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年齢を感じる瞬間に、それはただの数字と捉える習慣

毎日、stand.fmで産婦人科医高尾美穂先生の「リアルボイス」を聴いている。リスナーからのお悩みに応えるというよくあるラジオのパターンなのだけど、話す内容が本当に秀逸なのだ。どんな悩みにも温かく寄り添い、肩の力がふっと抜けるようなアドバイスになるほど!と膝を打つこともしばしば。
刺さった言葉たちは、私のライフワークである更年期サポートにもきっと役立つとメモされて、その出番を待っている。

今回のレターは小学生の子どもをもつ46歳の女性の話。高齢出産のため周りのママは自分より若く、自分の年齢を隠してきたけど、ひょんなことから最近年齢がバレてしまって嫌な思いをしているとのこと。
なるほど、そういう思いもわからなくもない、けど・・・。

高齢出産あるある


私も38歳で出産したので、49歳の今もまだ子どもは小学生。少し共感できるところもある。自分では気にしないと思っていても、周りが気にするのか、やたらと年齢聞いてくるママ友がいたな。保育園のママ飲み会で「自己紹介しよう、みんな自分の歳も言おうね」って言ったママとは最後まで仲良しにはならなかった(笑)。(自分から言うから強制するのはやめてくれー)
自分と同じか、少し年上のママを見つけると、少しほっとしたり仲間意識を持ってしまうのも事実。仲良くなるママは年齢よりも考え方や価値観が合う方が優先されるのもまた事実。

年齢の欄の必要性


新聞やテレビのニュースで、容疑者でも被害者でも、いいネタもそうでないネタも名前(年齢)で表記されることが多い。芸能人の年齢を知るのもたいていニュースから。タレントさんはまだいいものの、一般庶民の年齢って必要か?と思うことがしばしば。

悩み相談の人も子どもが何かで表彰されたという地方紙の記事で親の年齢を明かされたそうだが、それがメディアのルールだとしたらそろそろ変えるべき時なのかなと思う。
学校もしかり。毎年、緊急連絡先を記入する用紙に親の名前と年齢の枠がある。それ必要か?と毎回思うんだけど、いちいち抵抗感を覚えるのは、年齢を書きたくないと思う私が気にしているだけなのか。

49歳にして思うこと


だんだん自分の年齢がわからなくなるというのはこの年代の人と話しているとあるあるみたい。今年49歳。アラフィフが楽しい!やら、オバサン万歳!やらを声に出して言ってみたり、そういうコミュニティに属したりしていると、なんとも居心地が良いこと。
年齢なんて考えてみれば毎年一つずつ数が増えていく整理券の番号のようなもの。年齢で区切るとかね。アンケートで40−49歳というのにチェックしている時に、来年は次のチームに行くのねと思うだけ。
今は50代を迎えることに何の抵抗もなく、むしろ50周年パーティーを盛大にしたいと思ってるくらい。(同級生に会いたくなってきた)

気にするのは年齢より動けるカラダ


20歳の肌はみんなきれいでツルッとしている。30歳も体質やお手入れで違いが出てくるけど大体は元気はつらつ、40歳からは食べ物や体の使い方で明暗が分かれてくるとき、50歳からはそれが顕著になってくる。
肌ツヤもそうだけど、なんと言っても動けるカラダであるかどうか。

もうすぐ79歳になる私の母なんて、見た目は完璧なお婆さんだけど、卓球、ソフトバレー、インディアカをやっていて、最近ラケットテニスなるものを始めたらしい。階段はヒョイヒョイと上がり、朝からよく食べ、今が人生で一番楽しいと言っている。
そういえば、母は52歳でマラソンを始めたせいか、更年期はなかった(感じなかった)と言っていた。おしゃれで綺麗な憧れの母というわけではなかったが、今はこういうお婆さんになりたいと心から思う。

人と自分の年齢を比較して気になっちゃう時は、優先すべきは体年齢と切り替えて、カラダと向き合う時間に切り替えよう。スクワットしたり、ストレッチしたり。
目指せ30年後のハッスル婆さん!



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