【あべ本#18】菊池正史『安倍晋三「保守」の正体 岸信介のDNAとは何か』
戦後自民党政権の「保守」の変遷
『表現者クライテリオン』の11月号の「安倍晋三は『保守』だったのか? 空っぽなのに、反左翼のポーズが『保守』に見えていただけではないか?」という問いかけに触発されて、「あべ本レビュー」も関連するテーマを扱ったものを取り上げます。
筆者の菊池氏は日テレの政治部記者。それだけに、『クライテリオン』が思想や概念としての保守を扱ったのに対し、こちらは戦後の政策や政局を通じて、保守主義のありかたや、それぞれ政治スタンスがかなり違う自民党政権内部の「保守」の変遷を追ったものとなっています。
そのため、このタイトルで「あべ本」とはいっても、安倍晋三本人についての記述は少なく、「岸信介から、安倍晋三に至るまでの自民党『保守』政治家たちの分析」と言えます。
去り行く「対米自立派保守」
「反米・自立」を志向した岸信介的保守は戦後しばらくは表舞台にちらちらと顔をのぞかせるものの、「対米従属は取りあえずおいといて、経済的繁栄を目指す」ことを主とする「戦後保守」にとってかわられてしまいます。対米自立どころか、「立党の精神」であるところの自主憲法制定、ひいては憲法改正すら後回しにされ続けてきた。
そうして20年以上が経った70年代に、「反金権・反米・反中・憲法改正」を掲げた青嵐会が登場しますが、瓦解。「青年将校」と呼ばれた中曽根康弘も、フタを開けてみればよく言えば柔軟、悪く言えば妥協ともいえる穏当な主張に終始。これは筆者の書き方に引っ張られた私の想像ですが、血判状をしたためるなどあまりに青嵐会が過激・原理主義的な様相だったために、中曽根としては「同類と思われたくない」という抑制が働いたのかもしれない。
ここは私も反省のしどころで、時に強い物言いで人を引き付けることの重要性は承知しつつも、「あれと一緒にされたらたまらない」と逃げていく人もいる、ということです。
「保守とは感覚」
それにしても、「岸的保守」にしても「戦後保守」にしても、「青嵐会的保守」にしても、戦後の政治史においてみんな「保守」とされてしまうのは、これ如何に。結局これは保守の難しいところなのでしょう。
本書では保守について次のような文章が引用されています。
保守とはイデオロギーでなく感覚
(イデオロギーのような)空論を軽蔑する精神、それが保守主義の精神(鈴木成高『戦後思想体系7』)
未知のものを信じないという習性、未経験のものに不安を抱くという気持ち…慣れたものを好む、既知のものに安心するという精神(同前)
……となると、小沢―小泉―安倍の系譜で訴えてきた「改革」はどうなるのか? というと、それは「必要だから、やむを得ないからやる」ものだという。
特に行財政改革については「改革の不徹底が効果を減じている」説と、「改革と言って大事なものを切り捨ててきたから惨状が残った」とする説があり、今や改革派の急先鋒は「維新の会」であるために、若者の政治認識においては「維新=革新 共産=保守」という構図で見られているとの指摘もあります。
また、保守は現実主義であり、革新は理想主義であるという言葉もあり、大方その通りとは思う一方、「現実主義が単なる現実追従になる」危険性に保守がアンテナを張っているかと言えば、そこはなかなか難しいわけで。
その件についてはこれまで…こちらや、
こちらでも取り上げているのですが……
要するに、「世の中はそう簡単に変わらないのだよ」と高みの見物を決めるのが保守でもなければ、テンプレ的に「これを言っておけば保守」みたいなこともなく、イデオロギーに陥らず、常に様々な立場から自分の言葉さえも疑い、検証しなければならない厳しいポジションだ、ということでしょう。
小泉ー安倍ラインで深まった対米追従
さて、冒頭の『クライテリオン』に倣っての問いかけ、「安倍晋三は『保守』なのか」については本書でも筆者の結論が書かれています。それはまあ置いておくとして、対米関係を考えたいという私のテーマに立って注目すべき点を指摘しておきたいと思います。
それは、小泉政権が対米姿勢を大きく転換し、「独立」でもない、戦後保守的な「したたかな同盟」でもない、純粋な対米追従という深みにはまり込んだのではないか、という筆者の分析です。
もちろん、時期が悪かった面もある。あの9・11を目の当たりにして、「旗を見せろ!」と言われて、断れたかどうかは難しい。ましてや外務省には、湾岸戦争のトラウマもあった(カネだけ出したが感謝されなかったというアレ)。しかし他国では過去の政策方針について総括がなされたのに対し、日本は「しょうがなかった」で済まされているのではないか、と。
また、この時の対米追従が尾を引き、安倍政権でもなし崩し的な対米追従が続いているのではないか、と。さらには歴史観についても、アメリカから靖国参拝を「失望する」と評されてヘコみ、東京裁判史観をほぼ認めたといっていい「70年談話」を発表。憲法改正はかろうじて訴え続けているが、いわゆる「戦後保守」的な面も見せつつ、数は持っていても突破力はない――。
本書は2017年刊行ですが、それから2年たち、安倍政権はまもなく「歴代最長在位」を更新しようかという段になっていますが、「果たして安倍政権とは何だったのか」を、よくよく考えないと何も答えが出てこない、という状況になるのではないか、という気さえしてきます。
それから、「慣れ親しんだものを捨てたくない」と思うのが保守だとすると、もはや70年も続いてきた日米関係を「変化させたくない」と思う方こそ保守である、たとえ従属でも――という事態も考慮せねばならず、いよいよもって私は「保守」を自称できないなあ…と思ったりもしました。
国家も、一人の人間も、「自律・自立」したうえでこそ本当の自由も、価値もあると思っており、そうでなければ「感覚としての保守」もなくなるのではないか、と考えているのですがね(これについては改めて書くかも)。
岸信介の遺志を受け継いだのか?
なお、本書でも明確に「安倍は反左翼」と書かれています。が、一方で「本当に岸のDNAを(政策・政治思想的な意味で)受け継いでいるのか」については疑問符がついています。
「あべ本」でも、あるいは市井の安倍批評でも、褒めるにしろけなすにしろ岸信介を引き合いに出す向きは多かったし、本来は岸的なものに反発を覚えるはずの立場の人が、安倍憎しで岸をアゲてしまうなんてことも起こりえる始末。
確かに安倍総理にとって、祖父と過ごした日々の中で「(安保反対の)左翼に対する反発」を募らせたことはあったでしょうが、それが思想やポリシーと言えるまでに昇華したのかどうかは分かりません。単なる逆張りでとどまった可能性もある。
当然、政治状況も時代も違うわけで、当時の岸信介と同じことを言っていたら政治家にはなれないと思うわけですが、少なくとも「岸の幻影」を安倍その人に投影して論評するのはあまり意味がないのではないか、という気が、本書を読んで一層高まった次第であります。