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ひねくれチョコレイト2
電子音のメロディーを聞きながら自動ドアを入ると、レジカウンターの向こうで伝票らしき用紙の束をチェックしていた寝ぐせの店員が振り向いた。
私が「あの……」と声をかけたのと、彼が「いらっしゃいませ」と言ったのは同時だった。
彼がきょとんとした顔でこちらを見つめている。
急に気恥ずかしくなって、咳ばらいをひとつした。気を取り直して口を開く。
「あの、これ。買ってないのに袋に入ってたんですけど。レシートもあります」
「あぁ!」
彼は寝ぐせを揺らして破顔した。
整った顔がくしゃくしゃになって、より一層親しみやすい雰囲気になる。
突然の満面の笑みに今度は私がきょとんとしてしまった。
「すみません。それ、俺っす」
「は?」
「だから、俺が。お客さん、いつも来てますよね? 今日、ホワイトデーじゃないですか。逆チョコ、みたいな」
「はぁ」
「ちゃんと言わなかったせいで、申し訳ないです」
逆チョコって、なに。ていうか、なに。私が毎晩、自炊もせずに弁当と缶ビールを買って侘しく晩酌していることを認識されてるのね、まず。いや、確かに毎晩来てればね。もう常連だしね。顔を覚えられてもおかしくはないよね。ものすごく恥ずかしいけれど。
でもやっぱり意味が分からないのはホワイトデーに逆チョコよ。この明らかに学生さんな若者に、なんで寂しい独身アラサー女が逆チョコ?
そもそもバレンタインじゃなくてホワイトデーでも逆チョコってあるんだっけ?
人間、不測の事態に遭遇して脳が混乱をきたすと、訳の分からない余計なことまで考えてしまうものかもしれない。この時の私は、とてもじゃないけどまともに思考が働いているとは言い難かった。
ぽかんとしている私に、彼は自分の左胸のネームプレートを指さして見せた。
「浅利です。浅利冬真。よろしくお願いします!」
「は、はぁ……」
気の抜けた返事をする私に構わずに彼は満足そうに笑うとまたレジ奥のカウンターに向き直って作業を再開した。
しばらくぼんやりと彼のちょっと猫背気味の背中を眺めていたけれど、はたと我に返る。
待て待て待て待て。なにがよろしく? なにが逆チョコよ。
思わず左手で握りしめてしまっていたチョコレートをレジカウンターに置いて、まくしたてた。
「ちょ、ちょっと、どういうこと? まったく意味が分からないんですけど。どうしてあなたが私にチョコをくれるのよ。お金払います。おいくらですか」
彼はまたきょとんとした顔で私を振り返る。そしてすぐにもう一度ネームプレートを指でさした。
「あなた、じゃなくて冬真で」
「は?」
「冬真、で」
「名前なんて、どうでもよくて」
「よくないです。気になってる相手には覚えてもらいたいっす」
「はぁ?!」
この子、なに言ってるの。
えーと、何かのいたずら? それともあれかな、さっきまでペットボトルの冷蔵庫の扉を雑巾で吹いていたギャル店員と賭けでもしてる? あ、もしかして罰ゲーム?
よく漫画とかで見るよね。スクールカースト頂点のグループの男が何がしかのゲームで負けて罰ゲームでクラスでも友達がいないような根暗な女子に告白するの。あれ絶対、心をえぐられるよね。めちゃくちゃたちの悪い悪戯。
「気になってるって」
「言葉の通りですよ。いつも来るお客さん……あ、えーと、お名前は?」
「わ、若村」
答えなくてもいいはずの質問に咄嗟に答えてしまう自分が情けない。
彼は照れくさそうに頬を指の先で掻いて、はにかんでいる。
「若村さん。若村さんか」と彼は噛みしめるように言った。
「若村さんのことが気になってたんです。いつも綺麗なお姉さんが弁当買っていくなぁって。お金はもう俺が払っちゃったんで、その代わり、来年のバレンタインはチョコレートください」
「はぁ?!」
あー、もう。さっきからこんなことしか言えない。
彼の無茶苦茶な言い分になんとか言ってやりたいのに、うまく言葉が出てこなくて地団太でも踏みたい気分だ。
突然、年下イケメン男子にこんなことを言われるという、この先の人生で二度とないかもしれない、いや、むしろ夢なのかもしれないと思うほどの、こんな事態にもドキドキとか舞い上がるとか、そんな気持ちはまったくなかった。
なんとか言葉をひねり出そうとした時、彼が「あ、すみません。後ろ、並んでるんで」と言うから振り向くと、さっき雑誌を立ち読みしていた中年の男性が缶コーヒーを持って訝し気にこちらを窺っていた。
「す、すみません!」
慌てて横に一歩ずれると、男性は首を傾げながらため息をついてカウンターに缶コーヒーを置いた。
いやいや、ため息をつきたいのはこっちなんです。私だって意味が全然分からないんです。
男性は会計を終えた去り際にも呆れの色が滲む一瞥をくれて自動ドアを出ていった。
呆然とその背中を見送りつつ心の内で「なんでそんな目で見られないといけないのよっ!」と叫ぶも、そんなことは男性にも彼にも響くわけもなく。
「なんか、すみません。色々と驚かせちゃって」
「ほ、本当に! 無言でビニール袋に入れられたって、買ったつもりのないものが入ってるって思っちゃうから!」
って、やっぱり言いたいのはそんなことじゃない。
彼は「そうですよねぇ。すみません」と平身低頭しているけれど、私の動揺は落ち着かなかった。
「とにかく、えーと、浅利さん」
「冬真です」
そのくせ苗字を呼んだ私に対して真顔でそんなことをのたまう彼に、困惑して、やきもきして、言葉に詰まって。私は文字通り唸った。
「うぅ……」
「お金は本当にいただけません。俺の気持ちです。受け取ってください」
「え、ちょっ」
カウンター越しに身を乗り出して冬真くんが私の手をとってチョコレートを握らせた。
冷たくて、長い指。
目をじっと見つめられて、思わずたじろいでしまう。
「今夜はこれで。また来てくださいね。お客様がお待ちですんで、そろそろ」
「えっ」
振り返ると今度は駐車場でたむろしていた若者のうちの二人がポテトチップスの袋を手に、こちらに無遠慮な視線を投げかけていた。急いで端に避けると、二人が顔を見合わせてクスクスと笑った。
恥ずかしさに猛烈に頬が熱くなる。穴があったら入りたい。なんの悪戯よ。なんの拷問よ。さらし首か!
私は逃げるようにコンビニをあとにした。
マンションは目の前なのに、道端で握らせられていたままだったチョコレートのセロハンをむしゃくしゃする勢いに任せて剥き、口の中に放り込む。
湿った夜のにおいのなか、口内から甘い香りが私の心をざらざらと撫でるように鼻から抜けていった。
それから。この店以外に近くにコンビニもないので、なんとなく気まずい思いを抱えながらもそれまで通り店に通った。
冬真くんはあれ以来、爆弾発言をすることなく、ただ自然に「今日もお疲れ様です」とか「チョコ、新しい味入りましたよ」とか「今日の髪型、良いっすね」なんて以前にはなかった言葉をかけてくれるようになった。
最初の方こそかなり警戒していた私も、なんとなく一人で疲れて帰ってきた時にそんな風に気にかけてもらえるようになると次第に少しずつ言葉を返し、会話を楽しむようになっていた。
レジを打ってもらう、たった三分ほどの短い会話。
それがいつの間にか自然に馴染み、冬真くんに笑いかけられるとホッとするようになっていた。相変わらず寝ぐせを愛らしく思う自分もいた。