアが開いて、兄の顔が出てくる。また少し丸みを帯びてふくよかになった感じがする。
「どうしたのこんな夜分にめずらしい」
夜分、といってもまだ九時前だったが、そもそも兄の部屋を訪ねるのがあまりないことだった。なんとなく遠慮して部屋には入らず廊下から、お兄ちゃんの持ってるマンガ雑誌をなんでもいいから少しの間貸してほしい、と頼み込む。兄はちょっとあわててみせた。
「うーん、小学生向けじゃないマンガも載ってそうだからなあ……」
そう言いながら部屋の中に引っ込んで、奥でごそごそしている。「これならいいよ」と渡してくれたのが、『週刊少年ジャンプ』だった。「幽☆遊☆白書」が表紙になっている。鞍馬がかっこいいっておりっぺが言ってたなあ……と思いながら、その場でぱらぱらと開くと、ページが全体的に黒々としていて圧倒される。少女マンガだとスクリーントーンでさっぱりと処理されているような部分が、少年マンガの場合はスミでベタ塗りにされているらしかった。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん」
「ジャンプはさ、りぼんみたいに付録ってついてないよね」
「あー、そうだね」
「なんでだろう」
「うーん、男子はボール紙を切り取ったり折ったり、そういう細かいことはめんどくさいんじゃないの。俺もそうだもの」
兄は自分のことを僕と言ったり俺と言ったりする。翠子の前では僕のことが多かったが、このときは俺だった。
「そのまま使えるレターセットとかもあるよ」
「男はレターやらないし」
翠子は兄の部屋をそれとなくのぞきこむ。机の横にマガジンやスピリッツといったジャンプ以外のマンガ雑誌も何冊か積んであった。
「男子のマンガは女の人が表紙だったりするよね。それが付録の代わりなのかなあ……」
翠子の視線の行く先に気がついた兄は「あ……」とつぶやく。それから「もう九時でしょ。小学生は寝なさーい」と母の口調で言った。お父さんそっくりの顔でお母さんの真似……と思いながら、翠子はジャンプをかかえて素直に自分の部屋に戻った。
翌朝は寝たんだか寝てないんだかわからない感じで、頭がぼんやりとしていた。布団の中に入って、少しだけとジャンプをめくったら、おもしろくてつい読みふけってしまった。しかし独特の筆圧の強さというか、少女マンガにはないクセに酔ったようになって、いつ寝ついたのか自分でもわからないうちに黒々としたインキの匂いのする夢を見ていた。起こしにきた母に枕元のジャンプを発見されて、小学生のくせに夜更かしと怒られた。
結局、中身のマンガに夢中になってしまって雑誌の研究にはならなかった……と思いながら、休み時間に家庭科室に向かっていた。今日の授業はボタンつけだという。いつも一緒のこずちゃんは図書室に寄っていくということで、先にひとりで歩いていた。
廊下の向こう側から歩いてくる南さんと教育実習生の青木先生の姿を見つけたとき、翠子はとっさに姿を隠したくなった。マンションに行ってから三日ほど経っていたが、南さんとはそれから話していなかった。顔を合わせたらマンガの返事が出てくるかもしれない。もし断られたらと考えるとおそろしかった。
南さんはプリントの束を抱えて、翠子には気づかずに青木先生と楽しそうに話している。授業の手伝いだろうか。翠子は上履きのつま先あたりに視線を固定したまま気配を消して、二人の横を通り過ぎようとした。
「あ、橋本さん」
南さんから声を掛けられて、翠子ははじかれるように振り返った。プリントを抱えたまま近寄ってきた南さんが晴れ晴れとした顔で言った。
「あの話だけどね、私やっぱりやってみたいなって思って……」
「本当!?」
「うん。あれから考えたんだけど、やってみたい気持ちが強くなって」
南さんがマンガを描いてくれる! 翠子はその場で南さんの手を取りそうになる。そのとき少し離れたところにいる青木先生と目が合った。怒られる、と思った。先生の手伝いの最中なのに、生徒同士でしゃべったりして……。
ところが、青木先生はただ見ているだけだった。目の焦点はたしかに翠子にあてているのに、そこに何の感情もこもっておらず、通りすがりの子どもを景色のように眺めている顔だった。これが学校の外だったら、知らない大人が子どもに向けるごくありふれた視線だ。
また後でね、と言い残して、南さんは「すいません」と青木先生のところに戻っていった。青木先生の顔に笑みが戻る。「ほかのクラスの友達?」という声と、「はい」という南さんの返事が小さく聞こえた。あ、私たち友達なんだ、と翠子はまたうれしくなる。
一方でさっきの青木先生の表情が指先にできたささくれのように気になった。あの瞬間、自分のいる場所が小学校ではないような感じがした。先生の卵って、あんな感じが普通なんだろうか。
家庭科の授業が始まってもその奇妙な印象は消えなかった。翠子は玉結びに失敗して、針と糸が何度も布地を通り抜けてしまった。
(つづく)
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