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230123

元旦から手書きの日記をつけ始めた。友達とは別に日記が居るという感覚が芽生え、それが煮立ったり希釈されて、抽象の濃淡が目視できるようになったら、このように放流することにした。展示タイトルや作品名や曲名やイベント名を決めるときのように言葉を扱いたくて、昔は好きな歌詞をカットアップしてブログの件名にしていたことを思い出した。そのあとに作り始めた画像のコラージュは、言葉にならないものたちのカットアップです。

友達に「幸せを感じる瞬間ってどんなとき?」と聞かれ「言葉を超えて深い共感ができたとお互いに思い合えたとき」と答えた。そのあと、そういった瞬間に起こる、自分が消える感覚について話をした。あの感覚の正体はなんだろう。映画『ケイコ目を澄ませて』を観たあとに、映画館のフロアに貼られていた関連インタビューを読んでいると、

例えば日常生活では、ときに言葉で言い表せない「スペシャルな瞬間」が訪れます。お互い目を見合わせて「いま、すごいことが起きたよね!」と無言でうなずき合うような。

と書いてあった。類似したことを思っていると思う。愛されて亡くなった方を偲ぶような飲み会で、その方の写真を囲みながらその方の話をしていたら、突然その写真立てが壊れた。月命日の、ちょうどその方が亡くなった時間に。すごいが不思議ではないので、温度がちゃんと残る。

平行して、毎日のように文字や声で届いていた日記が途絶えて情緒が細切れになった。どうすれば息継ぎができる止まり木になれるか考えていたが、その計画は立ち消えになった。体内に蓄積している過去の感情や、過去の自分がその感情をベースに配置した部屋を、今どう捉えていいのか分からなくなり混乱した(今もしている)。あの時があって今がある。髪を青に染めた。魚には瞼がない。傾聴するときの自分は透明だ(消えている)と思う。

告知、について考えることが多い。私は何かを企てて告知をするという動作を10年以上繰り返しているが、その企ての大小に関わらず、そこには必ず人が関与しており、知らない誰かに何かを届ける、もしくは伝えようと、その動きが発生していることが殆どなので、告知はすなわち、人の感情を取り扱っている(取り扱おうとしている)と言える。それを実践するために、いくつか利き手矯正的な洗礼を経て、各シーンにおける監督や主役や舞監は誰なのか、どんな人が客席に座り得るのか、それを想像したり観察している。自分はしばらく話の速さが求められる(それがないと排除される)世界にいたなと思う。熱が入って説明過多になると離れてしまうこともある。

友達、についても考える。山崩しのように少しずつ周りの砂がなくなって、棒の所在がグラついているとき、みな私よりも露骨に悲しんだり怒りを露わにしていて、私はその友達を見ることでやっと悲しい気持ちになる。起きた出来事を反芻するよりも、その状態の友達を見ることの方が遥かに悲しいのだ。と同時に、友達は新しい砂の塊として、棒を支えようとしていることに気付く。その地場のおかげでやっと私は立っているし、私は呆気に取られておそらく反射が鈍っている。私の怒りはヒステリックではない。時間差で過ぎる心象や、遠くなっていく感覚を観察している。その状況を認め続ける。

共存し得る(し得ない)こと、についても考える。作家のプライベートな側面と作品の価値自体は、別々に存在し得るかどうか。自己肯定感の低さとその人が持っている能力や魅力は、連動せずバラバラに存在し得るかどうか。

コロナ当初、二度とライブに行けなくなるのではという恐怖からアコギを買い、いつでも部屋で音楽を奏でられるようにしたが、結局一度も弦を張らないまま3年が経とうとしているので、アコギを処分。ライブを見ている時にだけ発生する思考回路がある。


▼聴
KAREN『Marine』
ROTH BART BARON『Ghost Hunt(Tunnel)』
宇多田ヒカル『ともだち with 小袋成彬』
坂本龍一『20220123』

▼読
35歳からの反抗期入門
BAKA IS NOT DEAD!! イノマーGAN 日記 2018-2019

▼食
里芋とほうれん草のグラタン
オムナポ
鯖ポテサラ
寿司×沖縄

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