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【自己紹介】わたしの今まで

こんにちは!
あやこです。
ご訪問くださり、ありがとうございます。

今回は改めて自己紹介というか、わたしの今までについてお話ししたいと思います。

実は…わたしは自己開示が苦手です。
するする自己開示できちゃう人がうらやましいなぁと思うくらい。
書くのが苦しいところもありました。
でも、それも全部ひっくるめて、今のわたしを形作るもの。
そして、なぜわたしが、発信をしているのかにつながるもの。

もしよかったら、長いですが、お付き合いいただけるとうれしいです。

わたしの今まで

幼少期

関西の工場に囲まれた町で、3人兄弟の長女として生まれました。
父は男子を熱望していたため、男の子の名前しか考えておらず、第一子が女子だと知って、慌ててわたしの名前を考えたそうです。
3つの名前候補の中から、母が「あやちゃんと呼びたい」という理由で、「あやこ」になりました。

年子の弟と、4つ下の弟。
「お姉ちゃんなんだから」と言われることはありませんでしたが、いつも余裕がなく怒ってばかりの母の姿を見て、自分がしっかりしなければという思いはいつもありました。
母がベランダで洗濯物を干している際、4つ下の弟が泣いたので、見よう見まねで覚えたオムツ替えをして、汚れたオムツを下洗いをしていたそうです。(覚えてないのですが)

一人で遊ぶことが好きだった幼稚園生の頃。
母の作るお弁当の量が多すぎて、昼休み中もほぼ食べていて(時には掃除の時間中にまで)、みんなと一緒に遊ぶ時間がなくても、あまり気になりませんでした。
残さず食べなさいという教えを守り、わたしはそんなもんだと思っていたのですが、見かねた担任の先生が母に伝えて、そこからお弁当の量は減りました。
(早く言いなさいよ、と後で叱られました)

その頃から、学校の先生になりたいと思うようになりました。
何がきっかけだったか、もうはっきりとは思い出せないのですが、天職と言うより天命に近いもののように感じていました。

父母は地元の中学校の同級生で、二人とも優等生。
同じ優等生でも、一見お調子者だけれど経済的にも家庭的にも苦労をして育った父と、努力せずとも何でもそつなくこなし、ミーハーで苦労知らずの母。
対照的な両者の影響を受けたわたしは、時代錯誤感の漂う優等生として育ちました。
やんちゃな小学校で先生に敬語を使うのはわたしだけ。
毎年代表委員でした。

やったはずの漢字ドリルを持ってくるのを忘れたときは、罪悪感にかられ、自ら宿題の3倍の量をやって提出した覚えがあります。
(さすがにもうしませんよ…?)

やる気は人一倍あるものの、体が弱く、子どもがかかりやすい感染症だけは流行の最先端。
いつも心に体がついてこない悔しさを感じていました。
めちゃめちゃ寝る子で、中1くらいまでは、21時就寝、7時起床の10時間睡眠のリズムでした。

父の仕事の都合で小6の11月に転校することになりましたが、人間関係の出来上がった転校先になじめるわけもなく、みんなが別れを惜しんで泣いている卒業式当日は、なんだか居場所がなくて、すぐに帰りました。


中学校

体力をつけたかったのと、かわいいスコート姿にあこがれてテニス部に入りましたが、全然ついていけず、走り込みが遅すぎて同級生に「やる気あんの?」と言われるレベルでした。

中学校の時に部活を途中で辞めて後悔している母の話と、せっかく買ってもらった道具を無駄にするわけには…という思いから続けましたが、その間に続々と仲のいい子たちが辞めていく姿を見て、中2の1学期で退部。
美術部に転向し、ゆるゆると気楽な日々を送りました。

中1の冬から中2にかけて膝の成長痛がひどく、朝起きあがれないことが多々ありました。
おかげで、中学校入学時は138㎝だった身長は卒業時に158㎝に。
(両親の身長から算出したわたしの身長の期待値は152㎝ですが、高校からも伸びて現在161㎝)
男子並みの成長期でした。

