琉球の風水について


沖縄県名護市許田「祈りの森、風」にある風水展開図

 風水の始まりは中国の紀元前10世紀以前の時代の卜宅(ぼくたく)の「都を定める。住まいを決める。墓地を定める」が発祥とされています。また中国の王朝、晋の時代(または唐の時代ともされている)の『葬書』によると『気は風に乗ればすなわち散り、水に界せられば則ち止る。古人はこれを聚めて散らせしめず、これを行かせて止るを有らしむ。故にこれを風水と謂う』
 これを風水の語源であるという説があります。(宋から明代に風水理論は完成します)このように太古の中国に始まった思想で、町、住宅、墓などの位置の吉凶を占い決定するために用いられてきました。
 さて日本における風水はどうでしょうか。
 風水思想は推古天皇時代に中国から伝わってきたと言われています。宇佐八幡の神官でもあった和気清麻呂が長岡京から京都に遷都する神託を受けたこと風水で最も良い地相と言われる「四神相応」(東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地)にあっていたことで京都に遷都する事が決まります。
 東は比叡山(延暦寺)から大文字山へ、西へは京都市最高峰といわれる霊山、愛宕山です。和気清麻呂が愛宕山に「愛宕山白雲寺(あたごさんはくうんじ)」を創建させ、神仏習合の聖地としての地位が確立し「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と言われるほど民間信仰として奉った霊山です。北方の舟岡山を玄武と見立て、東には青龍の鴨川の流れ、西には白虎として山陰道が走っていました。南には朱雀として巨椋池(諏訪湖とほぼ同じ大きさの湖)が存在しました。このように都の繁栄、安泰、国を統治する上で風水は特異なものとして、ここから陰陽道が発展します。安倍晴明で有名な陰陽道は風水思想に霊的(悪霊、神霊)などの障害を取り除く目的を加え家相・易経・星の運行・密教秘術などを総合した学問です。陰陽道は宮中において吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで、街づくりに大きな役割を担っていました。そして風水思想の「四神相応」にあった京都に都を移し約400年を経て、鎌倉に移りましたが明治維新まで天皇のお住まいであった京都御所があるのです。
 では江戸城はどうでしょうか。家康が首都をどこにおくか悩んだ時、僧侶天海に助言を受け風水思想の「四神相応」にあう東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾である江戸に決定しました。(実際富士山は真北ではありませんが、北に見立てれば「四神相応」かなうとして北を「福慈神(ふじのかみ)」と名付けられた神霊、富士山とした)そして江戸城の鬼門である日光東照宮に守護神として東照権現を祀りました。
 このように日本の歴史を見ても風水思想は重要な役割を果たしてきました。
 さて私が住んでいる沖縄はどうなのでしょうか。
 ここからは琉球の風水思想について勉強していきましょう。

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