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機屋と書いてはたやと読む-3-

前回、某ホテルで7年間ブライダルフォトを撮り続けたことを書いた。

そしてその某ホテル写真室での仕事を辞めた7日後、7月初旬私は英国へ向けて飛び立った。英国本土の中央の一番南に位置するサウスハンプトンという街へ向かった。そこはタイタニック号が出港した港町で、ヨット文化が大変盛んな街。ロンドンから特急で1時間30分程しか離れていない地方都市で白人の割合の高い街だった。

そこで2ヶ月間、主に語学学校とホームスティ先で過ごす。その2ヶ月間が重要だった。その語学学校にはいつもの夏なら日本人が10人くらい在籍するという。しかしこの年は私を入れて3人。一人は受付なのどスタッフの方。もう一人はかなりの英語レベルでヨット競技の国際審判も勤める方。ほとんど学校にいない人だった。だから全く日本語に触れる機会もないまま2ヶ月を過ごした。それが大変良かった。渡英した頃は全く英語を話せなかった私だが、この学校を終える頃には日常会話はほとんど不自由しなくなっていたのだ。それと大事な出会いもあった。今もFacebookなどで交流が続く友人たちとの出会いだ。その学校にはかなりな数の国籍の学生が在籍していた。フランス、イタリア、カタール、韓国、コロンビア等々。それも本当に面白いポイントだった。私がよく時間を共にしたのはスペイン人の子たちだった。

その後ロックフェスティバルで有名なワイト島で半年間過ごす。ここでは本格的な英国で生活、特に印象的だったのは本物のクリスマスを体験できたこと。そしてそのホームスティ先を拠点にフランス、イタリア、スペイン、スコットランド等々、様々な国へ一人で旅行にも出掛けた。

楽しい英国生活を終え、帰国した私は某写真館で正社員の職につくが、約10か月で辞める。団体行動・集団生活がとにかく苦手である事を自分に疑い始めた頃だ(遅い)。

集団生活が出来ず、押し出されるように2009年フリーランスのカメラマンになった。カッコよく聞こえるが、無職同然。それは空前のリーマンショックの年だった。

しかしそこに転機があった。無職(!)になってから2ヶ月、ある時「写真教室をやってくれないか?」と誘われた。時間は学生よりある。もちろん快諾した。そこで誘ってくれた人に聞いた。「写真教室といっても、皆で何を撮るの?」

その人は言った「一宮なら繊維でしょ?」

この言葉をさも当たり前のように言う彼女の顔をじっと見たことを覚えている。すごいショックだったのだ。写真を志したのは中学生の頃。でも一度も繊維産業を題材に写真を撮る、だなんて思ったこともなかったからだ。彼女は岐阜出身の人。一宮にどっぷりではないから見えていたことなのだろう。

ショックを経て、やってみることになった。つてを頼りに機屋さんを探した。

そしてまさか私が今のような活動を何年もしつこくしていいようとは、当然その時の私は想像などできなかった。

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