中2以降、周りの女子たちがふっくらと丸い体つきになって、体育の授業がおっくうになっていくのをよそに、全然ふっくらせず、むしろ体力がついて、かなり遅咲きながら運動能力が向上し始めました。
中3のときには、中1の部活走り込みで「やる気あんの?」と言った子に持久走で勝てるようになり、ちょっと気まずくなりました。

家では反抗期真っ盛り、長引きました。

「アホは嫌いや」と常に一番を求める一方で、女は男に絶対勝てない、と言う父。
自分が憧れていた名門の女子大に入れたがる一方で、娘が女性らしく育つのを許せない母。

両親それぞれが娘に求めることが違うのに、両方にこたえなければとがんばってきた反動が出た結果の反抗期でした。


高校

「学校の先生になりたいなら、〇〇高校→■■大学教育学部のルートがいい」

と塾の先生から、母が面談で聞いてきました。
教員採用試験を受けたときそうは思わなかったのですが、先生になるにはコネが必要と言われたそうです。
母方の祖母は教師でしたが、結婚と同時に退職しており、身近に教員はいません。
コネがないなら、実力で勝負。
その条件が地域の進学校から国公立大学の教育学部だったのです。

それなら、と考えて地域の公立進学校を目指しました。
背伸びした受験でしたが、中3で文化祭に行った時、自分がここに通う未来が見えました。
努力の甲斐あって、無事に合格。

しかし、最初の中間テストをノー勉で臨み、360人中288番という結果に愕然。
友達は100番以内がザラ。
これはまずいと思い必死で勉強しました。
みんな賢いので、中学生までの謎の全能感は一気に崩れ去り、得意ってなんだっけ?と本気で悩みました。

みんなわたしよりずっと賢いんだから、わたしが先生になれるわけがない

とすっかり自信をなくし、教師になりたくないと考え、進路に迷いました。

友だちのおかげで、中学の時に大嫌いだった数学が楽しくなり、流されるまま理系の道へ。
ただし比較的成績が良かったのは、古典(顧問の教科、絶対気を抜けない)、世界史、美術、体育(!!?)でした。
今思えば、この頃のわたしは自分の「足りないところ」ばかりが気になって、それを埋める道ばかりを選んでいました。
下から数えた方が早かった順位は、卒業間近には120番くらいでした。

部活では演劇部に所属しました。
役者一本。
肺活量がなかった時の癖が抜けず、早口になりがちでしたが、滑舌が良いこと・間の取り方がうまいことをよく先輩に褒められました。
あまり意識してこなかったのですが、音読は聞く人が聞けばどれだけ練習してきたかがハッキリわかる、と国語科の先生に言われました。

体づくりが楽しく、今まで全くと言っていいほどつかなかった腹筋が鍛えられました。
先輩の指名で部長になるも、力量が足りず顧問にしばしば叱られましたが、友だちに支えられて走り切りました。
顧問も叱るだけでなく、ちゃんと育つのを見守っていただけてありがたかったです。
(教育実習時もお世話になりました)

高3のクラスは男子30人女子10人。
女子は少なかったのですが仲が良く、そのうちの何人かとは、出産後も時々会う仲です。
お互い母になって、当時とはまた違った感情で、大事だなと思える存在です。

できない自分を直視しながら不安と焦りに追われつつも、理想を追い続けるという、しんどくも最高に楽しかった高校3年間でした。


浪人期

合格していた私立大を蹴って浪人の道へ。
基本的に男尊女卑の考えだった両親も、大学進学については「女に学は必要ない」とは決して言わず、応援してくれたのはありがたかったです。

現役の時は、高校受験の時の成功体験から、やり続ければなんとかなる!と視野を狭めて走り続けました。
理想を高く掲げつつも、きっとダメだろうな、という本音にふたをして、ただただ本番のことしか見ず、その先のことは考えないようにしていました。
そういう意味でも、当然の結果だったなと思います。

