passed hyper quarter 雷雷雷
2019年の1/4が過ぎていて、あゝ春になった!
わたしの苗字は桜木なので、桜の木をガン見する季節です。木の下に立って花越しに空を見上げるとおじいちゃんたちに直結している気しかしないね、逆に撃たれているみたいな。
Polarisのタイト過ぎるドラムとウェット過ぎない態度(「ただ、ある」ということをちゃんと認めてあげるような)に何度だって救われるし、YUKIが何のことを歌っているのか分かるようになったのは20代後半になってからだったな、というようなことを、春になると思います。サニーデイの「セツナ」ライブver。桜 super love。お花見はあと2回やろうとしている。
今更ですが最近のキュンアンセムはこれです↓
「そうさ 住所一緒のとこにしよう 約10畳くらいの部屋でどう?」
KREVAと岡村ちゃんがエッチすぎるので是非聴いてください・・・
1月〜3月中旬までは、担当する野外スペースで、期間限定のサウナのイベントをやっていました
Instagramで #検索をすると、もっと雰囲気が伝わるかと。
真冬の都心の野外にフィンランド式のテントサウナ登場(男女で水着)+10度を下回る水風呂からの外気浴からの、美味しいビール&ワイン&ご飯、という説明しても「えっ、どういうことですか????」と言われ、現地を案内すると「うわ〜!すげーw」と言われ、体験いただくと漏れなく「さ、最高・・・」とみなさま整いきる、かつてこんな満足度が異様に高いイベントがあっただろうか、と本気で思えるパワフルコンテンツだった。
さらに振り返ると、昨年12月には『一緒に見るだけでお互いに惹かれ合う』をコンセプトとした体験型クリスマスツリーというイベントが1ヶ月間あり、
そのまま1月〜3月中旬までサウナを2ヶ月やっていたので、個人的にも、こんなに長期のイベントの運営をし続けたことはなかったので、とても勉強になったしタフになった。ライブハウスのブッカーをやっていた時は、内容も客層も違うイベントを毎日やっていたけれど(毎日服装や化粧を変えたりして)、同じイベントが何日も続いていく中での試行錯誤、そのフィードバック、日々のメンテ、口コミが広がっていくさま、リピーターの方の存在、特にTV・雑誌・WEBなどのメディアに多く取り上げていただき、イベントの受け止められ方が変わっていくのをリアルタイムで体感できたのは色々と糧になった。その後に電気グルーヴの瀧さん報道で、わかりやすくメディアの持つ役割が問題視されることにもなったけれど、以前よりもそういうものに実感が持てるようになった。
もう1つ運営しているスペースでは、仲良しのお寿司でカレーの福地くんが最高のグループ展ならぬ、グルーヴ展『High Energy Creator』を企画してくれて、メインビジュアルとして私の作ったコラージュを使ってくれた。ヘッダーのやつ。超気に入っている。40組ものアーティストが集まり、雰囲気はラフなのにまとまりがあって、展示としてとっても見応えがあった。タイジさんの作品が今までにない(包容力という言葉を遥かに越えて掌の中に戻ってきた、いや初めからここにあったんだよとハグされているような)愛だった。また是非やりたいです。
コラージュは、退職して羽ばたく女の子にも作った。
個人的にはサウナの途中で、髪型をOOIOOのyoshimiさん風アシメにしたり(モテないからショートカットにしろと言われた分かってるpeace)、アーユルヴェーダシェフのしょこたんに「豆が合う体質」と言われてフムスにハマった。
見て見て私のフムスコレクション↓
三浦大知の武道館にも行ったし、NUMBER GIRLの復活が発表されて、完全に今まで死んでしまわずに生きていてよかったと思った(自分の葬式でサッポロ OMOIDE IN MY HEAD 状態を流すことを決めていたのに、生で見れるなんてことがあっていいのだろうか??)懐古ではなくて狂う目が未来に定着していく世界になってしまった。
社員旅行で香港とマカオにも行った。
香港の美大でのクラフトマーケットの居心地がよかったこと、とにかく上に伸びるパステルカラーのビルや団地たちの生活感、マカオの洋風mixギャンブルシティ、海老雲呑の煌めき、お粥の美味しさ、足つぼマッサージ、回転テーブル。
旅行は自分が知らない場所に馴染んでいく瞬間が楽しい、やはりいつか旅行ではなくて、滞在、をしたいな。単純なので、サブスク解禁されたTBHRの「路上」を聴いてネパール欲がふつふつ。TBHRはひょっとして何かを成し遂げた気になったんじゃねえのかという時に聴くし、私こそデカイ感謝をTBHRに言いたいです。
飛行機の中ではずっとアニメを見ていた。「インサイド・ヘッド」とか「Sing」とか「ズートピア」とか「シュガーラッシュ」とか、示唆的で最高すぎるよ。YUKIと一緒で、優しくとっつきやすいけれど深くて、色々な経験を踏まえるとよりグッときてしまう世界観。
最後に春なのでエモい気持ちになるし、いよいよ令和にもなるし、身近な各所でもラストダンス感が出てきているのだけれど、エモいというのは単純に「懐かしい(もう戻り得ない)」ということだけではないな、ということを思ったので書きます。
私は「ああ10年前の記憶がある!」ということに19歳だか20歳の時にいたく感動した感覚をよく覚えているのだけれど、それから更に10年以上が経ち、その感動した記憶自体がもう10年前のことになったから、当時感動した「10年前の記憶」というのは20年前の出来事になった。そうやって時間が経って俯瞰できるようになったからこそ、把握し直せるような、再度握手をしようと思えるような、そういう精神環境は以前は持ち得ていなかった。簡単に黒歴史(笑)みたいな蓋とラベルを付けて、頑丈な鍵が何個もついた引き出しの奥に封印していたけれど、それらも引き出しの中で確実に変化が起きていて(勝手に咲き誇ったりしていて)それを自分が見ても良いんだとか、それぞれをそれぞれで生きてきたんだね、と握手ができるようなことって素晴らしいな、と思っていて。そしてそう感じている間に大体その棚自体が消えてなくなっている(消失じゃなくて床に埃の跡だけがある感じ)。物理的に握手ができないことも多多あるけれど、それを祝福できる自分が存在していることが嬉しいし、願うならばその対象も同じような気持ちでいてくれたら嬉しい、というような、とにかく勝手に超絶祈っている。そういう状態を総称して、私はエモいと感じるので、決して昔のままで居てほしいだとか、昔はよかった、みたいなことではない、と思うようになった。というか、咀嚼するのに7,8年かかってしまうようなものが私を構成しているから、3日後には忘れられてしまうような揚げ足取りのようなキャッチボールに身が入らないんだ、ということがちゃんと解った。当てつけや牽制のために使われるような言葉についても、前より敏感になったかもしれない。
NUMBER GIRLも自分にとっては昔の懐かしいものという感じがしないし、音楽自体が群衆や集団を咀嚼しようと試みる時にいつも必要だったしこれからも、という気持ち。ここ数年で何度か人生が回転して、さまを変えて戻ってきているなという実感+あと何回回転するかなあという気持ち、そういった感覚をスルーせずに暮らしていきたい。