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日本語のラレル文とヴォイス

こちらの記事は,言語学なるひとびと(言語學なるひと〴〵 Advent Calendar 2023 - Adventar)の記事の一つとして書きました。

私は大学に入学した当初は,そもそもまったく学問に興味がなかったが,たまたま参加した学部の講義で「動詞」の語彙的な意味のあり方というのをやっていて,「動詞」にはまってしまった。
「動詞って,文を支配してるんだ。。かっこいい。。」
と思ったのがきっかけで,動詞の研究を始めた。
特に動詞の「ヴォイス」を研究しているが,ヴォイスというのは動詞の中核的なカテゴリーで,自動詞や他動詞の対立もヴォイスに一部絡んでいる。

さて,ヴォイスで修論を書き始めると,柴谷方良という人の議論に出会った。この柴谷氏の議論には,ヴォイスの本質をとらえた定義もあり,多くを学んだ。しかし,柴谷方良(2000)「ヴォイス」『日本語の文法1 文の骨格』(岩波書店)の中で,日本語の受身文(「私は先生に褒められた」等)が「非人称受身」から派生したものだと書かれていて,ものすごく違和感を持った。これは絶対に違うと思った。ここから猛烈にヨーロッパ諸言語と日本語のヴォイスについて勉強し始めた。

非人称受身とは,スペイン語なら
(1) Se vive bien aquí.  ここはよく暮らせる(暮らし向きがよい)
 se  lives well here (seは再帰代名詞だが,中動態のマーカー)
のような主語のない文で,英語に直訳するなら「It is lived well here」のような文のことである。この非人称受身は,通常の人称受身(主語のある受身)が自動詞にまで用法を拡張させたものである。

ヨーロッパ諸言語の受身の重要な特徴として,他動詞の動作主を背景化して対象の変化を自動詞的に述べるという機能がある。これは,特に自動詞のない他動詞を自動詞的に述べたいときに使われる。例えば,
(2)a. 太郎がコップを割った。
 b. コップが割れた。
という2つの文は他動詞文と自動詞文であり,他動詞文は「誰が何をしたか」という動作のプロセスを語っているのに対し,自動詞文は,「何がどうなった(何が起きた)」という対象の変化(変化の実現)を語っている。
ところが,「置く」とか「行う」のような動詞には自動詞がない。そこで,受身形を使って,
(3) 外部に委員会が置かれた。
(4) 2日,本部で投票が行われた。
のように,受身文にすることで,「誰がやったか」という動作主を背景化して「何が起きたか」に焦点を当てて述べるわけである。

こうした他動詞の受身文の機能が,自動詞にまで拡張したのが非人称受身である。つまり,「人が暮らす」「人々が躍った」「人が生まれる」のような自動詞の主語までをも背景化して,「一般にここでは(人は)よく暮らす」という事態そのものに焦点を当てるわけである。これが一般的に非人称受身と言われるものである。

柴谷(2000)は,こうした非人称受身から日本語の受身が発達したと主張している。これはどう考えてもおかしいだろう。なぜなら日本語に古くからある受身というのは明らかに主語に視点があって,「私が人に~された」と述べて,影響を受けたことを表すことを本分としているからである。主語のない非人称受身からこんなに主語に共感を寄せる受身が発達するとは考えにくい。
そもそも,柴谷氏は,日本語の中に非人称受身が存在するのか否かすら議論していない。日本語に非人称受身があるとすれば,
(5) 日本では格差が拡大すると言われている。
のような受身文である。この文には,主語がない(志波2015)。
「[日本では格差が拡大する]と言われている」という構造である。

しかも、日本語には非情物(無生物)が主語に立つ受身が,近代(明治)以前はなかったと言われてきた(松下大三郎など)。実際,近代の欧文直訳の影響で非情物主語の受身文が広まったのは事実である。それまでの日本語の受身には,非情物主語の受身が非常に限られていた(志波彩子2018など)。