結果が出た後、しばらく放心状態になりましたが、このタイミングしかないと思って進路を変更。
女性専門のカウンセラーになるべく心理の道を目指しました。

「もっともっと」に疲れ、もう上を目指しながら走り続けたくないという思いから、現役で受験していてもおそらく受かっていたであろう大学・学部を第一志望にしました。

一日一日がとても長かった一年間でしたが、その分駆け足で量をこなしてきただけだった内容とじっくり向き合う時間が取れ、深く学べた時期でした。
わたしにとっては、この1年がすごく大事でした。


大学

第一志望の大学に無事進学。

2回生のコース選択の際、大学進学の時は心理の道を選んだものの、当時の心理の教授の考えが合わず、かといって福祉の道もちがうしな、と悩んでいた矢先、養護教諭養成コースがあるのを知りました。(今はないけど)
そういえば、小・中・高と保健室の先生にはお世話になったし、もう一度学校の先生を目指そうと決めました。

病弱だったときの経験のおかげで、小児のかかりやすい感染症は難なく頭に入りました。(ほぼ体験済み)

「自分の心と体に勝る教材はない」

このときも今もそう信じています。

教育実習では、母校の高校に行きました。
教育実習生が20~30人と多かったので、たくさんの授業を見学できました。

ある教育実習生の授業を見学していた時、教壇に立っていたその人が説明に困ってしまいました。
生徒たちはぽかんとしているので、その人は半ばパニック状態。

「自分はわかるのに、生徒たちがなんでわからないのか、どうして伝わらないのか、わからない」

そんな状態だったそうです。
旧帝大を現役で合格し、文学の研究をしている優秀な人でした。

自分が理解する能力と、相手にわかりやすく伝える能力は別物なんだ。
理解に時間がかかることほど、自分の武器にできるかもしれない。
もしかしたら、わたしの要領の悪さは、とてつもない武器になるのでは?

そう思いました。
実際、今のわたしを一番支えてくれている力が、昔大嫌いだった「要領の悪さ」です。
10代の頃は、何でもすぐにできてしまう人がうらやましくて仕方なかったけれど、成長期が遅く来てグンと伸びたように、アレコレ壁にぶつかって得たものは必ず栄養になると思えるようになりました。


保健室の先生(中→小→小)

募集人数若干名の教員採用試験に合格。
無事に合格した安堵感と、念願だった教職に着ける喜びでハイだったのもつかの間、いざ現場配属されるととんでもなく戦力外な自分に衝撃を受けました。
少し落ち着きつつはあったものの、いわゆる困難校。
熱心な先生が多い職場だったのですが、その分思いが強いため、職員同士ぶつかる姿を見ることもありました。
(保健室前の廊下で言い合いになって、帰る!!と言い放つ先生とか…)

うまく立ち回れず、メンタルを崩しながらもなんとか気持ちを立て直しながら続け、3年目で後輩ができてからは動けるようになってきて、

「保健室の主になってきたように思います」

と言ってもらえるようになりました。

夫と出会ったのもこの頃です。
1~2年目のこの痛みがあったから、夫の乗り越えてきたことの大変さに思いをはせることができたし、条件付きではなく、わたしという存在をまるごと大切にしてもらえるありがたみが心に沁みました。
出会って半年で入籍、半年で結婚式、半年で妊娠というトントン拍子でことが進んでいきました。

新任は原則4年~6年で転勤するという決まりがあり、小規模小学校に転勤になりました。
小学校は全然文化が違って、はじめは戸惑いましたが、アットホームな職場だったのですぐになじめました。

5年次研修で再会した同期に声をかけ、夏休みに自主研修を開きだしたのもこの時期からです。

夏に妊娠が発覚し、つわりでエアコンのにおいがつらく、電車通勤が苦痛で職場にたどり着けず、申し訳なくて途中下車したホームで泣きながら休む連絡をしたこともありました。
転勤してきて1年目だというのにもかかわらず、ありがたいことに、同僚も子どもたちも大事にしてくれて、心穏やかに産休に入ることができました。

長男を出産後、育休期間中に次男を妊娠したので続けて育休をとってから復帰しました。
4年ぶりの復帰、職員もガラッと変わっていて、もう一度転勤してきたような感覚でした。
息子たちも保育所になかなか慣れず、送るときは次男が泣き、迎えの時は長男が泣き、体調不良でのお休みやお迎えはしょっちゅうでした。

