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安倍晋三はなぜ人を狂わせるのか

なぜ、安倍晋三という人は、ここまで人を「狂わせた」のだろうか。

2022年7月8日、銃弾に倒れた安倍晋三元総理。事件の捜査や真相究明はさておき、事件直後から「親安倍派」「反安倍派」のこの事件に関する書き込みが恐ろしいほどに続いている。もちろん一方は「なぜ」「どうして」「悲しい」というものから、その死を悼み功績をたたえるもの、あるいは「国葬を行うべき」とするものなど。

もう一方は「礼賛化に危惧」「(事件の犯人が理由に挙げた)統一教会と自民党、安倍との関係について報じよ」というもので、どちらの勢力もそれなりにウォッチしている筆者のツイッターのタイムラインは、双方の書き込みであふれることとなった。

結局のところ政権は7年8カ月も続き、安倍政権は国政選挙で6回も勝ち続けたのだから、少なくとも「国民に、選挙で肯定され続けた」ことは認めなければならない。その戦後最長政権の主役が、総理の座を引いて二年経たないうちに、選挙中の遊説で、日本にはほとんど存在しないはずの銃(改造銃だが)で銃撃され、命を落としたのだから、日本だけでなく世界の衝撃を呼ぶのも当然のことだ。

数えきれないほど多くの国が弔意を示しているのも、安倍首相個人の功績に対してのみではなく、「民主主義にのっとって選び続けたリーダーを失った日本国民」への弔意でもあろう。賛否が入り乱れた「国葬」の決定も、あまりに寄せられる弔意や「葬儀に参列したい」との海外の声に答えた面もありそうだ。

もちろん、党内の保守派や保守系の支持者への配慮もある。岸田首相としては、「民主主義に対する暴力に屈しない日本」をアピールすることで、ウクライナ侵攻を行ったロシアや、人権問題を抱える中国を抑え、「民主主義陣営を率いる日本」を印象付ける舞台にもなる。岸田首相も政治家である。ナイーブに「安倍さんを失って悲しいからだ」とか「安倍さんの功績を称えたいからだ」というだけの狙いではないと考えるのが自然だ。

それにしても、安倍総理を巡る両派の評価は、かねて同じ人間を見てのものとは思えないほどの乖離があった。

反安倍派の「罵倒」は見るに堪えないものだが、とはいえその死に対して「人権を重んじ、暴力を否定する」というお題目を突破できないので、はっきりと「自業自得」と述べることは多くの人が避けている。国内外から驚くべきほどに湧き上がる弔意と評価を前に、自分たちがかなりの少数派であったこと(あるいは「間違っていた」こと)を突きつけられたこともあってか、銃撃犯が犯行理由として挙げた「統一教会と安倍元首相との関係」に異様なまでにこだわっている。

反安倍派は「安倍が戦争を始める」「国際社会を不安定化させる」と批判してきた。2015年の平和安全法制の成立は、その頂点だった。だが世界は「安倍という偉大な政治家が、国際社会の平和と安定に貢献した」と弔意を述べている。もちろん、外交儀礼上の賛辞であることは論を待たないが、それにしても驚くほどの「評価」であることは間違いない。「国際社会との評価のズレ」は、反対派をして認知不協和を引き起こすに十分と言える。

一方の支持派は、誰も想定しなかった悲劇を前に、「反安倍が稀有なリーダーの命を奪ったのだ」と事件直後から「犯人」を上げて見せるいわゆる有識者や言論人のツイートやネットニュース記事の公開が相次いだ。また、こぞって「悲しみの表現競争」にいそしんでもいる。もちろん、悲劇だから悲しむのは当然のことだが、死を悼むよりも「私は悲しんでいる」とアピールしたいだけのではないかと思ってしまうような書き込みも散見される。

まだ初七日も終わらないうちから、「戦艦や空港に安倍晋三の名前を付けるべきだ」と先んじるものがいれば、「悲しいので動画配信します!」と泣いて見せるもの、挙句の果てには「フライング死亡報道」を行ったものまでがいた。「いくら悲劇的な亡くなり方をしたからと言って、政策や功績の評価は冷静にすべきだ」というまっとうな指摘すら、「死者に鞭打つのか」と批判し、中には「神格化して何が悪い」と開き直るものもある。

いずれも、両派からは「自業自得とは言ってない(反安倍)」「神格化などしていない(親安倍)」と批判が来そうだが、それに対しては「あなた自身はやっていないかもしれないが、あなたと同じ陣営の人たちの中にはそういう人がいますよ」と説明するほかない。

筆者も元は安倍政権に期待してきた一人である。と言っても第一次政権の時のことで、「安倍退陣」となった時には「始まったと思った保守政権が、これで終わった」と愕然とした。五年後、首相に返り咲いた安倍首相については、言い方は上から目線で恐縮だが「どこまでやってくれるのだろう」と少し引いた目線で見て来た。

筆者の周囲は保守派の人間が多く、第一次政権の挫折を「朝日新聞のせいで、安倍さんは傷つけられ、志半ばで政権を降りざるを得なかった」という認識が定着しており、第二次政権はそのリベンジ戦という様相もあって、第一次政権時よりもさらに熱の入った「支持」の声が飛んだ。

特に2010年代に爆発的に広がったツイッターがそれを後押しした。安倍元総理自身をして「SNSなくして第二次政権はもたなかった」と言わしめた通り、マスコミの報道に逐一反論し、「メディアが報じない真実」を拡散できる、あるいはメディアを通さず、政治家が直接国民に訴えられる手法は、メディアと戦う安倍元首相には奏功したのである。

