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宇都宮借家横丁の昭和史(その3):言葉の丁寧な奥様の話

私の家の三軒先に、○山さんという一家が住んでいた。ご夫婦と女の子二人、男の子三人の七人家族で、賑やかに暮らしていた。
ご主人は銀行マンなので、上から下までいつもピカピカで、お出かけになっていた。背が高く、すらりとしていたから、尚目立ったのかもしれない。髪はオールバックにし、ポマードをテカテカにつけていた。金縁眼鏡も粋な感じで、ワイシャツはいつも真っ白で、ネクタイは毎日のように替えていた。背広も季節に合ったもので、シャンとしていたし、靴は毎日奥様が磨いてピカピカにしていた。さすがは銀行マンだ。お金を取り扱う職業だから、信用が大事で、リッチな第一印象にこだわっているのがわかった。

それに比べて、奥様の何と地味な事か・・・。地味というより、何と身なりに対して無頓着なのだろうと、呆れるほどであった。五人の子どもの世話に追われているのかもしれないが、いつ洗ったのかわからないような着物に、衿のあたりが垢で黒光りしている。上っ張りを見飽きるほど着ていた。
そのうえ奥様は肥満体であったので、動くたびに着物の前身ごろが開いてしまい、何となくだらしのない格好だった。髪も毎日梳かしているのか疑いたくなるように乱れていたが、手ぬぐいを被ってごまかしている感じだった。
しかし、ご主人の物や子どもの物はよく洗って、庭の物干し竿一杯に掲げてあった。男の子三人がよく汚すらしく、黒や紺のズボンやシャツの行列、その中に女の子のピンクや黄色のブラウスや花模様の浴衣などで、満艦飾であった。特に前の日が雨天の時などは、奥さんは山のような洗濯物で苦労していたようだ。何しろその頃は洗濯機などなかったし、昭和十二・三年頃の貧しい時代だったから、自分のものなど後回し後回しになっていたのだろう。

ご近所の口さがない主婦たちの噂話によると、
「あの旦那さんは、あの奥さんで満足しているのだろうか」と一人が言うと、
「あーら、満足しているわよ。子どもの数を見ればわかるでしょ」と、もう一人が言ってクスクス笑うのである。
そのくらいアンバランスのご夫婦であった。
でもこの奥様はとてもやさしい人で、子どもたちを叱るにも「だめよ」「およしなさい」「そこへ登っちゃいけません」などと言っているので、三人のやんちゃな男の子は、お母さんの言うことなど耳にも鼻にもかけず、走り回っていた。
「ホラホラ、言うことをきかないと、お父さんに言いつけますよ」と最後の切り札で脅かすのだが、いまだかつてお父さんに告げ口などしたことのないお母さんを経験しているから、平ちゃらである。泥んこ遊びをするやら、地べたに座り込むやら、板塀の下をくぐり抜けるやらで、いくらでも洗濯物を増やしてくれるのである。

また、このお母さんは、特別言葉の丁寧な人で、何にでも「お」をつけるので、しばしば笑い種になるのであった。
「お大根、おじゃが、お茄子、おりんご、おみかん、お魚、お肉、お味噌、お醤油」等はまだ良いとしても」「おカボチャ、お人参、おサツ(サツマイモ)、おトマト、おキュウリ、お玉ねぎ、おキャベツ、おタマゴ、お油、お天ぷら」等々、枚挙に暇がない。
銀行マンの奥様だから、お品良く振る舞っているのかなと勘繰りたくなる。身なりや外見とちぐはぐなのがおかしい。

この地域はお店が少なかったので、郊外の方から引き売りの八百屋さんが、毎日リヤカーに野菜を積んで売りに来た。高野さんという八百屋さんが面白い人で、
「エー、おやおやでござあい。お人参におかぼちゃ、お玉ねぎにおきゅうり、おキャベツ、おトマト、おじゃがにお大根、何でもございまあす。どうぞお車の方までおこし下さーい。エー、おやおやでござあい」と○山さんの奥さんの真似をして、面白おかしく売りさばくので、お車ならぬリヤカーの品はすぐ空っぽになって、早々と帰っていくのであった。何が幸いするかわからないものである。○山さん一家はおイモ類が好きらしく、いつもおじゃが、かぼちゃ、さつまいもを買っていた。
ある日、長女の正子ちゃんが学校から帰るなり、
「お母さん、明日からお弁当のおかずはおタマゴにしてね」と言う。
「どうして?」と聞くと、
「だってお友達に正子ちゃんの明日のおかず当てようか。今日おじゃがだから、明日はおカボチャね。明後日はおサツでしょうって言われたの。お母さんは、おじゃが、おカボチャ、おサツ、おじゃが、おカボチャ、おサツの繰り返しなんだもの。私恥ずかしいわ」と言うのである。

さあ、お母さんは明日から大変である。朝は先ずお父さんをピカピカで送り出さなければならないし、長女の卵焼きは作らなければならないし、次女の幸子ちゃんは何も言っていないが、長女が卵焼きなら次女にだって卵焼きということになるから、二人分である。
それにおイモ類の煮物は、実はまだ学校に行っていない下三人のやんちゃ坊主達のおやつだったのである。朝ご飯を食べさせても、やんちゃ坊主達はすぐお腹を空かすので、十時と三時のおやつにおイモがないと困るのである。

こうして山のようなお洗濯やら、お掃除やら、炊事やらと、毎日が忙しく過ぎて行くのであった。子育てが終わらないうちは、成り振り等かまっていられない人生が、女の人生なのだろうか。

○山さんの奥さんがゆっくりするのはいつなのだろう、等と余計な先々の事を考えてみたくなるご一家だった。

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