そこで,わたしが最初に目を付けたのは,なぜ古代日本語には非情物主語受身がなかったのか,ということである。
この答えは,修士論文執筆時にある図を書いていたときにひらめいた。

志波(2020)から


この図は,志波(2020)に載せた。
この論文は,古代日本語と現代スペイン語を対照したものである。
(いま問題になるのは左下の象限です。この図についてはまた別の記事で説明します)

古代日本語とスペイン語など,大きく違って当然だと思うかもしれないが,実は非常に似通った共通点もある。それは,「自然発生(おのずから然る)」の意味のマーカーから受身や可能などの構文を拡張させている点だ。

「自然発生」のマーカーとは何かというと、古代日本語であれば,ラ行下二段の動詞のほとんどが「自然発生」の意味の動詞だったと考えられる(志波2023)。ラレルは,このラ行下二段動詞の語尾の再分析から文法的接辞として取り出された。
これに対し,スペイン語は,再帰代名詞だったseが接辞となって,他動詞を自動詞的にする働きを拡張させた。例えば,「割る⇒割れる」「溶かす→溶ける」「しわにする→しわになる」などのように,他動詞を「自然発生」の意味の自動詞的な構文に持ち込む働きをしている。これはあたかも,ラ行下二段(レル)が「自然発生」の自動詞のマーカーとしてあったことと似ている。

この「自然発生」の構文は,動作主の介在なしに変化が起こるような動詞で構成される。上の「割る」等のほか,「壊す,沈める,曲げる,温める,乾かす」などである。
そして「自然発生」の捉え方は,例え動作主がいたとしてもその動作主を背景化して自動詞的に述べるという機能として,本来は動作主がいなければ起こりえない事態を表す動詞にまで拡張した。「書く,読む,話す,言う,研究する」などの動詞である。これらの動詞に「自然発生」のマーカーがつくと,動作主を背景化して「何が起きたか」という事態の実現局面(もしくは結果局面)に着目する構文となる。これが,「書かれる,読まれる,話される」などの非情主語の受身である。
スペイン語のseはこのようにして,非情主語受身を拡張し,さらに自動詞の動作主までをも削除する「非人称受身」を拡張させた。
つまり,「自然発生→非情主語受身→非人称受身」という発達である。

これに対し,古代日本語の方は,「自然発生」の意味をむしろ「人の自然発生的変化」として捉える傾向が強かった(志波2022)。例えば,「やつれる,つかれる,遅れる」のような人主語の動詞のほか,「濡れる」などの「非情物の自然発生的変化」を表す動詞でも,「袖が濡れる,床が濡れる」などのように,人の所有物が変化すると表現することで,人への自然発生的変化として語ることが多かった。この捉え方が「書く,読む,話す,言う」などの動作主を必ず必要とする動詞に拡張すると,「(私が意図していないのに自然に)手紙が読まれれる(自発)」「(あの人が恋しすぎて)手紙が読まれない(可能)」といった構文として発達したというわけである。

こうして,やっと先の「なぜ古代日本語には非情物主語受身が(ほとんど)なかったのか」という問いに戻る。その答えは,古代日本語では,西欧諸言語が非情物主語の受身を発達させたところに「自発」や「可能」を発達させたからだ,ということである(志波2018,2020)。このことをできるだけ確実な証拠とともに示せるように,今でも論文を書き続けている。

(アドベントカレンダーがXmasでなくて大晦日のカレンダーになってしまって申し訳ありません。ここまで読んでいただいてありがとうございました!分かりにくさもあり,申し訳ありません)

志波彩子(2022)「自然発生(自動詞)から自発へー古代日本語と現代スペ イン語の対照-」日本語文法史研究 6 
志波彩子(2020)「受身,可能とその周辺構文によるヴォイス体系の対照言語学的考察-古代日本語と現代スペイン語-」『言語研究』 158
志波彩子(2018)「ラル構文によるヴォイス体系―非情の受身の類型が限られていた理由をめぐって―」岡﨑友子ほか編『バリエーションの中の日本語史』






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