その後4年務めた後、前年度まで複数配置だった大規模小学校に1人配置で転勤になりました。
これだけの人数、日々の対応をこなすだけで精一杯。
息子たちはまだ小さいので、仕事に全振りというわけにもいきません。
それでも、仕事を持ち帰ることも、休日に出勤することもありました。

早く帰ってきて息子たちのお迎えをし、再び自宅で仕事をしていた夫にも、息子たちの体調不良の際に助けてくれた両親にも、感謝しかありません。
また、地区での繋がりを丁寧に作ってきたおかげか、たくさんの人が助けてくれて、なんとか進んでこれました。

「保健室の立て直しを見事に図った」

という評価をいただけて、まさにこれからというところではあったけれど、夫の転勤で退職する道を選びました。


退職、関東へ引っ越し

引っ越してきてすぐは学校が休みだったため、春休みが長引いているような感覚でした。
この期間に心と体を慣らしていけたのは、子どもたちにとってもよかったのだろうなと思います。

分散登校が始まり、徐々に学校が再開していくにつれ、今までの教育との違いを感じるようになりました。
自分の立場が変わったことや、出会った人の影響もあるかと思います。

関西弁で育った息子たちも、こちらではすっかり標準語です。
(突っ込み力は健在です)


オンラインアシスタント

半年ほどは専業主婦をしつつ心理学を学んだり、子どもたちのフォローを中心にしていたのですが、やはり教育にかかわっていたいと思い、オンラインアシスタントに応募しました。
発送業務から小さくスタートし、SNSの運用、資料作成、イベント企画など、徐々に仕事の範囲が増え、今では、代表さんに「わたしのすべてを任せている人」と言ってもらえるようになりました。

自己研鑽のために在籍していたオンラインスクールでも、スタッフとしての声がかかり、オンラインイベントのアシスタントを経験しました。
講師さんをサポートしながら、スクールのメンバーと一緒にイベントを運営するのは、学校で授業をしていた時の感覚に似ていて、神経を研ぎ澄ませつつも、とても楽しく温かい時間でした。

今はこのスクールを離れてしまいましたが、この時に得たつながりは今も続いています。


これから

なぜ、発信をしようと思ったのか

わたしの今までの仕事も今の仕事も、主に誰かを支える、いわばお母さんポジションの仕事です。
授業をすることはあっても、担任の先生ほど前に立つ機会は多くなく、積極的に自分から発信することはありませんでした。

でも、いろんな人が相談しにきてくれたり、困ったときに意見を求めてくれたりすることがよくありました。
わたしに話すと、新しい考えが得られる、気持ちが整理される、と。
保健室の先生という担任の先生とはまた違った視点から見た学校・子どもたちの姿を知っているから、というのもあるかもしれません。

もしかしたら、わたしの体験してきたこと、やってきたことは、わたしが思っている以上に誰かの役に立つかもしれない。
わたしがもっと早く知っておきたかったなぁと思ったことを、まさに今探している人がいるかもしれない。
似た思いをしている人の希望になるかもしれない。

そんなふうに考えるようになったからです。


これからやっていきたいこと

自分の歩んできた道をここまで書いたこと、自分と向き合ったこと、今までになかったなと思います。
また、子育てをしていく中で、自分の育ちが大きく影響しているということ、もう一度自分を生き直し、育て直していることに気づきました。
もっと前から気付けていれば、社会人1~2年目の人間関係で悩んだ時期がもっと生きやすかっただろうなと感じています。

これからも、日々の気づきや考えたことをつづっていきますので、このnoteを読んでくださるあなたにとって、少しでも手がかりになればうれしいです。

もし、

「モヤモヤしているけどうまく言葉にできない」
「いろいろ試してみたけど手詰まり…」

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ここまで長文だったにもかかわらず、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
またお立ち寄りいただけると嬉しいです。
姿は見えなくても、心はすぐそばにあれますように。

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