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曼荼羅とわたし:Relationship with Mandala Ver.1/ 2024.10
曼荼羅について語ることは、わたしにはまだ何もない。
だから、誰かにわたしの曼荼羅に興味を持ってもらっても、何も渡すことができず、いつも申し訳なさを感じる。
嬉しさは(もちろん)ある反面、ちょっと困ったりもする。
(でも嬉しいから話したい気持ちの方が大きいヨ(小声)
毎日曼荼羅を描いたり、曼荼羅を見て、それに関連することに触れてはいるけれど
“わたしが”曼荼羅をたくさんの人に広めたい!などという大それた目標(野望?)もないし、「曼荼羅が本当に大好き!」といった熱い想いも、実はない。
必要な人が必要な時に描いて、必要なタイミングで適切な癒しが起きたりあらゆる変容や気付きが起こるといいのでは〜と、ぼんやりとだけ思っている。
そりゃもちろん曼荼羅は好きだけど、曼荼羅を描く理由は「好き」が起点でない気がする。わたしに描かれるものとして、曼荼羅がある。わたしにとって曼荼羅を描くことは、たぶん特別なものではなくて、ごく自然な、例えるなら歯を磨いたり食事をするような生活の一部みたいになっている。
もしかしたら、わたしは曼荼羅を描いていないのかもしれない。
曼荼羅がただそこにあるだけで、わたしは曼荼羅が描かれるための筆記用具を準備して、時間と空間を準備して、椅子に座る。
ペンを持つ、コンパスを持つ、たったそれだけのことをしているだけなのかもしれない。
曼荼羅が先にあって、わたしがいる(認識される)。
わたしと曼荼羅の間は、スンとした静かな空間にある。曼荼羅に気付くことができてよかったと思う。
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迷いの存在
先日、とある知人と会った時に、彼女の絵に対して「絵の中に迷いがある、だけどそれが好き」と声をかけられたという話を聞いた。
わたしに関しては「迷いがあるから、曼荼羅を描いているんだろうな」と、ふと思った。
わたしは、何かにたどり着くために描いているのかもしれない。
確証はないけれど。
辿り着いてしまったら、どうなるのかはわからない。
わからないし、曼荼羅を描かなくなるような気もしてちょっと寂しい気持ちになる。でも、完璧な終わりは来ず、無数の終わりをただ通過していくだけなんだと思う。
「迷い」も曼荼羅の一部なのだ。
何かを完成させていくプロセスの中にわたしたちはいるけれど、完成を目的とせず、すべてを含めての「今ここ」を生きることが、私たちに課せられたこと、そして何よりのギフトなのではないだろうか、そんなことを思った。
だから、今日も曼荼羅に描いていく。
後記
とはいえ、
曼荼羅描いてていいところ、たくさんあるよ。
自分との対話ができる
集中して瞑想状態
言葉にできないものを表現できる
全体性の受容
ちなみに、デメリットは「肩と首と頭皮が凝る」こと。(切実)
今はまだ感性ベースのみで曼荼羅に触れているけど、アカデミックな関わりもしていきたいと思っているよ。書籍が難しくてなかなか思ったように進まない現状です。。
曼荼羅って光を当てながら見ないと細部が見えなかったりする。そのへんも、最近仏教を学ぶ上での関連性あるな〜なんて発見もしつつ。そういうのも絡めて認知して周知できたらいいなって思ってる。
「曼荼羅は、世界であり人生である。」
いろんな準備も整い次第、「人に伝える」という役割が現れてくるのかもしれないなーなど思っています。
これからも引き続き探求してまいります!
曼荼羅描きたい人、集合〜
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人生は苦しく、美しいものです。
喜びに満ちた日もあれば、悲しみに暮れる日もある。
花は芽ぶき、咲き、枯れていきます。
生まれてくるものは、死んでいきます。創られ、壊されます。
月は欠け、月は満ちます。
月は満ち、月は欠けます。
わたしは生まれ、死に向かい、また生に向き合います。
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