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あるやり取りと言葉についての覚書(今日時点の所感)
「あなたは言葉をなんのために使うの」
ということを定期的に問われる。
称賛の時も。非難の声も。
時折ぽつぽつそれなりにでも定期的に必ず。ある種のバリエーションで。
他の人はそんな事はないのだ、と気づいたのは最近だ。それは引き寄せているのかもしれないし、自分がそこに力点を置いているから目につくという事なのかもしれない。
それなのに、何度か聞かれている事だというのに。言葉に詰まってしまった。ついこないだのこと。
あなたは何か専門性を持っていますか?ー はい。
何ができるの? ー ええと……
あなたの武器は? ー ……
答えられない専門性などあるわけがあろうか。何年もかけ、徹底的に訓練し、その関連と界隈の事を人にレクチャーもしていた筈なのに。回路を使用していなかった数ヶ月で全部がすっとんでいる、と背筋が寒くなった。
いや、冷静に言及すればすっとんだわけではない、のだろう。今その感情と感覚に相当する適切な言葉が手元にすぐに出てこない、の方が正しいかも。
正しさというか正確性を追求しようとした瞬間に。自分の拙い脊髄反射で出せる安易な回答はゴミガラクタに見えてしまう。
けれど会話がキャッチボールでタイミングでリズムだとすると、100パーセントの正確性を持った一年後の回答が適切で有意義な場合はそう多くはない、のだよね、うん多分かなりそう思う。
それを承知しているから、弾丸のように言葉を浴びせ合うMCバトルなんかを憧れの眼差しで見つつ、回転性の低さと反射能力の鈍さと記憶力の悪さの重石を手に、深い自己嫌悪の底無し沼にダイブするという自虐を定期的に行いたくなってしまうのだろうな。
「常に考えているから、必要な時に問われても反射で出てくるのだ。出てこないのは普段考えていない証拠。」という言説も聞き覚えがあり、それに大して至極もっともだと心の底から賛同する。
やり取りの中で会話の先にある未来が成立するなら、自分に潜ってばかりいないで目の前の人と素朴な思いつきを交換すべし。強度や正確性と自分が思い込んでいる拘りから解放すべし、ですよね。
でも。
でもってことではないんだけど、じゃあそんなこんなで言葉とは私に取ってはなんなのだろう。強固で堅牢な組み上げられた知性としての”考える”ではなくただ”思う”素朴な実感として、と脳内を泳いだ時にあったのは
他者に手で渡す「心」を
便宜的にやり取りできる形状にまで切り取ったもの。
だった。クッキーの抜き型説は自分の定説とっておきだったけど、今回のその思いつきは近いけどちょっと違う新しいアイデア。
そっか。切り取っているのは心か。
あの不可思議な、でも本質的な問答の後に、その人から言われた。
あなたの武器は、共感よ
瞬間、ギュン、と目をこじ開けられた気がした。この、他者とうまく感情のやりとりを行えない、瞬発力も反射能力も低いために、何を考えているかわからない、発言に体温が感じられないと言われ続けて久しいワタクシが。
最も世界に提供できるものについて。共感、と言い切ってもらった。
でもそうか、同化できないからこそ、わからないとトレースしながら必死で知ろうとする行為は、ある意味真摯な路程とは言えるかもしれない。
人の話を聞いている時、私の体はその話し手の持つ深い海に緩やかな重力のもと、糸巻きを持ちながら背中方向から潜っていく映像の中にある。急加速は頻繁にはこない、浮力と自重の間にある柔らかな速度と深い藍色のグラデーションの中でバターのようにひとさじ掬った心を分銅として一つずつ乗せていく。それが私にとっての“言葉”か。
没入して戻ってくる、という行為。潜水ならば、浮上に時間がかかるのも無理はないこと。
なんだかひどく納得した訳で、そんなこんなで今日のところは以上です。