SNSを見ているときの自分の気持ち
ネットの私と生身の私をめぐる関係
前の記事で、noteのアカウントを何度も作り直すことについて書いたんだけど、noteに限らず「ネット上の私」や「ネットを使う私」を現実の生身の自私の中がどうやって対処していくかについては、日々試行錯誤している。私はネットが好きだから上手に付き合っていきたいと思っているから。
SNSを見ている時の自分の気持ちを観察してみる
とりわけSNSとの関わり合い方は身近な話題だと思うんだけど、私がここ数年SNSを使う時に、自分の心身を健全に保つために気を付けているのは、自分の気持ちを観察することだ。シンプルに2択。感情の針が良い気分と悪い気分のどちらに傾いているか。
例えばインスタグラムを見てる時。流れてくるストーリーズや投稿を見て反応する自分の心を観察する。少しでも嫌な気分になったら、見るのを辞めるかミュートにするかフォローを外すようにしている。
嫌だったら見なければいい
嫌だったら見なければ良い。少しでも悪い気分になるなら見るのをやめたらいい。シンプルなことだけど、これが出来ない時期が結構長かった。というか自分の感情の針が負に傾いてるのに気づいてなかった。なんかムカつくなと思いながら流れてくるままに、見続けてだんだんと気付かぬうちに心が蝕まれていた。
流れてくるものを流れてくるまま飲み込んでたらそりゃパンクするし腹も下すし嫌いにもなる。だって、自分も含めみんな自分のタイミングで好き勝手に発信しているのだから。見る人のことなんて考えていないわけで。だからこそ見る側がだって取捨選択しないと溺れてしまうと思う。友達だろうが、血縁者だろうが、仕事の関係者だろうが見たくないものは見なくていい。
無論私の投稿だって見たくなければ見なくていい。例えば私の友達の中にも私のインスタの投稿に興味がない人だっているだろう。生身で友達であることとインスタのフォローが一致する必要なんてどこにもない。私がインスタにあげる興味あるものや心動かされたものが全く興味の埒外な人もいるだろう。そんなの当たり前の話なのに、いつの頃からごちゃ混ぜになっているように思う。フォローされたらフォローバックしなきゃなんて論外だ。
自覚のない病み
SNSの波に飲み込まれて、病んでいる人は、私の周りでもちょくちょく見かける。側から見ると病んでいるんだけど、本人には自覚がないようだ。なんだかんだと快く思っていないのに見続けている。そしてまるで見たくないものを見せられ続けているかのように感じている。SNSなんて使う使わない、見る見ないの決定権は自分にある。でもいつの間にかそれを忘れてしまう。流れてくるものを見続けるうちに麻痺していって、自分がなぜそれを使ってるのか、どんな気分になるのか考えることさえなくなるのに、ネガティブな感情はつもり重なっていく。
でもちょっと立ち止まったら、きっと気づくはず。なんで私わざわざ自分で嫌な気分になりに行ってるの?って。
もったいないじゃん
何よりもったいないではないか。その投稿を見なければ気持ちよく寝れたのに、アラームをかけるついでにとチェックしてしまったインスタでちょっと嫌な気持ちになる。なんだそれ?って思う。
生きていく中で、楽しくなくても向き合わないといけないことはあるかもしれないが、その理屈をSNSに持ち込まなくてもいい。もちろん持ち込みたいなら持ち込んでもいいけど。その選択肢が自分にあることを忘れないようにしたい。