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湯けむりは夜風になびく

重たいドアを開けると、あたたかい空気がゆるりと頬をなでた。

ちゃぷん。ぴちょん。ざば〜ん。

さまざまな水の音が四方へ反響している。
最近になって銭湯の良さにハマり、夕方の早い時間帯に訪れるのが習慣となっている。
この日も銭湯で疲れを癒やすために仕事を早くに終わらせ、るんるん気分で訪れた。

湯けむりに混じって愉快な笑い声が聞こえた。
ご婦人方が身体を洗いながら世間話をしている。いつも見る顔ぶれだ。

みんな顔馴染みなのだろう、桃色に染まった頬をゆるませておしゃべりに夢中になっている。以前、隣り合わせた女性が、「もう70歳なのよ」と教えてくれたことがあった。中には背中を洗い合うペアもいて、その平和すぎる光景にわたしの頬もゆるんだ。

身体を洗おうとしたら、シャワーがついていない場所しか空いていなかった。ここの銭湯は不思議な造りで、3つ並ぶ洗い場の左側はなぜかシャワーがついていないのだ。
仕方なく真ん中からむりやりシャワーを取って洗おうとしていたら、湯に浸かってほかほか茹で上がった女性が、「あっち使いんしゃい。ほれ、空いとるけん」 と、奥の洗い場を指差した。
ざぶんと湯から上がり、「わたしはもう洗ったけん、荷物は横にどけてよかよ」 と、シャワーで身体を流し始めた。以前、70歳と教えてくれた方だ。きびきびと動いていて、血色がよい。

お礼を伝えると、「そいじゃ!」 と、にっこり笑って脱衣所に向かって行った。まだ開店して15分しか経っていないのに、これぞまさしく烏の行水だ。

身体を洗い終わって浴槽に右足を入れる。足先からジンと熱が伝わってきた。熱い。アツアツだ。いつもすぐには入れない。まずは足湯で慣れていき、半身浴、そして全身を沈めていく。

肩まで浸かりきったころには、身体の底からため息が漏れた。
い〜い湯〜だ〜なハハハン♩
お馴染みのメロディーが脳内を流れる。
たまに笑い声が重なる。
い〜い湯〜だ〜なハハハハン♩
この節しか覚えてないからエンドレスなのだが気分がいいから気にならない。
ひとりだったらきっと声に出して歌っていただろうな。それほどまでに愉快で爽快で心地よい。

湯上がりにはコーヒー牛乳が待っている。
この瞬間のために生きている、と、やや大げさなことを思いながら乾いた身体に注ぎこむ。あまったるい液体が全身に染みわたる感覚は何度経験してもたまらない。普段はまったくコーヒー牛乳なんて飲まないのに、なぜか風呂上がりに飲みたくなるのはわたしだけではないはずだ。

地元には町の銭湯はなかったのに、ここに来ると不思議と懐かしい気分になる。古いタイルや扇風機、テレビから流れる相撲の掛け声が、今はなき祖父母の家を彷彿とさせるのかもしれない。
小学生のころ、祖父と一緒にお風呂に入ると、タオルでクラゲを作ってくれた。空気でふくらんだ球体を手で押しつぶすと、ぶしゅうう、とあっけなく萎んでしまうのが幼心に楽しくて、作っては潰してを繰り返し、祖父と妹と笑い合ったものだった。

コーヒー牛乳を飲み終わって靴を履いて出入り口のドアを開けると、番頭さんが「お気をつけて〜!おやすみなさい!」と、はじけるような明るい声で見送ってくれた。なんとも清々しい気持ちだ。

ほかほかと温まった身体と心に夜風がさらりと通り抜けた。



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