倫理的民主主義と共感力
ある著名なドイツの哲学者がこれからは倫理的民主主義の時代だと発言していて、そのインタビューの中で彼が、”貧困層の人々をみて、自分が幸運な時代と環境に生まれて来たことに感謝する気持ちを大切にしなくてはいけない。彼らを助け、そして彼らに助けられ、そうやってお互いがより良い生活ができるように助け合わなくては” と発言していた。
そこで、ある人と先日話していて引っかかったことを思い出した。
私は親子3代が一緒に暮らす大家族で長女として生まれたせいか、親の関心と干渉の元に育ち、それが窮屈に感じられて悩んだことが多かった。でも逆に、複雑な生い立ちで親にあまり干渉されずに育ったその人に、私は親の関心を受けて育ったことに感謝するべきだ、と諭すような論調で言われた。勿論、両親から存分な愛情と安全で不自由ない環境を与えてもらったことに感謝の念を忘れてはいけない。だからといって葛藤なく育った訳ではない。そしてその葛藤があったからこそ乗り越えようとした結果今の私の暮らしがある、だから勿論全てに感謝している、、。
と、堂々巡りになってうまく反論する言葉が続けられずに飲み込んだままでなんだか居心地悪かった。この哲学者のインタビューを見て気づいた。”私達いわゆる先進国に生まれた人間は、貧困層にいる人々を助けるのと同時に、彼らから学び助けてもらうことが同様にある” ということ。相手の身になって、は私たち日本人の得意なこと。貧困層でお腹をすかせて風雨防げないような環境にいる人たちの身になって考えること。あるいは逆に、自分が貧困層に生まれたと想定して、先進国に生まれて暮らしに不自由はないが、言いようのない焦燥感や孤独感にさいなまされている人の身になって考えること。両方、同じくらい尊い愛ある思考だと思うのです。どちらの方が恵まれているかという議論には意味がないし尺度も存在しようがない。お互いが相手の身になって、表面上では見えにくい部分までをも思いやる。そこにはエゴや各々のトラウマが絡んでいるので簡単ではないけれど、それを乗り越えられた時、私たちは共に発展できるのではないのかな。倫理的民主主義は倫理的共感力が試されるのでは。
ここまで書いて、目をあげると広がる海の青い水平線。書かせてくれてありがとう。読んでくださってありがとう。