《聖人-4》アッシジの聖フランチェスコ
こんにちは。
Ayaです。
記事を整理していて、《聖人》マガジンを去年の10月から更新していないことに気がつきました。
なので、気合いを入れて、最大の聖人・アッシジの聖フランチェスコを取り上げようと思います。
アッシジのフランチェスコ(1182〜1226)
フランチェスコは1182年アッシジの裕福な毛織物業者の息子として生まれます。
成長すると享楽的な生活に身を任せ、騎士として身を立てようとあらゆる戦場に馳せ参じていました。しかし、ある戦場に向かう途中、「フランチェスコよ、私の教会を建てなさい」というキリストからの啓示を受けます。
アッシジに戻ると、勝手に全財産を寄進したので、当然父親に激怒されます。すると、フランチェスコは服をすべて脱ぎ、「私の父は天の父のみです」と絶縁してしまいました。
家を飛び出したフランチェスコは、山の上に隠棲し、イエスさながらの厳しい修行生活をはじめます。
まず、お金は穢らわしいものと考え、お金は受け取らず、食べ物を托鉢でもらっていました。この托鉢はのちに彼が設立する修道会の基本の活動となります。
また、ラテン語ではなく、人々が理解しやすいようにイタリア語で説教するようになり、『神の道化師』と呼ばれるようになりました。
このような活動は最初冷ややかにみられていましたが、次第に活動に参加する者たちも増えていきました。フランチェスコは彼らを兄弟と呼んでおり、集団は『小さき兄弟団』と名乗るようになりました。彼らとともに、フランチェスコはイタリア各地へ宣教に行き、さらに仲間を増やしていきました。
しかし、彼らの活躍はある問題点がありました。そもそも正式な聖職者ではないフランチェスコたちが托鉢や説教をすることは禁じられていたのです。そこで、1210年アッシジの司教の仲介で、フランチェスコとその仲間たちはローマ教皇インノケンティウス3世と謁見します。はじめてフランチェスコたちと会ったローマ教皇はあまりのみすぼらしさに驚きましたが、渋々『小さき兄弟団』の活動を認めました。
こうしてローマ教皇の許可を得たフランチェスコたちは会則を作り、ヨーロッパ各地へ宣教していきます。当初男性の修行者のみだった会に女性や俗人も参加できるようになり、その組織はまたたくまに大きくなっていきました。
会の規模はどんどん大きくなっていきましたが、フランチェスコにはもうひとつの目標がありました。イスラーム世界への宣教でした。
彼は再び大胆な行動にでます。1219年、エジプトのイスラーム陣営に乗り込み、アイユーブ朝スルタンのメレク・アレ=カーミルにキリスト教への改宗を直談判したのです。もちろん丁重に断られましたが、フランチェスコは諦めず、イスラーム法学者との神明裁判まで持ちかけたほどでした。結局目標は果たせませんでしたが、エルサレムなどの聖地巡礼をしてかえってきます。
フランチェスコがこうして留守にしている間に、修道会は危機を迎えます。フランチェスコの戒律を厳しすぎるから緩和しようとする一派と、このまま維持すべきとする一派の対立です。エルサレムから帰国したフランチェスコは勿論維持すべきだと主張して、彼からみて堕落した修道士たちを叱責しましたが、流れは変えられません。結局古くからの同志に総長職を譲り、また山中に隠居してしまいます。
そんなある日、六翼の天使が現れ、強烈な光を発したので、フランチェスコは気絶してしまいます。目を覚ますと、両手・両足、脇腹に傷ができていました。これはキリストが負った傷と同じで、いわゆる『聖痕』と呼ばれるものです。
『聖痕』に勇気づけられ、宣教を再開したフランチェスコですが、すでに体力が落ちており、1226年に亡くなりました。
人々は大いに彼の死を嘆き悲しみ、死後わずか2年で列聖されました。《聖人-2》で述べたとおり、列聖するには様々な手続きが必要ですから、異例のことです。
フランチェスコ修道会は彼の死後も何度か分裂の危機を迎えましたが、長い間ドミニコ修道会とともに最大の修道会としての地位を維持しつづけてきました。
フランチェスコ自身も聖人として崇拝されつづけており、現在の教皇も彼への尊敬をこめて、即位名に選んだといわれています。
ひさしぶりに《聖人》マガジンを更新しました。フランチェスコは小鳥と会話できたといわれており、環境保護の守護聖人とされています。とても崇拝されていることがわかるエピソードですね。
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