これが、反安倍・親安倍両陣営の戦いを激化させた。もともと安倍支持の強い保守派は強いメディア不信を抱えていた。朝日新聞批判、左派言論人への批判も、保守系メディアの常連ネタだった。そこへツイッターが登場し、直に発せられる「サヨク」の言説に触れることとなり、「あべしね」「叩き切ってやる」などに代表される暴言の、あまりのひどさに愕然とした。

もちろん左派は左派で、「アクロバット安倍擁護」とまで揶揄された、保守派の安倍擁護や礼賛を見て、「全体主義だ」「このままでは戦争になってしまう」と恐怖を募らせた。

だが少し引いた眼で見れば、率直に言って「どちらも極端」だった。確かに安倍元総理の外交的手腕は評価されてしかるべきところはある。国内や、海外の一部メディアでは「極右」「国粋主義」のように語られる安倍元首相だが、今回の弔意以前に、「リベラルな指導者」として評する声もあった。

『フォーリンアフェアーズ』(2017年5月号)には、G・ジョン・アイケンベリー・プリンストン大学教授の〈トランプから国際秩序を守るには――リベラルな国際主義と日独の役割〉という論文が掲載されている。トランプ登場という衝撃に当てられたものではあるが、本文にはこうある。

〈リベラルな国際秩序を存続させるには、この秩序をいまも支持する世界の指導者と有権者たちが、その試みを強化する必要があり、その多くは、日本の安倍晋三とドイツのアンゲラ・メルケルという、リベラルな戦後秩序を支持する2人の指導者の肩にかかっている〉


日本ではほとんど見ない評価だろう。確かに親安倍派が「安倍さんは世界ではリベラル派」とほめて見せることはあったが、保守派が支持するリーダーが、リベラルであることを評価するのは、本来はおかしいはずである。「リベラルな戦後秩序を維持する政治家」である。安倍元首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げていたのではなかったか。しかし一部の右派を除いて、「安倍さんは保守の政治をやってくれていない!」と批判する者は、いてもわずかで、筆者も含め、保守内(右派内)で孤立していった。

筆者は、こうした安倍元首相を巡る賛否がなぜここまで乖離するのかの手掛かりを得るべく、安倍政権や安倍晋三本人について書かれた本を、内容の賛否を問わず読んできた。そこで分かったのは、安倍晋三という人物が「実に多面的であり、見たいような姿を見ることができてしまう」からだと理解した。

強いリーダーでありながら、持病を抱えている。

総理大臣という責任ある立場にいながら、時に子供のような物言いで応じる。

対外的な危機管理(安全保障)に関しては、「インド太平洋の平和と安定」という国際政治レベルの新しい概念を提唱できるほど徹底しているが、モリカケサクラ、コロナ対応など内なる危機管理にしては穴がある。

敵に対しては一歩も引かないが、身内は徹底して守ろうとする――。

前者を見るものは前者だけを見、後者を見るものだけは、後者だけを見る。評価が二分するのも当然だ。

公正を期すために筆者の考えを述べておけば、確かに「セキュリティ・ダイヤモンド構想」などに代表される、安全保障の枠組みは最大限に評価されてしかるべきだと思う。しかし対ロ外交は大博打を売って失敗したとみるしかない。そして平和安全法制の成立は必要だった一方で、憲法改正の必要性・緊急性を低下させ、「2項削除」論から「自衛隊明記」にまで後退させた。現実的と言えばそうかもしれないが、あるべき姿だったかと言えば別だ。

モリカケに関してはメディアの罪が重いと思うが、安倍元首相自身の国会答弁も問題を大きくさせた面は否定できない。文書改竄についてはたとえ官僚がやったこととはいえ、大臣が責任を取るべきだったと考える。

後出しではなく、このように考えてきたことは、これまで筆者が書いてきた記事をお読みいただければわかると思う。

しかし反と親の論争と言えば「後者を批判されれば前者を差し出す」、「前者を評価されれば、後者を差し出す」ことを繰り返しながら、「なぜあいつらは理解しないのだ」と互いに言い合うものでしかなかった。相手の言い分の一部でも認めれば話は通じたのではと思うが、おおむね「一歩たりとも引かない」構えであり、また相手への譲歩は「安倍をほめる/批判するなんて、右翼/左翼にでもなったのか」とばかり、味方陣営から背中を撃たれることにもなりかねないという厳しい戦いだった。

「国際社会に貢献しようが何をしようが、森友問題で死者が出たことは許しがたい」「何がモリカケだ、死者と言っても自殺だろ、大したことのない話で、国際社会から評価される功績を汚す気か」と、話は堂々巡りであり、その過程でまた互いに憎悪を募らせていった。 

さらに一部の人々は「安倍を否定するか肯定するか」に、「自分自身を賭けた闘い」を載せてしまった。「安倍を否定することがアイデンティ」「安倍をほめることがアイデンティティ」という双方の戦い。これが、一般の人が見れば引いてしまうような過剰な擁護と批判を生み出したのだ。

自己否定は、誰にとっても苦しい作業である。そのため、「部分的に批判・部分的に評価」というあるべき評価の姿勢が失われた。

なぜ、安倍晋三という人物は、ここまで人々を「狂わせた」のか。何か本人に、ある種の異様なまでの「何か言わずにはいられない力」があることも確かだが、おそらくは本人が「相反する要素を併せ持った人間であり、外交と内政で評価の大きくわかれる政権運営を行ったから」であり、人々が「総合的に判断する目」を失っていたからだとしか、言いようがないように思う。


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梶井彩子
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